2016年7月25日月曜日

「ポケモンGOは危険なゲーム」架空生物に現実世界が大迷惑、開発者も当惑?

「ポケモンGOは危険なゲーム」架空生物に現実世界が大迷惑、開発者も当惑?



(1/5ページ)【任天堂】
国内で配信がスタートした「ポケモンGO」。道頓堀に現れたポケモン=大阪市中央区の戎橋(南雲都撮影)

 スマートフォン向けゲーム「ポケモンGO(ゴー)」の無料配信が22日、日本でも始まった。先行配信された欧米などではすでに爆発的人気を呼んでいる。架空の生き物「ポケモン」を現実世界で探し歩く新しい遊び方で、利用者数を記録的に伸ばす半面、熱中のあまり事故や事件が多発し、所構わず出没するプレーヤーのマナー違反に多くの人々が眉(まゆ)をひそめる。今年5月、開発者でもある株式会社ポケモンの石原恒和社長は産経新聞のインタビューに対し「ゲームと現実の境目が取っ払われ、ポケモンのビジョンに近づく」と期待感を示していた。世界中で鳴り響く「狂想曲」を予想していただろうか。(牛島要平)

祈りの場で「ポケモン」探し回る無礼

 米ワシントンで、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の犠牲者を慰霊するホロコースト記念博物館。静かな祈りに包まれるはずのこの場所で7月上旬、展示そっちのけでスマホを手に遊びに興じる姿がみられるようになった。

 「ナチズムの犠牲者を慰霊する場でゲームを遊ぶのは不適切だ」。博物館はそうコメントした。

 同様の事態は戦没者が眠るアーリントン国立墓地でも起き、同墓地が「この場にふさわしい礼儀作法ではない」とツイッターで声明を出した。

 訪問者が遊んでいたのは、米国では7月6日に配信開始された「ポケモンGO」。衛星利用測位システム(GPS)などの位置情報を利用して、スマホの地図上に表示された位置まで移動すると、スマホの画面に映し出された現実の風景にポケモンが出現し、捕獲や対戦ができる。http://www.sankei.com/west/news/160725/wst1607250005-n1.html


ポケモンは好きです
程々に楽しみも・・・・

再生核研究所声明175(2014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像



どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。

虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。

そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。

人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。

世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。

多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。

このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(



再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;

再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 

再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;

再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;

再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 

再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;

再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;

再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;

再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生

)、



一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。

しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。

人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。

以 上

再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ 

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上

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