2016年7月25日月曜日

記事 NATROM2016年07月24日 00:00若年性脳梗塞が増えているというのは本当か?

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NATROM2016年07月24日 00:00若年性脳梗塞が増えているというのは本当か?




日刊ゲンダイDIGITALに若年性脳梗塞についての記事が載った。「若年性の患者数はこの10年で5割も増えている」のだそうだ。

■患者数は10年で5割増 ゆとり世代で「突然死」急増のナゼ | 日刊ゲンダイDIGITAL

 脳梗塞といえば中高年以上の病と思いがちだが、最近20、30代に増えているという。テレビ東京アナウンサーの大橋未歩(発症時34)など、30代前半の発症例も珍しくないが、ここ数年、ゆとり世代の脳梗塞患者が目立つというのだ。

「いわゆる『若年性脳梗塞』は医学的定義では50代未満です。ただ近年、ストレス要因を中心とした20代の発症例は増えています」(山野医療専門学校副校長で医学博士の中原英臣氏)

 年間7万人が死亡する脳梗塞のうち、若年性は約1割。若年性の患者数はこの10年で5割も増えている。

臨床的な感覚では若年性脳梗塞が「10年で5割増加」しているようには思えないので調べてみようとしたが、日刊ゲンダイDIGITALの記事には根拠となる文献や数字が挙げられていない。ネット上で検索すると「最近10年間に1.5倍に増えているとの研究もあるそうだ」などいう記載は見つかるが、やはり文献にたどり着けない。

若年性脳梗塞の発症ではなく死亡数であれば、政府統計のサイト*1で調べることが可能である。現時点で最新の平成26年、および、10年前の平成16年の年齢(5歳階級)別の脳梗塞による死亡数を比較してみた。

f:id:NATROM:20160724164538j:image

「保管統計表 死亡 死因  第5表 15歳以上の死亡数,性・年齢(5歳階級)・死因(選択死因分類)・配偶関係別」より作成。

少なくとも若年性脳梗塞の死亡者数はここ10年では増えていない。むしろやや減少気味である*2。記事タイトルの「突然死」とは、記事本文からは脳梗塞による死亡だとしか読めないのだが。なお、脳梗塞に限らず脳血管障害全体であっても、あるいは急性心筋梗塞や不整脈および伝導障害でも、若年層の死亡数は「急増」していない。

「突然死」というところには目をつぶって、日刊ゲンダイDIGITALの記事の「10年で5割増加」というのは死亡数ではなく患者数であるとしよう。「脳梗塞を発症する患者数は5割増えたが、治療法や診療制度が改善された結果、発症しても死亡に至ることが減り、結果的に死亡数は微減した」という可能性はなくもない。一方で、実質的な若年性脳梗塞の患者数はあまり変わらないが、検査方法や診断機会が増えたため、見かけ上の患者数が増えたという可能性もある(韓国の甲状腺がんの「急増」はそのパターンである)。

脳梗塞治療の進歩や若年性脳梗塞のリスク因子を考えるに、見かけ上の患者数が増えただけである可能性が高いと私は考える。脳梗塞治療は、他の医療分野と同様に少しずつ改善はされてきているが、「発症は5割増しだが死亡数は変わらない」ほどのブレイクスルーは聞かない。また、若年性脳梗塞の原因は、通常の脳梗塞と同じく動脈硬化のほか、動脈解離、もやもや病、抗リン脂質抗体症候群などであり*3、やはり10年で5割増加は考えにくい*4。

日刊ゲンダイDIGITALの記事には、心理学博士だという鈴木丈織氏のコメントも載っている。

 20代半ば~後半のゆとり世代がなぜ突然死するのか。心理学博士の鈴木丈織氏が言う。

「ゆとり世代の特徴として、親に甘やかされてきたこと、学校の規則も緩く伸び伸び育てられてきました。ストレス耐性が身に付かなかったのです。社会に出て、上下関係や厳しい規則を持った上司、先輩とのやりとり、存在そのものがストレスになっています。同僚と比較されたり、失敗をとがめられるたびに血管の萎縮を加速させているのです」

私が調べた範囲内では、鈴木丈織氏の主張を裏付けるような医学的根拠はまったく発見できなかった。いったいどのような方法で「同僚と比較されたり、失敗をとがめられるたびに血管の萎縮を加速させている」ことがわかったのか、たいへんに興味がある。

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*1:■政府統計の総合窓口 GL01010101
*2:厳密に言えば死亡者数ではなく死亡率で比較するべきであるが、死亡率でも増えていないことは確認した
*3:若年者脳卒中診療の現状に関する共同調査研究若年者脳卒中共同調査グループ(SASSY-JAPAN)、 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jstroke1979/26/2/26_2_331/_article/-char/ja/
*4:あるいは、「全年齢の脳梗塞の発症/死亡に占める若年性脳梗塞の割合が5割増えた」という報告を、「若年性脳梗塞の患者数が5割増えた」と誰かが誤って伝えたものが広がっている、という可能性もありそうだ。マスコミ報道の際に、もともとの数字の意味が誤って伝えられることはよくある。http://blogos.com/article/184570/

健康には気を付けます:

再生核研究所声明217(2015.3.13) ご自愛を ― 健康第一

2015.3.7.風呂から上がり運動をいつものようにしているとき、健康の重要性に思いを致し、その要点を纏める構想が湧いたのであるが、声明でずっと直接的には取り上げられておらず、基礎の基礎に思いがいっていないことを知って愕然とした。健康問題について言及したのは 次の声明で、次の部分である:

再生核研究所声明203(2015.2.4)人間とは何か、人生とは何か:
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。
健康ならば、夢も、希望も、感動も湧き、人生は嬉々としたものになるだろう。
すなわち、人間とは、生命力のもとに 精神的に存在して、始めも終わりも 生命作用そのものによって支配され、我々が単に生かされている存在であることを知るだろう。それは、目覚めとその後、睡眠に入るとき、日々確認できる。人生も同じようなものである。されば、個々の人間を生成させている、育成させている環境の重要性に想いを致すということが大事であるということが 本声明の趣旨である。しかしながら、我々が単に生かされている存在であるということは 何を意味するであろうか。―
しかしながら、良い環境、良い健康状態、さらに、 良い食、良い人間関係、音楽、芸術、創造性などは 人間を元気づける。
人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。

上記のように 人間が 肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる 存在であるとすれば、その存在を支えている健康状態の維持は 最も基本であると言える ― 実際、 まず健康と世に広く謳われている ―
しかしながら、再生研究所声明でもそうであるように、最も大事なことが意外に疎かにされている現実は広く見られる。 特に、若い時代の暴飲、暴食、過度の無理や疲労、危険な冒険や危ない事、それらの影響は 世の道理として、人生の後半に 徐々に影響が現れるは 広く、世に見られる。 そこで、生命の基本定理:  生きて存在しなければ 始まらない  を深く受け止め、 健康に気を付けようが この声明の趣旨である。
毎日、毎日、起きている時も、寝ている時も 血液を全身に送っている心臓、毎日、毎日 食されている食物を消化し、エネルギーに変えたり 組織作りに活かしたりしている消化系器官、呼吸器官など諸々の器官も同様であり、何時も働いている視覚器官、聴覚器官等々。我々の身体の総体に対する謝意は 最も近くの存在に対するものであり、その意味における ご自愛は まこと基本的な精神でなければならない。
もちろん、健康とは、心身、社会的にも健全な状態であるから、夢、希望、志,熱情,愛などが湧き心も生き生きとした状態であり、人間関係なども 良好なものでなければならない。
以 上

再生核研究所声明233(2015.6.9)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで
今回は精読、熟考した後での感想ではなく、通覧しての感じとして纏めたい。荘重な作品に対して軽薄な感想は畏れ多いことと感じられる面もあるが、夜明け前 ― よっちゃんの想い の中でも述べたように、― 私は、 専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。 ― と述べ、素人の簡単な所見が ある種の価値を持つのではないかと思い、通読の感じを述べ、精読の後、各論にして できれば意見表明をしたいと考えている。これは、それだけ貴重で大きなものを感じたということである。
そこで、今回は 全体的な感じを纏めたい。
まず、どのようにして書かれたのかと考えると、その壮大な構想、深い考察、繊細な表現には 驚嘆に値すると著者に対して畏敬の念に駆られる。多分、歴史を学び、関係文献を整理して、 登場人物像を描き、特に西行については 著者の世界観も反映させ 人物像を描き、平安時代末期の時代背景を元に 当時の世界を 人物を織り込んで纏められている。 それゆえに、 その荘重さに 驚嘆させられる。人物像や社会、政治混乱の様子を 時代を 映画を見るように見事に描き出しているのであるから、実に凄いと感じてしまう。
そこで、実像と虚像、フィクションの関係で いろいろ警戒する必要もあるが、当時の世相、権力の現場、社会、人々の人生観を拝見出来て、とにかく得がたい経験、世界を覗いたように感じるだろう。当時の宮廷内部の様子も相当に深く触れられていて、感じるところが大きい。皇室の絶対の権力および、それが揺らいでいく状況もよく描かれている。大きな世界、時代に触れて、世界が大きく拓かれたように感じるだろう。世の多くの価値については、省察が求められるだろう。
宮廷内の権力争いの現実が 様子が相当事実的に描かれているので、歴史の真実の姿についても、大いに学べるのではないだろうか。源氏や平氏の様子なども全体的によくわかる。
勿論、西行の人物像の描写が 本の主題である。 それは西行の人物像、事実に基づいた著者の解釈とみたい。
西行とはどのような人物であろうか。
相当な教養と芸を身につけられた、領地をもつ(相当な豪族、朝廷の役人)出の武人であり、天皇の近くに衛士としてばかりではなく仕えた存在であったこと、宮廷内の権力闘争に相当に詳しく、仕えた天皇関係者のために尽くされた方である。主に歌人と僧侶として生き、僧侶としては道を求めたり、修行するというより、歌を作ることが生きる証で、目標として生涯をおくったことがよくわかる。僧侶としては深い仏教の教えや教義や修行するという立場ではなく、一般的な常識的な有り様であり、出家で生活の型が大きく影響を受けている くらいの関わりではないだろうか。人生の捉え方は、自然とともに存在して、自然のなかにとけていく存在として、相当に達観された精神で、しっかりと筋が入った人物であることがよくわかる。歌人としての西行は、画家が絵を書き、数学者が自分の数学の理論を建設するような 志、求道と同じように考えられる。自然を愛でて歌に表現することが 人生の目標であったように見える。歌に高い価値を見出した人物として、世に稀なる存在ではないだろうか。厳しい時代に生きて、超人的、悟りの境地に達せられ、深い、人生世界に対する認識を持たれていたことがよく分かる。― 生きるということがどのようなことか、結構明白に描かれていて、大いに学ぶべきことが多いのではないだろうか。また相当な人物と広い交流が有ったことも大いに注目されるが、歌をとうして社会で大きな存在であったことが よくわかる。書を読まれた方は 一様に西行に対して、尊崇の念を抱かれるのではないだろうか。醜い権力争い、産業経済的な貧しさとは別に、歌などの広い、深い文化、生き方の有り様など、 現代人よりある意味で ずっと高い精神的な文化を有していたと、大いに恥ずかしさが感じられる面は多い。
西行は相当に満足な気持ちをもって人生を閉じたと言える。そのような面でも読書後に、好感の印象を受けるのではないだろうか。多くの人が、生活におわれ,  育児家庭のことで心を悩まされるのが人生であるとも言えるのに対して、西行の場合、大きな豪族で生活の基礎がしっかりしていて、歌をとうして、広い交友関係を持ち、出家された僧侶として、家庭を持たなかったのであるから、自由な豊かな人生を楽しめたとも言える。その中心をしっかりと捉えたい。

今後、繰り返し、精読を続け、いろいろ感じたところを纏めていき、理解を深めたい。

以 上


再生核研究所声明254 (2015.11.2)  愛が無ければ観えない ― について、 更に

既に、

再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
で、愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。

と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 凄い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
と言及している。
さらに、そもそも人間とは何者かと問い

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148

そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロー選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰め込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
と結んでいる。
愛とは 共生感に基づく喜びの感情であると 表現した。 全く経験したことのない世界に触れると、全然、共感、共鳴しないで、ただ暗号が並んでいるように感じることがある。 純粋数学などでは純粋な抽象理論であるから 顕著に遭遇することがある。専門外だと始めから最後まで、殆ど何も分からない研究発表も珍しくはない。 共感、共鳴が、更に愛の感情まで高まるには相当な経験に基づいた共通の基盤が必要ではないだろうか。 民族の文化や、男女関係の愛の問題についても言える。愛の素である共生感が深まるための背景について言及している。最近のゼロ除算の理解の仕方から実感してきた感情である。
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるとされ、ゼロで割れないことは定説である。 そこで、突然、ゼロ除算が可能であると言い出され、可能であると言われたとき、人はそんな馬鹿な、今更何を言っているのか? また結果が、従来の数学と全然違う、強力な不連続性を述べていることに触れられると、そんな数学は始めから、正しくとも興味がないと発想するは多い。 全く新しい結果となると、共感も、共鳴もなく、愛着も湧かないのは 我々の心の仕組みからも言えるのではないだろうか。
他方、客観的には何の、あるいは大した意味や、動機が無くても、いわゆる未解決問題として提起された問題などで、永く挑戦を続けていると どんどん愛着、愛情が深まり、湧いてきて、いわば問題にハマって行く状況は 数学界などで、個人や、グループとしてもよく見られる現象である。― 不可能、未解決と言われると、挑戦したいという心情と 解いて、いわば競争に勝ちたい という心情が湧くのは当然で、結構数学の研究を推進する原動力になっているのではないだろうか?
この声明の趣旨は、愛は 共通の基盤、経験、関わりの深さで深まり、我々の心は、生命のあるべき方向での 関わりの深さで 愛も深まるという 観点に想いを致すことである。

                                                        以 上

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