PL学園 初戦敗退で休部へ 甲子園で7回の優勝誇る
7月15日 20時00分
PL学園 初戦敗退で休部へ 甲子園で7回の優勝誇る
甲子園で春夏通じて7回の優勝を誇るPL学園が、夏の全国高校野球大阪大会の初戦で東大阪大柏原高校に6対7で敗れました。PL学園は昨年度から新たな野球部員の募集をやめていて、選手は今の3年生しかおらず、この試合を最後に休部することになります。
PL学園は甲子園に春夏合わせて37回出場し、7回の優勝を誇りますが、野球部内での暴力など不祥事が続いたことなどから、昨年度から新たな部員の募集をやめていて、部員は3年生の12人だけになりました。
3年生だけでことしの大阪大会を迎えたPL学園は15日、大阪・東大阪市で初戦となる2回戦に臨み、春の大阪大会ベスト8の東大阪大柏原と対戦しました。試合は1回、PL学園が2点を先制したものの、2回までに5点を奪われて3点のリードを許しました。その後、1点差に詰め寄ったPL学園は、7回にツーランホームランで6対5と逆転しました。しかし、その裏、同点とされると、8回に勝ち越しのタイムリーヒットを打たれて6対7で敗れました。
PL学園の選手は今の3年生しかおらず、この試合を最後に休部することになります。学校によりますと、野球部の活動再開のめどは立っていないということです。
キャプテンの梅田選手「つらいことあったが胸張りたい」
PL学園キャプテンの梅田翔大選手は「1つでも多く勝って1つでも多く試合をしたいという思いでやってきたので、悔しいです。在校生やさまざまな方の支援で今の自分たちがあるので、勝てなかったことに責任を感じ、後悔が残ります」と話しました。そのうえで、「競争力の高い大阪府でどこよりも伝統のあるPL学園で甲子園に出たいと思い、野球をやってきました。少ない人数でつらいこともあったが、PL学園を誇りに思うし、卒業生として胸をはっていきたい」と話していました。
桑田真澄さん「一生懸命頑張った」
PL学園で春夏5回連続で甲子園に出場した桑田真澄さんは「野球経験のある監督が不在という厳しい状況のなか、一生懸命頑張った。実力校を相手に一度は逆転して見せ場を作ってくれたし、最後までPLらしい戦いを見せてくれた」と初戦で敗れた後輩たちをねぎらいました。そのうえで、「これで野球を終える選手もいれば、上のステージで続ける選手もいると思う。PLで学んだことを今後の人生に生かしてほしい」とコメントを出しました。
PL学園野球部のこれまで
PL学園は甲子園に春夏合わせて37回出場し、7回の優勝を誇ります。甲子園での勝利数は春夏通算で歴代3位の96勝を数えます。
甲子園での初優勝は昭和53年の夏です。準決勝では9回に4点差を追いつき、延長12回にサヨナラ勝ちしました。高知商業との決勝では2点を追う9回に一挙3点を奪って、2試合連続のサヨナラ勝ちで初優勝を果たし、「逆転のPL」としてその名を全国にとどろかせました。
昭和58年に強烈な印象を残したのが桑田、清原の「KKコンビ」でした。2人を中心としたチームは春夏合わせて5シーズン連続で甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回の輝かしい成績を残しました。
その後も昭和62年に春夏連覇を達成するなど、黄金時代が続きました。そして、平成10年には松坂大輔投手を擁する横浜高校と対戦し、延長17回にわたる熱戦は、高校野球ファンの胸を熱くしました。
しかし、平成13年に野球部内での暴力が明らかになり、対外試合禁止の処分を受けると、その後も不祥事が続き、甲子園は平成21年の夏を最後に出場していません。
3年前には再び暴力行為が発覚し、当時の監督が退任するなど混乱が続き、学校は野球部員の募集を停止しました。現在の3年生を最後に野球部員がいなくなるため、この夏かぎりでの休部が決まりました。学校によりますと、野球部の活動再開のめどは立っていません。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160715/k10010597191000.html?utm_int=all_side_ranking-access_005
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上
再生核研究所声明 12 (2007/09/17): 人生、世界の存在していることの意味について
天才教育や世界の在りようについて考えていましたら、結局は人生とは何か、存在している意味、目的が大事であると考えました。なぜならば この世の全ての問題は 結局はひとりひとりの心の問題に帰するからです。そこで、次の文章を思い出したので引用して、全ての基礎にしたいと考えます:
人生における基本定理
・・・ 1995年1月13日朝、目覚めの後、ひとりでに数学のアイディアがうかんだときのように、
「人生の意義は、 ・・・・・・ にある」
という言葉がわいてきた。
私はもの心ついてから: 自分が生きていること、そして死ななければならないことを知って以来、人生そのものの意味について、最も中心的な問題として考えてきた。その核心は、人間は生まれ、生き、死んでいくものであるが、それらがどのような意味があるのか、そして、そのような人生においてどれ程の価値があるのか、という半ば悲観的な見方:
実際、人生は何の意味もないのに、人は死にたくないから、そして人並みにあるいは人並み以上になりたいから、あるいは人に尊敬されたいから等の漠然とした気持ちで生きているのではないか、と。また、そのような人生、人間の目標はどのようなものか、という基本的な問題への疑問であった。
「人間としての存在の究極の意味、価値は」
「人類の目指すべき基本的な方向とは」
これらの基本的な問いについて、私が、全体的に、直観として得た解は、
「人生の意義は、感動すること にある」
というものである。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような、人生における真剣な問いについて、これは十分な解答になっていると思われる。
人類の価値: 真、善、美、聖などの基礎を、我々の素朴な「感動させるもの」におき、
また同時に生と死を、感動することと感動の止むことに置き換えれば、我々は死を安らかに受容できると思われる。
人類の永遠の課題 神、自由、不死
の解決のための確かな道筋を与えるばかりではなく、人間存在における三位一体の理
存在、知、愛
を 渾然一体のもの「感動」として捉らえたことになろう。
また、藤村 操は、「・・・ 人生は不可解である、 ・・・ 」
という遺言を残して自殺したが、彼を何かに真に感動させ、
「人生の意義は、感動することにある」として、彼を救うことができたかもしれない。何が「人間を感動させるのか」を問うて行けば、「人生如何に行くべきか」の基本的な方向を捉えることができるし、それは多くの人間が素朴に、あるいはぼんやりと抱いていたものと大きな相異はなく、この「人生における基本定理」は 多くの人間によって受け入れられるばかりではなく、新鮮な感動をもって人生の基本的な指針を与えてくれると思われる。
謝辞 (略)
追記 基本定理を自覚した後の心情は、
人生はそれ以上のものではないという寂しさ、さまざまな人生の肯定、
何か絶対的で永遠的なものを失ったような寂しさ、
感動できる人生を送ることは容易ではなく、逆に人生は苦悩に満ちている、
人生のことは、考えれば考えるほど、わけが分からなくなる、
等、であるが、それにもかかわらず、人生の方向と限界を知り、夢中で人生を送っているよりは はるかに賢明になったように感じている。
藤村操
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。
以 上
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