トランプ氏、全米で優勢 クルーズ議員も存在感
2015.12.16 Wed posted at 12:49 JST
ドナルド・トランプ氏が全米で優勢な状況が続く
ワシントン(CNN) 来年の米大統領選で共和党からの指名を目指している実業家のドナルド・トランプ氏が依然として全国規模で高い支持率を得ていることが16日までに分かった。ただ、最初に党員集会が開催されるアイオワ州に限ってみれば、テッド・クルーズ上院議員も存在感を示している。
CNNが全国規模で行われた最新の電話インタビュー形式の世論調査5つを分析したところ、トランプ氏の支持率は33%と2位のクルーズ氏の17%を大きく上回った。そのほかに、2けたの支持率を得たのは、マルコ・ルビオ上院議員(12%)と元医師のベン・カーソン氏(11%)の2人。
ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事やクリス・クリスティー・ニュージャージ州知事らの支持率は1けただった。
トランプ氏のリードの幅は調査によってさまざまだ。マンモス大学の調査によれば、27ポイントと大きくリードしているが、NBCニュースとウォールストリート・ジャーナル紙による調査ではリードはわずかに5ポイントとなっている。
ただ、党員集会が最初に行われるアイオワ州での支持率について、CNNが全国規模で行われた最新の電話インタビュー形式の世論調査6つを分析したところ、クルーズ氏の支持率は27%とトランプ氏の25%を上回った。その後に、ルビオ氏(13%)とカーソン氏(12%)が続く。http://www.cnn.co.jp/usa/35075037.html?tag=cbox;usa
再生核研究所声明 52(2011.3.22): 選挙における心得、留意事項
プロ野球やサッカーチームの監督が、極めて重要な役割を果たすように、いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要である。それは選挙で選ばれた人は、逆に何らかの権力、決定する権利を有することになるからである。 例えば、衆議院は国権の最高機関として首相を選出する権利を有するばかりではなく、国家の意志にかかわる重要事項を決定する重要な権限を有している。地方議会や知事や市長等々、何らかの大きな影響力と権限を有している。 そこで、そのような人物の選出において、適切な人物を選ぶ大事な視点について考察したい。 どのように心得て人物を選ぶかという、視点である。
まず はじめに留意すべきことは、
1) 職務を全うできる体力、健康の面、および能力が有るか。- これは当然である。
2) 職務に取り組む真摯な態度が有るか否か。- この点は真剣に観察、判定を誤らないように留意すべきである。権力や名誉、地位のために立候補して、本務に対しては真剣でない人物が 世に多いということである。立候補の動機など注意深く観測する必要がある。 天下り、代理、後継者、団体の推薦、仲間の推薦などで、適任でない者が、仕方なく立候補する場合も世に多い。また、いろいろ良くやっているように、見せかけに奔走して、人気取りを図り、実際には組織に損害を与えていたり、組織を利用して楽しんでいる場合が 世に多いと言える。 立候補者の哲学、志の所在、本質を把握、捉える必要がある。
3) 権力や影響力が大きいという観点から、選ばれる者は、信頼できる人物でなければならない。信用できるかどうかという観点は、発言に矛盾はないか、言行一致しているか、公正であるか、騙したり、裏切ったりすることはないかなど 注意深く観測する必要がある。しかしながら、これらにおいて大事なことは、それらが全ては守れない、実行できないのが、現実の政治社会であるから、全体として、判断する幅の広さも肝要である。
4) いわゆる、公約や政治姿勢、政策方針などは 党派や支持母体などの影響を受けるので、党や支持者の周辺の人物にも注意深く観測する必要がある。政党政治においては
所属政党が大きな判断基準になるのは やむを得ない。政治社会は大きな世界であり、個人では力を発揮することができない状況だからである。
5) 職務を 如何に良く全うできるかが決定的な観点であるから、格好が良い、感じが良いなどの 本質的でないところについては 大いに妥協すべきである。 立会演説会などで、感じによって あるいは、弁舌の巧みさなどで 大きな影響が出やすいが、この点は大いに注意すべきである。
6) 日本では未だに、地縁、友人、団体などの縁で投票する風潮があるが、公職に就く者の立場からあくまでも、選挙の趣旨に相応しい人物を 高い立場から、判断して投票すべきである。特に自分の利害の観点で投票するのは 卑小な態度である。 あくまでも組織全体のことを考えるべきである。
7) 政治に無関心で、興味もない、あるいは政治に嫌気が差して、あるいは専門や仕事に追われていて真面目に考えられない人は、 利害や関係のない 第3者で 常日頃尊敬している人 の判断を参考にするのが良いのではないだろうか。信じられる人を探しておくのは 良い心得である。
8) 政治や自分の関係する組織について、日ごろ興味を持ち、国の在り様、組織の在り様、社会の在り様について、意見を交わして、それらに関する文化レベルの向上に努めたい。お気に入りの政治家などの応援、支持活動を人生の1つの趣味にされると 人間関係や視野が広まり、それだけ豊かな人生になるのではないだろうか。
9) 政治に多くの人が関心を持ち、真面目に考えることができるのは不可能であり、従って、自由な投票を保障した上で、投票を強制せず、1%の投票率でも十分と言えるような、投票の質を考えて行きたい。ただ投票率を高めれば良いとの風潮は 改めて行きたい。これは事情を知らずに 無理に投票する必要がないことを述べている。投票しない権利を認めている。
以上は前向きに検討する心構えを述べたが、逆に 避けるべき人物像についても特に述べておきたい。
A) その職について、真摯でなく、意欲と情熱、使命感の足りない人
B) 権力欲の強い人、威張りたがる人、派手好きな人、軽い人
C) エゴイスト、視野の狭い人、広く意見を率直に聞けない人
D) 公正でなく、公の立場に真剣でない人物、仲間の利益を考える人
E) 言行不一致の人物、 言葉に矛盾がある人
F) 選挙活動などにおいて、公正でないこと、いろいろ策をめぐらしたり 騙しや脅かし、利益誘導を行う者
G) 特に組織の代表者となると、格好や感じが良いかなど 見栄えに影響され易いので、くれぐれも気を付けたい
H) できるだけ、若い世代を育てて、伸ばすように配慮したい。 指導部の若返りを常に心がけたい。特に過去の経歴で推薦され、惰性の状態にある人は、避ける方向で検討したい。これはまた、将来について永きにおいて 責任がとれる立場であることを示している。
I) 理想的な人物でも、当選の可能性の低いものは避けたい、最善よりは少しでも良い方向での、現実的な効果を考えたい。 政治社会は 現実が大事である。現実が少しでも良くなる方向で、考えたい。
特に 選挙に立つような人物は 一般に、賢い人物であるから、いろいろ上手な働きかけ、言葉を巧みにして、有権者の意を引こうとするので、 投票する人は くれぐれも惑わされないように 日ごろの行動、言動に気を付けて、良い代表者を選出したい。
以 上
再生核研究所声明 129 (2013.8.28):
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45
再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)
世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。
以 上
再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を
もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。
以上
0 件のコメント:
コメントを投稿