再生核研究所声明 265(2015.12.24): 全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば という藤原道長の歌や 柔道の田村亮子選手のオリンピックにおける金メダルを得た時の喜びの表情などに 全ての願いが叶えられたときの印象を感じとることができる。そのような喜びの感情は永くは続くものではないといえよう。そのようなときは、自由な時とも表現できるだろう。しかしながら、そのような境地、自由な時は 思えば結構多く存在するのではないだろうか。乳を飲んでいる赤ちゃんが全て満足してニコニコご機嫌良い表情は結構多い、92歳を越えた人に心境を伺ったところ、美しい風景を見ながら、食べることにも拘らず、悩みも、心配も無く、にこやかに微笑んでいる姿に接して 自由で、花が存在しているのと同じような情感が感じられる。育児で大変な時期でも いろいろ家事をこなして、子供がにこやかに休み、一息いれている時も 完全に自由で、そのときは満足して、いろいろな欲求等その時は わかないのではないだろうか。 仕事が順調に行き、進んでいるとき、家庭も上手くいっていれば 相当に満足しているような状況ではないだろうか。
願いが叶うは 現状と欲求のバランスが取れている状況であるから、いわゆる道理の心があれば 現状を認め、受け入れ、精神は安定して、自由な境地に到れるということではないだろうか。分以上の法外なことを望ます、求めず、分を弁えれば 自由を得て、幸せさえ 実現できるのではないだろうか。
仕事を持ち、義務的な仕事に縛られる時期は 結構永いが、退職などして仕事から解放されると、相当に自由になり、自適の生活を楽しめる機会が結構多い社会が実現している。上記92歳の方のようには言い切れなくても、 相当に満足して人生を考えている人は世に多いと言える。
科学技術が進み、自由な時間が増大して、自由な時間を如何に過ごすかが 今後大きな社会問題になるだろう。動物的な本能、社会的な要求、それらが、相当満たされたとき、 人は何をなすだろうか、何をなすべきと 人間は作られているのであろうか。そもそも、人間は究極何をなすべきか。どのように作られているだろうか。 多くの人間が 良い家庭に、生活に恵まれて、社会的にも存在感がすれば、相当に満足しているように見えるが、それらの情景は 動物たちが家族とともに仲良く、安全に過ごしていれば満足で 時々、遊んでいる情景と 殆ど変わらないように見える。 人間の生態は、動物と殆ど変わらないと 本質を見れば、見えて来る。
このような視点で、気になる面白い現象がある。8才の少年が巨大素数の構造に興味があると言った事件である(再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える)。どうしてそのようなことに関心を懐くかである。多くの純粋数学者も いわば社会とは何の関係もないようなことに美観や、関心を抱き、研究しているのは 誠に興味深いと考えられる。そこまで行けば、いろいろな学問、芸術、求道など何でも 人間が動物や生物の存在を超えて、いろいろ志向しているのは 誠に興味深い。 人間とはそれでは、究極何を求めているのだろうか。人間は 究極的に何を求めているかと問うている。 人生の意義は 感動すること にある、 これはそれでよいが、その先を求めている。人間は、それぞれ好きなことを いろいろ求めています、では、物足りない結語になるだろう。 そこで、人生の目標を下記のように表現したい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
人間は何でも知りたい、究めたい、それが本能である。
これを砕いて言えば、人間は森羅万象の様、原理、自分の存在している意義を知りたいということである。
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿