【科学の本質を探る⑲】ガリレイの実像(その1)地動説の支持者(イエズス会士)を敵に回したいきさつ 阿部正紀
2015年12月7日20時01分 コラムニスト : 阿部正紀 印刷 Facebookでシェアする Twitterでシェアする関連タグ:阿部正紀
前回は、ケプラーが神秘主義者でありながら近代科学の精神を持ち合わせており、惑星の楕円軌道を発見したことを説明しました。
今回から、近代科学の父といわれるガリレオ・ガリレイ(1564~1642)を取り上げます。ガリレイを、教会の迫害にめげずに地動説を広めた「不屈の英雄」、宗教的権力に屈服させられた「真理の殉教者」と見なす常識的な見解は覆(くつがえ)されています。
ガリレイ裁判は「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立でしたが、複雑な人間関係と政治的対立が絡んでいたのです。
今回は、ガリレイが、地動説を受け入れていたイエズス会士を愚弄(ぐろう)し敵に回したたために糾弾されたいきさつを明らかにします。
【今回のワンポイントメッセージ】
傲慢(ごうまん)なガリレイが引き起こした騒動によって、カトリック教会に新しい学問を取り入れようとする動きが妨げられ、地動説の公認の時期が遅らされた。
ガリレイ裁判の本質は「新・旧」学問の対立
ガリレイ裁判を宗教と科学の争いと考える一般的な見解は、科学史の分野では払拭(ふっしょく)されています。すでに数年以上前の高校の教科書に次のように記されています。
「今日では、ガリレイの宗教裁判は、宗教と科学の対立というよりは、宗教的、政治的対立にまきこまれて生じた事件という色彩が濃いと考えられている」[文献(1)]
ガリレイ裁判の本質は、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義(古代ギリシャの哲学者アリストテレスの哲学を発展させた思想)に基づいた学問と、それを乗り越えようとしてガリレイが唱えた近代的な学問の対立です。そこに、カトリック教会内部の宗教的な対立に、政治的な対立(ガリレイを支援したメディチ家の背後のドイツと教皇側のフランスの争い)が複雑に絡んでいました。
『天文対話』(1630年出版)における形式的服従の隠れみの
第17回でも説明したように、カトリック教会は、“仮説”として提示するならばどんな理論の研究をも許してきました。ただし、どんなに優れた理論であっても、自然が実際にその理論の通りになっていると考えてはいけないとされていました。全能の神は人間の理性が考え出すことができないような方法で自然を支配していると考えられていたからです。
ガリレイが地動説を唱えた著書『天文対話』も、このしきたりに従っていました。序文には地動説を数学的仮説として提示すると明言され、本文の最後は次のような趣旨で締めくくられていました。
「全能の神は、人間の理性では説明できない仕方で自然を支配できる。それゆえ、啓示によって明らかにされたとおり、天動説に従って天体が運行していると考えるべきである」
ガリレイはこの結論を、自分の地動説をほめて激励してくれた教皇(ウルバヌス8世)から聞いた訓戒として提示したのです。『天文対話』には、このような隠れみのがかぶされていたので、文句のつけようがありません。
イエズス会士を敵に回したガリレイ
【科学の本質を探る⑲】ガリレイの実像(その1)地動説の支持者(イエズス会士)を敵に回したいきさつ
※URL: http://www.jpl.nasa.gov/spaceimages/wallpaper.php?id=PIA01299
ところが、ガリレイは、イエズス会を中心とする反対派の策動によって、異端審問(宗教裁判)にかけられ、地動説を放棄させられました。
なぜガリレイは糾弾されたのでしょうか。
それは、高慢で世慣れないガリレイが、彼を支持して地動説を受け入れたイエズス会士たちを敵に回してしまったからなのです。以下、科学史家モルデカイ・ファインゴールドの論文[文献(2)]に準拠して説明します。
ガリレイは1610年に処女作『星界の報告』を出版して、望遠鏡で観測した「月面が凹凸だらけの様子」および「木星が四つの惑星を持つこと」を発表して地動説を支持しました(図1)。『星界の報告』は大評判となり、ガリレイは一躍時代の寵児(ちょうじ)になりました。
イエズス会士たちは、最初は疑っていました。しかし、望遠鏡を空に向けた結果、多くのイエズス会士たちがガリレイの主張を認め、地動説を受け入れました。1611年5月にガリレイはローマ学院(イエズス会の司祭養成学校)に招かれ、イエズス会士たちから大歓迎を受け、ほめそやされました。
【科学の本質を探る⑲】ガリレイの実像(その1)地動説の支持者(イエズス会士)を敵に回したいきさつ
※1: http://m-francis.livejournal.com/186610.html
※2: http://tofspot.blogspot.jp/2013/09/6-great-ptolemaic-smackdown-comet.html
ところが、その後ガリレイは、2人のイエズス会士(シャイナー神父、グラッシ神父、図2)と、そのころ発見された太陽の黒点および彗星(すいせい)をめぐって激しく対立して論争を引き起こしました。ガリレイは、敵愾心(てきがいしん)をむき出しにして傲慢な態度で論敵を罵倒してばか者呼ばわりしました。
ガリレイに愚弄されたイエズス会士たちは、アリストテレス主義を固守する保守的な上層部の命令に服従し、あえてガリレイを糾弾する運動に加わりました。彼らは、アリストテレス主義を奉じていた哲学者および保守的なドミニコ会士たちと手を結んでガリレイ排斥を画策しました。当時、イエズス会とドミニコ会は抗争していたのに、反ガリレイで結託したのです。
地動説の公認を遅らせて科学に迷惑をかけたガリレイ
天文学者であり数学者でもあったイエズス会のグリーンベルガー神父は、グラッシ神父と共にガリレイとの和解の道を探りました。しかし、ガリレイによって拒否されたのです。グリーンベルガーは次のように述べました。
「もし、ガリレイが、ローマ学院の神父たちの支持を得るすべさえ知っていたら、彼は相変わらず世間的な名声をほしいままにして、あのような不幸に陥ることなく、地動説でも何でも思いのままに書けただろうに」
グリーンベルガーは、生涯にわたって、頑迷な人々を説得してカトリック教会に「新しい科学」を取り入れようと計り、地動説を公認する道を開くための準備を進めていました。ところが、ガリレイの無礼な振る舞いによって、その努力が水泡に帰してしまったと嘆いたのです。
ローマ学院では、近代的な科学の研究がなされていました(例えば、グラッシは光学の分野で優れた業績を上げていました)。ところが、ガリレイとの闘争を目にしたイエズス会の保守的な上層部は、科学に関する研究を一切禁止しました(1651年)。その理由は、「新しい科学」が誤っているからではなく、教会の公式な学問であるアリストテレス主義を破壊する恐れがあるからでした。
この禁止令によって、ローマ学院での科学研究がほぼ100年間も停滞したとファインゴールドが指摘しています[文献(2)153ページ]。
カトリック教会では、新しい科学理論はまず仮説として提示され、機が熟したころに公認する慣わしでした。進歩的なイエズス会士たちは、地動説を伝統に従ってゆっくりと、権威をもって受け入れるシナリオを描いていました。それが、ガリレイ騒動によって妨げられ、地動説を公認する時期が遅らされたのです。
《文献》
(1)高校教科書『倫理』、東京書籍(2007年検定済み、2008年発行)129ページ。
(2)“The grounds for conflict: Grienberger, Grassi, Galileo, and Posterity”, Mordechai Feingold, The New Science and Jesuit Science: Seventeenth Century Perspectives, ed. M. Feingold, Kluwer, Academic Publishers, (2003), pp121―157.
(3)『ガリレオ裁判』J・サンティリャーナ著(武谷三男監修、一瀬幸雄訳)、岩波書店(1973年)372ページ。
【まとめ】
ガリレイ裁判は、「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立であった。
ガリレイの地動説はイエズス会士たちによって受け入れられたが、ガリレイが傲慢な態度で論敵を馬鹿にしたために糾弾され、異端審問の憂き目にあった。
ガリレイの暴挙によって、イエズス会士たちの科学研究が禁止されると共にカトリック教会が地動説を公認する動きが妨げられた。http://www.christiantoday.co.jp/articles/18011/20151207/kagaku-no-honshitsu-19.htm
再生核研究所声明 264 (2015.12.23): 永遠とは何か ― 永遠から
現代人は 空間とは 座標軸で表される数の組の集合 で表させるものと発想しているだろう。 基礎である直線は 実数を直線上に並べたもの、逆に直線とは 実は 実数全体の表現と考えられる。 すなわち、直線とは 基準点である原点ゼロから、正方向と負方向に正の実数と負の実数が大小関係で順序づけられ無限に双方向に伸びていると考えられる。
そこで、永遠とは 直線に時間を対応させ、限りなく正方向に進んだ先のことを 想像している。どこまでも どこまでも 先に行けばどうなるだろうか。直線上でも、平面上でも である。 砂漠の伝統を有する欧米文化の背景、キリスト教などの背後には、 永遠とは限りなく 果てしなく先にあると発想しているという。 どこまでも、どこまでも きりのない世界である。 ユークリッド幾何学が そのような空間を考えていることは確かである。
ところが四季に恵まれたアジアの民は、限りなく広がる世界に、不安や淋しさを直感して、 正の先と、負の先が一致していて、直線は円で どこまでも どこまでも行くと反対方向から、現在に至り、永遠は繰り返しであると、四季の繰り返し、天空の繰り返し、円運動のように発想して 仄かな安心感を覚えているという。永劫回帰、輪廻の思想を深く懐いている。実に面白いことには 美しい複素解析学では、立体射影の考えによって、直線を球面上の円と表現し、無限遠点の導入によって、 これらの思想を 数学的に厳格に実現させ、全ユークリッド平面の全貌を捉え、無限の彼方さえ捉えることが出来た。 その時 永遠を 確かに捉え、掴むことさえ出来たと言える。立体射影による球面上の北極に 確かに存在すると言える。素晴しい、数学を手に入れていた。この美しい数学は 100年以上もリーマン球面として、複素解析学の基本となってきている。
ところが2014.2.2偶然に発見されたゼロ除算の結果は、この無限遠点が 実は原点に一致していた という衝撃的な事実を述べていた。 永遠、無限の彼方と想像していたら、それが 実は原点に戻っていたという事実である。 それが我々の数学であり、ユークリッド空間の実相である。幾何学の性質や物理的な法則をきちんと説明している、我々の世界の数学である。
それで、永遠や無限遠点、我々の空間の 十分先の考え方、発想を考える必要がある。
無限の先が原点に一致している事実、それを如何に理解すべきであろうか。
それについて、 次のように解説してきた:
再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
新しい世界観は 始まりから始まり 最後には 突然戻るということを述べている。 しからば、始めとは何で 終りとは何だろうか。 これについて、 始めも終わりも、質的な変化であると定義できるのではないだろうか。 簡単な数学で万物、universe の現象を説明するのは難しい状況は確かにあるだろう.しかし、ゼロ除算の思想は、新羅万象が絶えず変化して 繰り返している様を表現しているように感じられる。
大事な人生の視点は 今日は 明日のためや遠い未来のためにあるのではなく、 現在、現在における在るべき適切な在りようが大事だと言っているようである。もちろん、現在は、未来と過去に関係する存在であり、それらは関係付けられ、繋がっているが 焦点はもちろん、 現在にあるということである。
ビッグバンの宇宙論は 適切に理解され、始めとは 大きな変化で 現状の元が始まり、
やがて突然、元に戻って 終わることを暗示しているようである。人生とは 要するに 内なる自分と環境に調和するように在れ と ゼロ除算は言っているようである。
ゼロ除算は 仏教の偉大なる思想 を暗示させているように感じられる。
以 上
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
最近展開しているゼロ除算が、新しい世界観を示しているのは 大変興味深い。直線とは一体どうなっているだろうか.空間とはどのようになっているだろうか。これについて、現代人は、双方向にどこまでも どこまでも 続いている直線を想像するであろう。限りなく広がった平面や空間である。ところが 立体射影によって 平面全体を球面上に1対1に写せば、全平面は 球面から北極を除いた球面上に1対1にきちんと写るから、無限に広がる 全平面の全貌が捉えられる。ところが平面上には存在しない想像上の点 それはあらゆる方向に限りなく遠くに存在する無限遠点の導入によって、その点を球面の欠けた1点北極に対応させれば、無限遠点を含めた平面全体は 球面全体と1対1にきちんと対応する。
このような対応で 平面上の円や直線全体は 球面上では共に円に対応するという美しい対応になり、平面上の直線は 球面上では、北極(無限遠点)を通る円に写ると、直線と円の区別は 球面上では不要になる。また、平面上の平行線とは 無限遠点で 角度ゼロで交わっている(接している)と平面上の構造がよく見えて、無限遠点を含めての平面の全構造が 捉えられる。このように、考えると、直線とは、球面上では北極を通る円、平面上では無限遠点を通る直線となる。この構造は、直線を1方向にどこまでも, どこまでも進めば、無限遠点を 通って、逆方向から戻ってくるという、永劫回帰の思想をちょうど実現している。それは、球面上では、 円を繰り返し回ることを意味する。 その様は 何もかも すっかり良く見える。
これが、従来100年以上も続いた世界観で、関数y=x やW=zは 無限遠点に近づけば、それらの像も無限遠点に近づいていると考えるだろう。 関数y=x の値は正方向にどんどん行けば、どんどん大きくなると考えるだろう。
しかるに、ゼロ除算1/0=0は、それらの関数は無限遠点にいくらでも近づくと 無限遠点にいくらでも近づくが、無限遠点自身では、突然ゼロになっていることが 幾何学的にも確認された。上記、北極は 実は原点ゼロに一致しているという。
話しを簡単にするために、 関数y=x を考えよう。右に行けば、プラス無限に、負の方向左に行けば 負の無限に限りなく近づくは 従来通りである。ところが、ゼロ除算では いずれの方向でも上記無限遠点では 値ゼロをきちんと取っているという。ゼロ除算の数学では、どんどん、増加した先、突然、ゼロ、原点に戻っているという。また、円でも球面でも半径Rをどんどん大きくすると、当然、円の面積や球の体積はどんどん限りなく大きくなるが、半径が無限のとき、突然、それらはゼロになるという。それらの理由も数学ばかりではなく、幾何学的にも明確に見えている。
この数学的な事実は、我々の世界、宇宙がどんどん拡大して行くと突然、ゼロに帰するということを暗示させている。 ― これは 宇宙回帰説を意味しているようである。
これは、ユニバースの普遍的な現象、どんどん進んだ先が、元に突然戻る原理を示しているようである。
そもそも人生とは如何なるものか。― よくは分からないが、事実として、生まれて、どんどん物心がついて、人間として精神活動が活発化して、多くは本能原理によって生かされて、そして、突然元に戻ることを意味しているようである。このことを深く捉えられれば、世界がよりよく観え、悟りの境地に達する大きなヒントを得ることができるだろう。
ここでは ゼロ除算の帰結として、宇宙回帰説、ユニバースの回帰説を唱えたい。この考えでは、どんどん進めば、突然元に戻るという原理を述べている。珠算における 御破算で願いましては で 再び始めることを想起させる。これは、また、reset と同様であると考えられる。
以 上
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
割り算のできる人には、どんなことも難しくない
世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。
ベーダ・ヴェネラビリス
数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年
再生核研究所声明259 (2015.12.04) 数学の生態、旬の数学 ―ゼロ除算の勧め
数学とは何だろうかと問うてきたが(No.81, May 2012(pdf 432kb) www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)違う観点から、はじめに数学の生態について外観して、ゼロ除算の研究の勧めを提案したい。
純粋数学の理論は 恰も人間とは無関係に存在して、まるで神の言語のように感じられるが、しかしながら、生活している人間、関与している人間、またそれらを支えている社会が数学の発展の行くすえ、成長の生態に反映されているのは事実である。実際、最も古く、超古典のユークリッド幾何学の発展、現状を見れば、数学の生態の様を見ることができる。その幾何学は 素朴に土地を測るという、現実の要求から生まれ、知的要求で言わば社会との関わりを有しないレベルまで発展して、膨大な理論体系が作られたが、現在では研究の専門家がいない程に確立した理論とされている。研究課題としては終わっていると考えられる。多くの数学も同様な経過を辿っている様を見ることができる。多くは物理学やいろいろな現象から新しい数学が生まれた例は多いが、ここは、素朴な数学の具体例、基本的な問題から、新しい数学が生まれ、発展して、やがて、細分化、孤立化した結果に至って 衰退している様を 数学の生態として捉えることができるだろう。社会との関係が薄く、興味を抱く人が少なくなれば、その数学は衰退すると ―すなわち 誰もやらなくなり、殆ど忘れされていくことになるだろう。この意味で、多くの数学も、花の命や人の一生のように 夢多き時期、華やいだ時期、衰退して行く時期といろいろな時期があると考えるのが妥当ではないだろうか。基本的で、新規な結果がどんどん展開されるときは、その数学の発展期で、活動期にあると考えられる.他方、他との関係が付かず、興味、関心を抱く者が少なくなれば、既に衰退期にあり、研究は労あって成果は小さいと言えよう。
数学を言わば輸入に頼っている国では、価値観も定かではなく、権威ある、あるいは数学の未解決問題の解明や小さな部分の形式的な拡張や精密化に力を入れている現実がある。見るだけでうんざりしてしまう論文は 世に多いと言える:
再生核研究所声明128 (2013.8.27): 数学の危機、 末期数学について
(特に純粋数学においては、考えられるものは何でも考える自由な精神で真理の追究を行なっているから(再生核研究所声明36:恋の原理と心得)、一旦方向が、課題が定まると、どんどん先に研究が進められる。基本的な精神は 内部における新しい概念と問題の発掘、拡張、すなわち一般化と精密化、そして他の数学との関係の追求などである。それらがどんどん進むと、理解出来る者、関心を抱く者がどんどん少なくなり、世界でも数人しか興味を抱く者がいないという状況になり、そのような状況は 今や珍しくはないと言える。 ― 興味以前に分からない、理解できないが 殆どであると言える。 また、何のための結果かと問われる結果が 現代数学の大部分を占めていると言えるだろう。特に数学内部の興味本位の結果は そのような状況に追い込まれ、数学の末期的状況の典型的な形相と言えるだろう。実際、相当なブームに成っていた数学の分野が、興味や関心を失い、世界でも興味を抱く者が殆どいなくなる分野は 結構実在する。それらの様は、さまざまな古代遺跡のように見えるだろう。― 夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもがゆめのあと):松尾芭蕉。
もちろん、数学は、時間によらないようであるから、オイラーの公式のように、基本的で美しく、いろいろ広く関係しているような結果は、普遍 (不変) 的な価値を 有すると言える。)
どの辺の数学に興味を抱くは、個人の好みであるが、最近考えられているゼロ除算は極めて初期の段階にあり、夢多き段階にあると見られので、広く世に状況を公表して、ゼロ除算の研究を推進したい。
ゼロ除算は、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見で、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるがゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、全く未知の世界を探検できる。 既に数学的には確立され、物理的、幾何学的にも実証されている。 最近、素人にも分かるような例が結構発見されてきたので、 広く 世にそのような面白い新しい現象の発見を呼びかけたい。まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロであると述べている。すなわち、 1/0=0 である。それらは 既に 数の実体である と言える。
― 要点は、上記直角双曲線は、原点で猛烈な不連続性を有し、爆発や衝突、コマで言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることである。複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界であるが、無限遠点は 数値としては ゼロが対応する。
現在までに発見されたゼロ除算の実現例を簡単に列挙して置こう:
万有引力の法則で、2つの質点が一致すれば、引力はゼロである;一定の角速度で回転している回転体の中心で、角速度はゼロで、中心で不連続性を有している;光の輝度は 光源でゼロであること:円の中心の鏡像は 無限遠点ではなくて、中心そのものであるという強力な不連続性;電柱の微小な左右の揺れから、真っ直ぐに立った電柱の勾配はゼロであり、左右からマイナス無限とプラス無限の傾きの一致として、傾きゼロが存在している; 代数的には ゼロ除算z/0=0を含む簡単な体の構造が明らかにされ、数体系として自然な体系である複素数体より ゼロ除算z/0=0を含むY体 の方が自然であると考えられること; 点の曲率がゼロであること、などである。
さらに、原始的なテコの原理にもゼロ除算は明確に現れ、初等幾何学にも明確に現れ、例えば、半径Rの円をどんどん大きくすると,円の面積はいくらでも大きくなるが、半径が無限になると突然、その面積はゼロになることが認識された。 Rが無限になると円は直線になり、円は壊れて半空間になるからである。 このことの明確な意味が数学的に捉えられ、一般に図形が壊れる現象をゼロ除算は表していることが分かった。これらの現象は ゼロ除算が 普遍的に存在する現象を説明するもの と考えられる。
また、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。 実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y.Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the realand complex fields, Tokyo Journal of Mathematics {\bf 8}(2015), no.2 (in press).
がそれらの最先端である。
これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。専門家はいないから、多くの人が面白い現象を発見できる機会があると考えられる。
次も参考:
再生核研究所声明189(2014.12.233) ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明222(2015.4.8) 日本の代表的な数学として ゼロ除算の研究の推進を求める
再生核研究所声明253(2015.10.28) 私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象
以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
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2015年12月7日20時01分 コラムニスト : 阿部正紀 印刷 Facebookでシェアする Twitterでシェアする関連タグ:阿部正紀
前回は、ケプラーが神秘主義者でありながら近代科学の精神を持ち合わせており、惑星の楕円軌道を発見したことを説明しました。
今回から、近代科学の父といわれるガリレオ・ガリレイ(1564~1642)を取り上げます。ガリレイを、教会の迫害にめげずに地動説を広めた「不屈の英雄」、宗教的権力に屈服させられた「真理の殉教者」と見なす常識的な見解は覆(くつがえ)されています。
ガリレイ裁判は「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立でしたが、複雑な人間関係と政治的対立が絡んでいたのです。
今回は、ガリレイが、地動説を受け入れていたイエズス会士を愚弄(ぐろう)し敵に回したたために糾弾されたいきさつを明らかにします。
【今回のワンポイントメッセージ】
傲慢(ごうまん)なガリレイが引き起こした騒動によって、カトリック教会に新しい学問を取り入れようとする動きが妨げられ、地動説の公認の時期が遅らされた。
ガリレイ裁判の本質は「新・旧」学問の対立
ガリレイ裁判を宗教と科学の争いと考える一般的な見解は、科学史の分野では払拭(ふっしょく)されています。すでに数年以上前の高校の教科書に次のように記されています。
「今日では、ガリレイの宗教裁判は、宗教と科学の対立というよりは、宗教的、政治的対立にまきこまれて生じた事件という色彩が濃いと考えられている」[文献(1)]
ガリレイ裁判の本質は、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義(古代ギリシャの哲学者アリストテレスの哲学を発展させた思想)に基づいた学問と、それを乗り越えようとしてガリレイが唱えた近代的な学問の対立です。そこに、カトリック教会内部の宗教的な対立に、政治的な対立(ガリレイを支援したメディチ家の背後のドイツと教皇側のフランスの争い)が複雑に絡んでいました。
『天文対話』(1630年出版)における形式的服従の隠れみの
第17回でも説明したように、カトリック教会は、“仮説”として提示するならばどんな理論の研究をも許してきました。ただし、どんなに優れた理論であっても、自然が実際にその理論の通りになっていると考えてはいけないとされていました。全能の神は人間の理性が考え出すことができないような方法で自然を支配していると考えられていたからです。
ガリレイが地動説を唱えた著書『天文対話』も、このしきたりに従っていました。序文には地動説を数学的仮説として提示すると明言され、本文の最後は次のような趣旨で締めくくられていました。
「全能の神は、人間の理性では説明できない仕方で自然を支配できる。それゆえ、啓示によって明らかにされたとおり、天動説に従って天体が運行していると考えるべきである」
ガリレイはこの結論を、自分の地動説をほめて激励してくれた教皇(ウルバヌス8世)から聞いた訓戒として提示したのです。『天文対話』には、このような隠れみのがかぶされていたので、文句のつけようがありません。
イエズス会士を敵に回したガリレイ
【科学の本質を探る⑲】ガリレイの実像(その1)地動説の支持者(イエズス会士)を敵に回したいきさつ
※URL: http://www.jpl.nasa.gov/spaceimages/wallpaper.php?id=PIA01299
ところが、ガリレイは、イエズス会を中心とする反対派の策動によって、異端審問(宗教裁判)にかけられ、地動説を放棄させられました。
なぜガリレイは糾弾されたのでしょうか。
それは、高慢で世慣れないガリレイが、彼を支持して地動説を受け入れたイエズス会士たちを敵に回してしまったからなのです。以下、科学史家モルデカイ・ファインゴールドの論文[文献(2)]に準拠して説明します。
ガリレイは1610年に処女作『星界の報告』を出版して、望遠鏡で観測した「月面が凹凸だらけの様子」および「木星が四つの惑星を持つこと」を発表して地動説を支持しました(図1)。『星界の報告』は大評判となり、ガリレイは一躍時代の寵児(ちょうじ)になりました。
イエズス会士たちは、最初は疑っていました。しかし、望遠鏡を空に向けた結果、多くのイエズス会士たちがガリレイの主張を認め、地動説を受け入れました。1611年5月にガリレイはローマ学院(イエズス会の司祭養成学校)に招かれ、イエズス会士たちから大歓迎を受け、ほめそやされました。
【科学の本質を探る⑲】ガリレイの実像(その1)地動説の支持者(イエズス会士)を敵に回したいきさつ
※1: http://m-francis.livejournal.com/186610.html
※2: http://tofspot.blogspot.jp/2013/09/6-great-ptolemaic-smackdown-comet.html
ところが、その後ガリレイは、2人のイエズス会士(シャイナー神父、グラッシ神父、図2)と、そのころ発見された太陽の黒点および彗星(すいせい)をめぐって激しく対立して論争を引き起こしました。ガリレイは、敵愾心(てきがいしん)をむき出しにして傲慢な態度で論敵を罵倒してばか者呼ばわりしました。
ガリレイに愚弄されたイエズス会士たちは、アリストテレス主義を固守する保守的な上層部の命令に服従し、あえてガリレイを糾弾する運動に加わりました。彼らは、アリストテレス主義を奉じていた哲学者および保守的なドミニコ会士たちと手を結んでガリレイ排斥を画策しました。当時、イエズス会とドミニコ会は抗争していたのに、反ガリレイで結託したのです。
地動説の公認を遅らせて科学に迷惑をかけたガリレイ
天文学者であり数学者でもあったイエズス会のグリーンベルガー神父は、グラッシ神父と共にガリレイとの和解の道を探りました。しかし、ガリレイによって拒否されたのです。グリーンベルガーは次のように述べました。
「もし、ガリレイが、ローマ学院の神父たちの支持を得るすべさえ知っていたら、彼は相変わらず世間的な名声をほしいままにして、あのような不幸に陥ることなく、地動説でも何でも思いのままに書けただろうに」
グリーンベルガーは、生涯にわたって、頑迷な人々を説得してカトリック教会に「新しい科学」を取り入れようと計り、地動説を公認する道を開くための準備を進めていました。ところが、ガリレイの無礼な振る舞いによって、その努力が水泡に帰してしまったと嘆いたのです。
ローマ学院では、近代的な科学の研究がなされていました(例えば、グラッシは光学の分野で優れた業績を上げていました)。ところが、ガリレイとの闘争を目にしたイエズス会の保守的な上層部は、科学に関する研究を一切禁止しました(1651年)。その理由は、「新しい科学」が誤っているからではなく、教会の公式な学問であるアリストテレス主義を破壊する恐れがあるからでした。
この禁止令によって、ローマ学院での科学研究がほぼ100年間も停滞したとファインゴールドが指摘しています[文献(2)153ページ]。
カトリック教会では、新しい科学理論はまず仮説として提示され、機が熟したころに公認する慣わしでした。進歩的なイエズス会士たちは、地動説を伝統に従ってゆっくりと、権威をもって受け入れるシナリオを描いていました。それが、ガリレイ騒動によって妨げられ、地動説を公認する時期が遅らされたのです。
《文献》
(1)高校教科書『倫理』、東京書籍(2007年検定済み、2008年発行)129ページ。
(2)“The grounds for conflict: Grienberger, Grassi, Galileo, and Posterity”, Mordechai Feingold, The New Science and Jesuit Science: Seventeenth Century Perspectives, ed. M. Feingold, Kluwer, Academic Publishers, (2003), pp121―157.
(3)『ガリレオ裁判』J・サンティリャーナ著(武谷三男監修、一瀬幸雄訳)、岩波書店(1973年)372ページ。
【まとめ】
ガリレイ裁判は、「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立であった。
ガリレイの地動説はイエズス会士たちによって受け入れられたが、ガリレイが傲慢な態度で論敵を馬鹿にしたために糾弾され、異端審問の憂き目にあった。
ガリレイの暴挙によって、イエズス会士たちの科学研究が禁止されると共にカトリック教会が地動説を公認する動きが妨げられた。http://www.christiantoday.co.jp/articles/18011/20151207/kagaku-no-honshitsu-19.htm
再生核研究所声明 264 (2015.12.23): 永遠とは何か ― 永遠から
現代人は 空間とは 座標軸で表される数の組の集合 で表させるものと発想しているだろう。 基礎である直線は 実数を直線上に並べたもの、逆に直線とは 実は 実数全体の表現と考えられる。 すなわち、直線とは 基準点である原点ゼロから、正方向と負方向に正の実数と負の実数が大小関係で順序づけられ無限に双方向に伸びていると考えられる。
そこで、永遠とは 直線に時間を対応させ、限りなく正方向に進んだ先のことを 想像している。どこまでも どこまでも 先に行けばどうなるだろうか。直線上でも、平面上でも である。 砂漠の伝統を有する欧米文化の背景、キリスト教などの背後には、 永遠とは限りなく 果てしなく先にあると発想しているという。 どこまでも、どこまでも きりのない世界である。 ユークリッド幾何学が そのような空間を考えていることは確かである。
ところが四季に恵まれたアジアの民は、限りなく広がる世界に、不安や淋しさを直感して、 正の先と、負の先が一致していて、直線は円で どこまでも どこまでも行くと反対方向から、現在に至り、永遠は繰り返しであると、四季の繰り返し、天空の繰り返し、円運動のように発想して 仄かな安心感を覚えているという。永劫回帰、輪廻の思想を深く懐いている。実に面白いことには 美しい複素解析学では、立体射影の考えによって、直線を球面上の円と表現し、無限遠点の導入によって、 これらの思想を 数学的に厳格に実現させ、全ユークリッド平面の全貌を捉え、無限の彼方さえ捉えることが出来た。 その時 永遠を 確かに捉え、掴むことさえ出来たと言える。立体射影による球面上の北極に 確かに存在すると言える。素晴しい、数学を手に入れていた。この美しい数学は 100年以上もリーマン球面として、複素解析学の基本となってきている。
ところが2014.2.2偶然に発見されたゼロ除算の結果は、この無限遠点が 実は原点に一致していた という衝撃的な事実を述べていた。 永遠、無限の彼方と想像していたら、それが 実は原点に戻っていたという事実である。 それが我々の数学であり、ユークリッド空間の実相である。幾何学の性質や物理的な法則をきちんと説明している、我々の世界の数学である。
それで、永遠や無限遠点、我々の空間の 十分先の考え方、発想を考える必要がある。
無限の先が原点に一致している事実、それを如何に理解すべきであろうか。
それについて、 次のように解説してきた:
再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
新しい世界観は 始まりから始まり 最後には 突然戻るということを述べている。 しからば、始めとは何で 終りとは何だろうか。 これについて、 始めも終わりも、質的な変化であると定義できるのではないだろうか。 簡単な数学で万物、universe の現象を説明するのは難しい状況は確かにあるだろう.しかし、ゼロ除算の思想は、新羅万象が絶えず変化して 繰り返している様を表現しているように感じられる。
大事な人生の視点は 今日は 明日のためや遠い未来のためにあるのではなく、 現在、現在における在るべき適切な在りようが大事だと言っているようである。もちろん、現在は、未来と過去に関係する存在であり、それらは関係付けられ、繋がっているが 焦点はもちろん、 現在にあるということである。
ビッグバンの宇宙論は 適切に理解され、始めとは 大きな変化で 現状の元が始まり、
やがて突然、元に戻って 終わることを暗示しているようである。人生とは 要するに 内なる自分と環境に調和するように在れ と ゼロ除算は言っているようである。
ゼロ除算は 仏教の偉大なる思想 を暗示させているように感じられる。
以 上
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
最近展開しているゼロ除算が、新しい世界観を示しているのは 大変興味深い。直線とは一体どうなっているだろうか.空間とはどのようになっているだろうか。これについて、現代人は、双方向にどこまでも どこまでも 続いている直線を想像するであろう。限りなく広がった平面や空間である。ところが 立体射影によって 平面全体を球面上に1対1に写せば、全平面は 球面から北極を除いた球面上に1対1にきちんと写るから、無限に広がる 全平面の全貌が捉えられる。ところが平面上には存在しない想像上の点 それはあらゆる方向に限りなく遠くに存在する無限遠点の導入によって、その点を球面の欠けた1点北極に対応させれば、無限遠点を含めた平面全体は 球面全体と1対1にきちんと対応する。
このような対応で 平面上の円や直線全体は 球面上では共に円に対応するという美しい対応になり、平面上の直線は 球面上では、北極(無限遠点)を通る円に写ると、直線と円の区別は 球面上では不要になる。また、平面上の平行線とは 無限遠点で 角度ゼロで交わっている(接している)と平面上の構造がよく見えて、無限遠点を含めての平面の全構造が 捉えられる。このように、考えると、直線とは、球面上では北極を通る円、平面上では無限遠点を通る直線となる。この構造は、直線を1方向にどこまでも, どこまでも進めば、無限遠点を 通って、逆方向から戻ってくるという、永劫回帰の思想をちょうど実現している。それは、球面上では、 円を繰り返し回ることを意味する。 その様は 何もかも すっかり良く見える。
これが、従来100年以上も続いた世界観で、関数y=x やW=zは 無限遠点に近づけば、それらの像も無限遠点に近づいていると考えるだろう。 関数y=x の値は正方向にどんどん行けば、どんどん大きくなると考えるだろう。
しかるに、ゼロ除算1/0=0は、それらの関数は無限遠点にいくらでも近づくと 無限遠点にいくらでも近づくが、無限遠点自身では、突然ゼロになっていることが 幾何学的にも確認された。上記、北極は 実は原点ゼロに一致しているという。
話しを簡単にするために、 関数y=x を考えよう。右に行けば、プラス無限に、負の方向左に行けば 負の無限に限りなく近づくは 従来通りである。ところが、ゼロ除算では いずれの方向でも上記無限遠点では 値ゼロをきちんと取っているという。ゼロ除算の数学では、どんどん、増加した先、突然、ゼロ、原点に戻っているという。また、円でも球面でも半径Rをどんどん大きくすると、当然、円の面積や球の体積はどんどん限りなく大きくなるが、半径が無限のとき、突然、それらはゼロになるという。それらの理由も数学ばかりではなく、幾何学的にも明確に見えている。
この数学的な事実は、我々の世界、宇宙がどんどん拡大して行くと突然、ゼロに帰するということを暗示させている。 ― これは 宇宙回帰説を意味しているようである。
これは、ユニバースの普遍的な現象、どんどん進んだ先が、元に突然戻る原理を示しているようである。
そもそも人生とは如何なるものか。― よくは分からないが、事実として、生まれて、どんどん物心がついて、人間として精神活動が活発化して、多くは本能原理によって生かされて、そして、突然元に戻ることを意味しているようである。このことを深く捉えられれば、世界がよりよく観え、悟りの境地に達する大きなヒントを得ることができるだろう。
ここでは ゼロ除算の帰結として、宇宙回帰説、ユニバースの回帰説を唱えたい。この考えでは、どんどん進めば、突然元に戻るという原理を述べている。珠算における 御破算で願いましては で 再び始めることを想起させる。これは、また、reset と同様であると考えられる。
以 上
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
割り算のできる人には、どんなことも難しくない
世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。
ベーダ・ヴェネラビリス
数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年
再生核研究所声明259 (2015.12.04) 数学の生態、旬の数学 ―ゼロ除算の勧め
数学とは何だろうかと問うてきたが(No.81, May 2012(pdf 432kb) www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)違う観点から、はじめに数学の生態について外観して、ゼロ除算の研究の勧めを提案したい。
純粋数学の理論は 恰も人間とは無関係に存在して、まるで神の言語のように感じられるが、しかしながら、生活している人間、関与している人間、またそれらを支えている社会が数学の発展の行くすえ、成長の生態に反映されているのは事実である。実際、最も古く、超古典のユークリッド幾何学の発展、現状を見れば、数学の生態の様を見ることができる。その幾何学は 素朴に土地を測るという、現実の要求から生まれ、知的要求で言わば社会との関わりを有しないレベルまで発展して、膨大な理論体系が作られたが、現在では研究の専門家がいない程に確立した理論とされている。研究課題としては終わっていると考えられる。多くの数学も同様な経過を辿っている様を見ることができる。多くは物理学やいろいろな現象から新しい数学が生まれた例は多いが、ここは、素朴な数学の具体例、基本的な問題から、新しい数学が生まれ、発展して、やがて、細分化、孤立化した結果に至って 衰退している様を 数学の生態として捉えることができるだろう。社会との関係が薄く、興味を抱く人が少なくなれば、その数学は衰退すると ―すなわち 誰もやらなくなり、殆ど忘れされていくことになるだろう。この意味で、多くの数学も、花の命や人の一生のように 夢多き時期、華やいだ時期、衰退して行く時期といろいろな時期があると考えるのが妥当ではないだろうか。基本的で、新規な結果がどんどん展開されるときは、その数学の発展期で、活動期にあると考えられる.他方、他との関係が付かず、興味、関心を抱く者が少なくなれば、既に衰退期にあり、研究は労あって成果は小さいと言えよう。
数学を言わば輸入に頼っている国では、価値観も定かではなく、権威ある、あるいは数学の未解決問題の解明や小さな部分の形式的な拡張や精密化に力を入れている現実がある。見るだけでうんざりしてしまう論文は 世に多いと言える:
再生核研究所声明128 (2013.8.27): 数学の危機、 末期数学について
(特に純粋数学においては、考えられるものは何でも考える自由な精神で真理の追究を行なっているから(再生核研究所声明36:恋の原理と心得)、一旦方向が、課題が定まると、どんどん先に研究が進められる。基本的な精神は 内部における新しい概念と問題の発掘、拡張、すなわち一般化と精密化、そして他の数学との関係の追求などである。それらがどんどん進むと、理解出来る者、関心を抱く者がどんどん少なくなり、世界でも数人しか興味を抱く者がいないという状況になり、そのような状況は 今や珍しくはないと言える。 ― 興味以前に分からない、理解できないが 殆どであると言える。 また、何のための結果かと問われる結果が 現代数学の大部分を占めていると言えるだろう。特に数学内部の興味本位の結果は そのような状況に追い込まれ、数学の末期的状況の典型的な形相と言えるだろう。実際、相当なブームに成っていた数学の分野が、興味や関心を失い、世界でも興味を抱く者が殆どいなくなる分野は 結構実在する。それらの様は、さまざまな古代遺跡のように見えるだろう。― 夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもがゆめのあと):松尾芭蕉。
もちろん、数学は、時間によらないようであるから、オイラーの公式のように、基本的で美しく、いろいろ広く関係しているような結果は、普遍 (不変) 的な価値を 有すると言える。)
どの辺の数学に興味を抱くは、個人の好みであるが、最近考えられているゼロ除算は極めて初期の段階にあり、夢多き段階にあると見られので、広く世に状況を公表して、ゼロ除算の研究を推進したい。
ゼロ除算は、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見で、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるがゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、全く未知の世界を探検できる。 既に数学的には確立され、物理的、幾何学的にも実証されている。 最近、素人にも分かるような例が結構発見されてきたので、 広く 世にそのような面白い新しい現象の発見を呼びかけたい。まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロであると述べている。すなわち、 1/0=0 である。それらは 既に 数の実体である と言える。
― 要点は、上記直角双曲線は、原点で猛烈な不連続性を有し、爆発や衝突、コマで言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることである。複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界であるが、無限遠点は 数値としては ゼロが対応する。
現在までに発見されたゼロ除算の実現例を簡単に列挙して置こう:
万有引力の法則で、2つの質点が一致すれば、引力はゼロである;一定の角速度で回転している回転体の中心で、角速度はゼロで、中心で不連続性を有している;光の輝度は 光源でゼロであること:円の中心の鏡像は 無限遠点ではなくて、中心そのものであるという強力な不連続性;電柱の微小な左右の揺れから、真っ直ぐに立った電柱の勾配はゼロであり、左右からマイナス無限とプラス無限の傾きの一致として、傾きゼロが存在している; 代数的には ゼロ除算z/0=0を含む簡単な体の構造が明らかにされ、数体系として自然な体系である複素数体より ゼロ除算z/0=0を含むY体 の方が自然であると考えられること; 点の曲率がゼロであること、などである。
さらに、原始的なテコの原理にもゼロ除算は明確に現れ、初等幾何学にも明確に現れ、例えば、半径Rの円をどんどん大きくすると,円の面積はいくらでも大きくなるが、半径が無限になると突然、その面積はゼロになることが認識された。 Rが無限になると円は直線になり、円は壊れて半空間になるからである。 このことの明確な意味が数学的に捉えられ、一般に図形が壊れる現象をゼロ除算は表していることが分かった。これらの現象は ゼロ除算が 普遍的に存在する現象を説明するもの と考えられる。
また、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。 実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y.Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the realand complex fields, Tokyo Journal of Mathematics {\bf 8}(2015), no.2 (in press).
がそれらの最先端である。
これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。専門家はいないから、多くの人が面白い現象を発見できる機会があると考えられる。
次も参考:
再生核研究所声明189(2014.12.233) ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明222(2015.4.8) 日本の代表的な数学として ゼロ除算の研究の推進を求める
再生核研究所声明253(2015.10.28) 私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象
以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
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