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THE PAGE2015年12月11日 10:00大村氏ノーベル医学賞受賞から考える「医療はビジネスか、ボランティアか」
12月11日(日本時間)、イベルメクチンという薬の開発への貢献でノーベル医学・生理学賞を受賞した北里大学特別栄誉教授の大村智氏が、同じくイベルメクチンの開発に携わった米国ドリュー大学名誉研究フェローのウィリアム・キャンベル氏、マラリア治療薬の開発で受賞した中国中医科学院終身研究員兼首席研究員のト・ヨウヨウ氏と共に、スウェーデン・ストックホルムで行われた授賞式に臨みました。今回は、大村智氏とウィリアム・キャンベル氏の研究がどのような形で医療現場に届けられたのかを紹介しながら、医療の発展のために考えなくてはならない課題を考えます。
土の中から発見された微生物が、難病の特効薬に
今回、2人がノーベル賞を受賞することになった研究は、1970年代に静岡県で始まります。自然界にある微生物の研究を専門にしている大村氏は、静岡県伊東市にあるゴルフ場の土壌から「放線菌」と呼ばれる新種の細菌を発見しました。
ちょうどその頃、ペニシリンやストレプトマイシンといった抗生物質の開発を手掛けていたメルク社(米国)は、創薬に応用できる可能性のある新しい微生物を発見するために、大村氏が所属する北里大学の研究所から土壌サンプルを入手。その中に、大村氏が発見した「放線菌」の入った土壌が含まれていました。このとき、土壌を研究するメルク社の上級研究員だったのが、大村氏と共にノーベル賞を受賞したウィリアム・キャンベル氏です。ここで、放線菌を発見した大村氏が持つ“バトン”は、キャンベル氏へと引き継がれます。
キャンベル氏は、北里研究所から送られた土壌サンプルを元に、数百回もの試験を実施。その結果、大村氏が発見した放線菌を含む土壌サンプル「S3153」の中に、有効成分である「エバメクチン」という新たな物質を発見し、この物質が当時アフリカなどの途上国で猛威を振るっていたオンコルセカ症(河川盲目症)や象皮病という寄生虫由来の感染症に有効であることを突き止めます。
オンコルセカ症は、小さなブヨを媒介して体内に侵入する寄生虫で、体内で繁殖することで身体の至る所が強い痒みに襲われて皮膚の損傷を引き起こし、目に侵入すれば失明を招きます。また象皮病は、蚊が媒介する寄生虫で、体内に侵入することにより足が象の足のように太く硬くなることからその名がついています。
世界保健機構(WHO)の1978年の統計によると、オンコルセカ症の感染者はアフリカを中心に約1800万人にのぼり、失明に至った重篤な患者も約34万人に。感染者を安全に治療する方法も確立しておらず、当時使用できた薬は強い副作用のため死者を出すほど。事態は深刻な状況でした。
キャンベル氏によって発見されたエバメクチンは既に動物の感染症に有効であることがわかっていましたが、キャンベル氏は更にエバメクチンがこのオンコルセカ症や象皮病の治療に有効な“特効薬”なのではないかという可能性を考え、メルク社も後に誕生する抗寄生虫薬「イベルメクチン」の創薬に向けた検討を行います。しかし、そこには大きな壁が立ちはだかっていました。
“患者が買えない薬”、“儲からない薬”のための巨額投資、メルク社の決断は
創薬メーカーが新しい薬(新薬)を開発し世の中に届けるためには、莫大な費用と時間と手間が掛かります。エバメクチンを人体に使用しても安全な薬にするためには十分な研究期間と費用が必要になり、薬を生産するための製法も開発する必要が。そして、創薬が実現したとしても、動物による有効性と副作用の実験、世界各国で患者に投薬することによる臨床実験(治験)が必要になります。新薬を世の中の患者の元に届けるためには、10数年の期間と数億ドルもの資金が費やされるのです。
この開発資金は、もちろん回収して利益を上げなければ創薬メーカーは新薬開発を通じて多くの研究者・社員・研究機関・生産拠点を抱える企業体を維持することはできません。そのためは、創薬メーカーがその開発資金を薬の価格に転嫁したり、国や国際機関、ボランティア団体などが薬を患者に届けるための費用を負担したりします。しかし、「イベルメクチン」を必要としているアフリカをはじめとする途上国の人々は、薬を買ったり治療を受けるための資金力がなく、国や団体からの資金援助が受けられる見込みもありません。それでもメルク社は、製品化に成功したイベルメクチン(製品名:メクチザン)を途上国の患者に無償で提供するという決断をしたのです。
もちろん、商品の無条件での無償提供は営利企業がやるべきことではありません。そのようなことを続けていては、企業は瞬く間に破綻してしまいます。その中で、メルク社が検討した画期的な新薬を数百万人もの患者に無条件で寄付するという前代未聞の発想は、社内でも大きな議論を呼んだといいます。
しかしメルク社は、できるだけ早く、そして多くの患者にイベルメクチンを届け、感染症による苦しみから解放したいという思いと、世界中にメルク社のポリシーを示したいという思いから、無償提供を決断。薬を提供するだけでなく、その薬を患者に届けるための流通システムをも開発し、多くの患者の治療に貢献しました。
大村氏が日本の土壌の中から新物質を発見し、そのバトンを受け継いだ米国のキャンベル氏はエバメクチンという新成分を発見。そして、そのバトンをアフリカなどの途上国で苦しむ患者の手元に届ける過程においては企業の前代未聞と言える決断があり、イベルメクチンは数百万人とも数千万人とも言われる多くの患者の治療に貢献することになりました。今年のノーベル賞医学賞の裏には、「多くの患者を救いたい」という国を超えた強い熱意の繋がりがあったのです。こうした研究者と民間企業の連携について、大村氏はストックホルムで行われた受賞記念講演の中で次のように語っています。
「私は毎年2千種類以上の微生物を土壌サンプルから抽出して、その微生物がどのような物質を生み出しているかを調べている。有望な物質は保存して研究対象にしているが、科学研究にはお金がかかり一人ではできず、産業界でパートナーを探す。1970年代初頭、幸運にもメルク社と新たに共同研究を始めることができた。メルク社との共同研究を通じて、多くの興味深い物質を発見した。特にキャンベル氏が特定した、日本の土壌から発見した放線菌が生み出す物質エバメクチンは最も重要で、体内の寄生虫を殺すことができる世界初のものだった。イベルメクチンの研究は産学連携の先駆けとなった」(大村氏)。
一方、イベルメクチンの研究で大村氏とキャンベル氏がノーベル賞を受賞したことについて、メルク社の日本法人であるMSDの広報担当者は、「30年近くに渡る当社の歴史の中で、アフリカや南米の難病である河川盲目症の治療薬メクチザンの開発をめぐる、全ての関係者の疾病との戦いにおけるイノベーションと熱意を誇らしく思う。大村博士の貢献、キャンベル博士と当社の“人々を救う”という情熱がメクチザンの開発を可能にし、結果的に河川盲目症に苦しむ多くの人を救うことにつながったと考えている。当社はメクチザンの無償提供プログラムを通じて、30年近くにわたり河川盲目症に苦しむ人々に治療薬を提供してきた。これからも世界の健康課題の解決に向けて、科学とイノベーションの探究に専念していきたい」とコメント。
また、メルク社が新薬の無償提供という決断を行ったことについて、MSDの担当者は「創業者の子息ジョージ・W・メルクは、『医薬品は人々のためにあるのであり、利益のためにあるのではないことを決して忘れてはならない。どのようにすれば全ての人々に最良の医薬品を届けることができるだろうか。その答えを見出し、最高の成果を全人類にもたらすまでは休むことはできない』という言葉を残している。巨額の費用を投じて開発した新薬を無償配布することについては、開発費用の回収や患者に届ける流通ルートの確保など多くの懸念や課題があった。しかし、当社は創業理念に立ち返り“必要な人がいる限り、必要なだけ”メクチザンを無償提供することを決断し、WHOなどと協働して実現した」と説明しています。
イベルメクチンによる人類への貢献は、大村氏の探求心とキャンベル氏の熱意、メルク社の献身的な姿勢が三位一体となって実現したものだと言えるのです。
イベルメクチンのストーリーをただの“美談”だと思ってはいけない
このイベルメクチンをめぐるストーリーは、広く医療分野において多くの称賛を浴び、書籍や経営学の教材にもなっているほどです。しかし、このストーリーは医療分野に大きな課題を投げかけているとも言えます。それは、ノーベル賞を受賞するような高度な研究に込められた“多くの人の病を治し、命を救いたい”という強い思いと、一方でその研究の恩恵を世の中に届けるためには莫大な研究開発資金を必要とし、患者にも巨額の医療費の負担を強いることになってしまうという現実との間には、大きな矛盾が生じているということです。
例えば、アフリカなどの途上国や紛争地域で活動し、98年にノーベル平和賞を受賞した国境なき医師団は、寄付を募ってそれを活動資金にしています。2012年にIPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授は、IPS細胞の研究を実際の医療に応用するために企業と連携したり基金を設立して資金を集めたりするなど、マネジメントに奔走しているのだそうです。
今回紹介したイベルメクチンのストーリーを含めて、このような“世の中に貢献したい”という情熱や献身的な姿勢は医療にとって重要なことであることは間違いありません。しかし一方で、寄付やボランティア精神に基づき採算性を度外視した医療活動や研究開発は、長期的に見てその企業や団体の疲弊を招くというリスクも内包しているのではないでしょうか。
医療に携わる企業や団体は、その莫大な研究開発費を患者からの医療費や国からの補助金によって回収できなければ、新薬や医療技術の開発による社会への継続的な貢献は不可能であり、医療は企業にとって利益=新たな研究資金を生み出すことができるビジネスでなければなりません。
しかし一方、企業が儲けを優先すれば、貧富の差によって必要な医療を受けられない患者もたくさん生まれてしまいます。全ての企業や団体がメルク社のような決断ができるわけではありません。全ての人に平等に医療を提供して社会に貢献したいという理想と、企業や団体の持続性のためには患者に高額な医療費を支払えるか否かという条件を突きつけなければならないという現実。
この相反する状態をどのように解決すべきかを考えることは、これからも次々とノーベル賞を受賞する研究者が生まれて医療分野が発展していく将来に向けて、非常に重要な課題なのではないでしょうか。
(執筆:井口裕右/オフィス ライトフォーワン)http://blogos.com/article/149324/
微生物の世界は本当に深いので感銘を受けます。
それを発見、活かすのも大変ですが、大村氏は素晴らしい計画に参画された。素晴らしい。
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
再生核研究所声明259 (2015.12.04) 数学の生態、旬の数学 ―ゼロ除算の勧め
数学とは何だろうかと問うてきたが(No.81, May 2012(pdf 432kb) www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)違う観点から、はじめに数学の生態について外観して、ゼロ除算の研究の勧めを提案したい。
純粋数学の理論は 恰も人間とは無関係に存在して、まるで神の言語のように感じられるが、しかしながら、生活している人間、関与している人間、またそれらを支えている社会が数学の発展の行くすえ、成長の生態に反映されているのは事実である。実際、最も古く、超古典のユークリッド幾何学の発展、現状を見れば、数学の生態の様を見ることができる。その幾何学は 素朴に土地を測るという、現実の要求から生まれ、知的要求で言わば社会との関わりを有しないレベルまで発展して、膨大な理論体系が作られたが、現在では研究の専門家がいない程に確立した理論とされている。研究課題としては終わっていると考えられる。多くの数学も同様な経過を辿っている様を見ることができる。多くは物理学やいろいろな現象から新しい数学が生まれた例は多いが、ここは、素朴な数学の具体例、基本的な問題から、新しい数学が生まれ、発展して、やがて、細分化、孤立化した結果に至って 衰退している様を 数学の生態として捉えることができるだろう。社会との関係が薄く、興味を抱く人が少なくなれば、その数学は衰退すると ―すなわち 誰もやらなくなり、殆ど忘れされていくことになるだろう。この意味で、多くの数学も、花の命や人の一生のように 夢多き時期、華やいだ時期、衰退して行く時期といろいろな時期があると考えるのが妥当ではないだろうか。基本的で、新規な結果がどんどん展開されるときは、その数学の発展期で、活動期にあると考えられる.他方、他との関係が付かず、興味、関心を抱く者が少なくなれば、既に衰退期にあり、研究は労あって成果は小さいと言えよう。
数学を言わば輸入に頼っている国では、価値観も定かではなく、権威ある、あるいは数学の未解決問題の解明や小さな部分の形式的な拡張や精密化に力を入れている現実がある。見るだけでうんざりしてしまう論文は 世に多いと言える:
再生核研究所声明128 (2013.8.27): 数学の危機、 末期数学について
(特に純粋数学においては、考えられるものは何でも考える自由な精神で真理の追究を行なっているから(再生核研究所声明36:恋の原理と心得)、一旦方向が、課題が定まると、どんどん先に研究が進められる。基本的な精神は 内部における新しい概念と問題の発掘、拡張、すなわち一般化と精密化、そして他の数学との関係の追求などである。それらがどんどん進むと、理解出来る者、関心を抱く者がどんどん少なくなり、世界でも数人しか興味を抱く者がいないという状況になり、そのような状況は 今や珍しくはないと言える。 ― 興味以前に分からない、理解できないが 殆どであると言える。 また、何のための結果かと問われる結果が 現代数学の大部分を占めていると言えるだろう。特に数学内部の興味本位の結果は そのような状況に追い込まれ、数学の末期的状況の典型的な形相と言えるだろう。実際、相当なブームに成っていた数学の分野が、興味や関心を失い、世界でも興味を抱く者が殆どいなくなる分野は 結構実在する。それらの様は、さまざまな古代遺跡のように見えるだろう。― 夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもがゆめのあと):松尾芭蕉。
もちろん、数学は、時間によらないようであるから、オイラーの公式のように、基本的で美しく、いろいろ広く関係しているような結果は、普遍 (不変) 的な価値を 有すると言える。)
どの辺の数学に興味を抱くは、個人の好みであるが、最近考えられているゼロ除算は極めて初期の段階にあり、夢多き段階にあると見られので、広く世に状況を公表して、ゼロ除算の研究を推進したい。
ゼロ除算は、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見で、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるがゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、全く未知の世界を探検できる。 既に数学的には確立され、物理的、幾何学的にも実証されている。 最近、素人にも分かるような例が結構発見されてきたので、 広く 世にそのような面白い新しい現象の発見を呼びかけたい。まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロであると述べている。すなわち、 1/0=0 である。それらは 既に 数の実体である と言える。
― 要点は、上記直角双曲線は、原点で猛烈な不連続性を有し、爆発や衝突、コマで言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることである。複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界であるが、無限遠点は 数値としては ゼロが対応する。
現在までに発見されたゼロ除算の実現例を簡単に列挙して置こう:
万有引力の法則で、2つの質点が一致すれば、引力はゼロである;一定の角速度で回転している回転体の中心で、角速度はゼロで、中心で不連続性を有している;光の輝度は 光源でゼロであること:円の中心の鏡像は 無限遠点ではなくて、中心そのものであるという強力な不連続性;電柱の微小な左右の揺れから、真っ直ぐに立った電柱の勾配はゼロであり、左右からマイナス無限とプラス無限の傾きの一致として、傾きゼロが存在している; 代数的には ゼロ除算z/0=0を含む簡単な体の構造が明らかにされ、数体系として自然な体系である複素数体より ゼロ除算z/0=0を含むY体 の方が自然であると考えられること; 点の曲率がゼロであること、などである。
さらに、原始的なテコの原理にもゼロ除算は明確に現れ、初等幾何学にも明確に現れ、例えば、半径Rの円をどんどん大きくすると,円の面積はいくらでも大きくなるが、半径が無限になると突然、その面積はゼロになることが認識された。 Rが無限になると円は直線になり、円は壊れて半空間になるからである。 このことの明確な意味が数学的に捉えられ、一般に図形が壊れる現象をゼロ除算は表していることが分かった。これらの現象は ゼロ除算が 普遍的に存在する現象を説明するもの と考えられる。
また、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。 実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y.Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the realand complex fields, Tokyo Journal of Mathematics {\bf 8}(2015), no.2 (in press).
がそれらの最先端である。
これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。専門家はいないから、多くの人が面白い現象を発見できる機会があると考えられる。
次も参考:
再生核研究所声明189(2014.12.233) ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明222(2015.4.8) 日本の代表的な数学として ゼロ除算の研究の推進を求める
再生核研究所声明253(2015.10.28) 私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象
以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
経過などは 次を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上
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