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長谷川豊2015年04月02日 02:03上重アナに悪気があるようには見えない
今日の夕方より、取材依頼の電話がジャンジャンかかってきた。皆さんもヤフーニュースのトップでも見たであろう、日テレの上重アナの件である。
僕の4つ下の上重アナは元甲子園球児。面識はないが、画面で見る限りとてもさわやかな青年で、視聴率絶好調の日本テレビにおいても高い人気を誇る男性アナの一人だ。この4月からは朝の情報番組「スッキリ」の進行司会に抜擢されている。その上重アナに、下記の追及を明日発売の週刊文春が行ったのだ。
◆日テレ「スッキリ!!」新司会・上重聡アナ 「1億7千万円マンション」利益供与
文春さんの記事内容を僕が詳しく書くわけにもいかない。興味のある方は文春さんを買って読んでくれればいいと思うのだが、ざっくりと概要だけを言っておくと、上重聡アナが、昨年、自宅マンションを購入したらしい。その金額は1億7千万円。正直言って…ちょっとあまりにも…な金額だが、話を先に進める。
で、その際に、有力スポンサーであるABCマートの創業者の三木正浩氏から多額の融資を無利息で受けていたことが、取材により明らかとなったというのだ。
週刊文春としては「報道機関である民放の社員がスポンサーから金品などの便宜を図ってもらうこと自体、重大なコンプライアンス違反であり、上重アナの行為は日テレの社員就業規則の懲戒事由に該当する可能性がある」と伝えているわけだが…数点申し上げたい。
・コンプライアンス違反か?と問われれば、それは否定しきれない
残念ながら、文春さんの記事の指摘は…個人的にはちょっと厳しすぎるのではないかとも思うが…それでも、言ってる理屈は間違ってはいない。これはコンプライアンス的に問題か?と問われれば、迷いなく「全く問題ございません!」とは言い切れない気はする。その理由として…↓
・ちょっと金額が高すぎる
断言しておくが、日テレの社員です、また日テレよりもずっと高給をもらっているフジテレビの社員です、と言ったところで、通常であれば、1億7千万円のマンションは買えない。断言しておくが、普通では無理だ。上重アナの実家が考えられないレベルの金持ちで、1億円ほどの金額を融資してもらえないと、このマンションは絶対に購入は不可能だ。と、言うことは上重アナは「通常の勤務では手に入らない『利益』を『供与』された」という文春さんの理屈自体は筋は通っていると言える。
・が、悪気があるようには見えない
上記したように上重アナとは面識はないが、とても爽やかで好感の持てる人物だと聞いているし、記事を読む限り、とても悪意を持ってやった行動とは思えない。記事の中でも出てくるのだが、ABCマートの三木氏が物件の紹介も購入の勧めもしたとのこと。その通りなのだろう。多分、そこまで深く考えて取った行動ではなく、彼自身は「ご厚意に感謝して、いい物件だと思って購入した」という感じなのだと思う。だとすると、今後、適切に処理し、本人が次に同じことをしなければ、「気を付けろよ」で済む話の気がする。
・三木氏にも悪気があるような気はしない
これは想像の域を出ないのだが、多分三木氏…もしくは、三木氏の奥様などが…上重アナのファンだったりしたのではないだろうか?と、言うのも、本当に「悪意を持った利益供与」だったのであれば、こんな手の込んだ形をとる必要がないからだ。
実は我々アナウンサーだけではなく、テレビに出演している人間は…はっきりと言ってしまうが、大なり小なりの「利益供与」とも受け取れる行為は…ほとんど全員が受けているものだと思ってほしい。
アナウンサーやタレントの世界の慣例
世の中には…いわゆる「ミーハー」な人々が少なくなくて、テレビに出ている、というだけで多くの方が友人になろうと話しかけてきてくれるし、その方々も何らかの宣伝になるかもしれない、何らかの見返りもあるかもしれない…という下心も少しありつつ色々なものをくれたり提供してくれたりは、日常的にあることだ。
普通の人が行けないようなコンサートのチケットは取れるし、普通は行けないようなパーティーには出席できるし、新商品や人気アイテムは、「欲しいですね~」とその会社のスタッフさんに一言言えば、数日後には段ボール箱でアナウンス室に届いたりするのは日常茶飯事だ。
確かにこれは「利益供与」の一端ではあるし、本来は適切とは言い切れない側面もないとは言えない。
が、これは企業にとっては大事な営業活動であり、局員のアナウンサーといえども自信のブログやツイッター・フェイスブックなどを活用している今の時代、もしかしたら自身のブログで取り上げてもらえるかもしれない!という思いも、もちろん少しはある。企業サイドとしては、宣伝広告の一環として、女性アナに自分たちのブランドの洋服を着てもらい、そのまま「よかったらお使いください、お似合いですよ♪」なんて言うのは、当然のことでもある。
が、今回の件は少々これらのケースとは異なる。
明確に金銭の授受があること。ABCマートは有力なスポンサーであるということ。そして、いくらなんでも…金額が高すぎることだ。記事にあるように「懲戒事由に該当の可能性」は言いすぎだと思うが、局内ではちょっとだけ注意されてしまうかもしれない。それ以前に、とにかく早めに売却手続きをして、こういう指摘はもう受けないようにした方がいいと思う。
上重アナは、今回は少々可哀想だったと思うが、これらの経験はきっと将来にはいい勉強になると思う。我々アナウンサーは何かあれば、マイクで取り返すのが一番だ。と、言うか…それ以外出来ないのがアナウンサーだ。日テレさんもどうか上重アナを守ってあげてほしい。以前も一度言ったことがあるのだが、局所属のアナウンサーは局が守ってくれなければ誰も守ってくれない。彼を愛する多くのファンのためにも、どうか温情のある対処を切に願うものである。http://blogos.com/article/109206/
公正の原則で、バランスを上手く取るは 処世の大事な点では? 遵法が 基本ですね。
再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について
まず、ニュースについて、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
ニュース(英:news)とは、最新の情報や出来事の報道のことである。あるいは、そうした事件や、出来事も指す。具体的には、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事などを伝えること。メディアとしては、新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、インターネット(特にWWW、ニュースサイト)が使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、インターネットの普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
メディア市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ネットを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬に米国内1,489名の成人に対して行われたもので、40%がインターネットから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞をニュースソースとしている人の率は2005年からほぼ横ばいだが、インターネットを情報源としている者の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビは70%の人がニュース情報源としていると回答しており、依然インターネットと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、インターネットはすでにニュース情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。ちなみに2007年はテレビ68%、インターネット34%であり、急速にインターネットのシェアが延びている。
そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。このことは、次の観点を思い起こさせる:
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について
― まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見は何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
― これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。―
というように、ニュースの重要性、価値判断は 多くは、上記のようにマスメディアを操作している人たちによって定められるという観点である。インターネットの普及で、個人たちが社会への影響を志向して、いろいろ積極的な働きかけがなされるようになってきているが、当分、新聞やテレビ、ラジオの影響の大きさは 続くのではないだろうか。
そこで、そのような関係者は、文化を支え、社会的な価値判断をしている現実を真摯に受け止め、声明165に有るように、責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。
特に、この声明の発想は、ニュースとして扱われる重要性をきちんと評価され、適切に扱い、伝えられることを 要望したいということである。
卑小な犯罪や、つまらないニュースを繰り返し、繰り返し扱い、伝えられているようなことはないだろうか。ニュースの低俗化などはないだろうか。(最近のある会合で、テレビを持たないという高貴な方から、そのようなニ-ハに興味があるのかという、話しを珍しくお聞きした。)他方、伝えられるべき 価値あるニュースで、無視されているようなことはないだろうか。新しい価値を見い出したり、世相を高め、浄化するような視点にも配慮し、より良い社会を築くために ニュースの質、扱いの妥当性を検討するように 精進、また見識を高められるように、関係者に要請したい。
本声明は、報道関係者に マスメディアの社会における重要な役割を 思い起こさせることにある。
以 上
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について
まず、世論について、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
世論(せろん、よろん、英語: public opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見、もしくは大多数の賛同が得られている意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
用語[編集]
日本では、戦前より、「輿論(ヨロン)」と比べるとはるかに頻度は低いものの、「世論(セイロン、セロン)も使用されていた(輿論の項参照)。使用頻度に関しては、戦前の代表的な国語辞典である『言海』などに収載されていないことが一つのめやすになるだろう。戦後の当用漢字表制定時に、「輿」が当用漢字表に含まれなかったため、新聞などでは「世論」の表記が使われるようになった。その後、それまでの「セロン」のほか、「世の中の論」という感覚での「ヨロン」という読み(湯桶読み)も一般化した。
概要[編集]
世論は多くの人々が共有する意見であり、社会の統合化の促進、支配者の統治の正当化のために世論は重要であると考えられている。特に現代の議会制民主主義に基づいた社会においては選挙を通じて世論が政治的支配の正当性を左右することになる。すなわち世論は政治的リーダーに対する国民の意思表示としての機能があると言える。しかし世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単なるマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることも多いし、またアナウンス効果による世論操作と言われることもある。
民主主義では 主権は国民にあり、 国民の意見に従うは大事とされるが、この文脈で、国民の意見の表現で しばしば世論が使われ、政治や政権に一定の圧力を加え、反映が期待される面を有している。また、選挙の動向の報告に世論調査が盛んに行なわれている。
まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見とは何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。 世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。 この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。 選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
ところで、民主主義の観点で、政治や政権が 世論に縛られるとは考えるべきでは無く、国民に選ばれた代表者は、高い立場から、個々の政治的な問題について、国民の世論など曖昧な意見に左右される必要はなく、自由に判断できると考えるべきである。そうでなければ、民主主義は 無責任政治、衆愚政治に陥ることになるだろう。まさに、間接民主主義の大事な観点は ここに有ると考えられる。
これはもちろん、選挙で選ばれた政治家が、多様な意見を参考にすることを、否定することを意味しない。逆にいろいろな意見を参考にすべきは当然である。
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、 逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。
以 上
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