2015年4月14日火曜日

記事 西田亮介/Ryosuke Nishida2015年04月14日 04:26なぜ、メディアの選挙報道は有権者に伝わらないのか――客観報道に加えて、意味内容の解説を

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西田亮介/Ryosuke Nishida2015年04月14日 04:26なぜ、メディアの選挙報道は有権者に伝わらないのか――客観報道に加えて、意味内容の解説を

統一地方選挙の前半戦が終わった。メディアはその投票率の低さを報じている。2014年末の衆院選も投票率が戦後最低だったことが話題になったが、今回の選挙でも投票率の低さが目立った。
統一地方選前半、投票率過去最低に:日本経済新聞
上記の日経新聞の記事は、以下のように伝えている。
 10の知事選では、半分の5県で投票率が50%を割った。10知事選の平均は47.14%となる見込みで、統一選として過去最低だった2003年の52.63%を下回り、初の50%割れとなる。
41の道府県議選では大半が過去最低を更新。平均は推計で45%前後とみられ、これまで最も低かった11年の前回統一選(48.15%)を下回る。
むろん、各有権者が主体的に政治に関心を持って投票に行くことが望ましい。他方、現実に有権者が政治に対して関心を失っているのなら、普及啓発も必要だ。関連して、幾つかの記事を書いてきた。
社会に政治を理解し、判断するための総合的な「道具立て」を提供せよ――文部省『民主主義』を読んで(西田亮介)- Y!ニュース
 「無音」の統一地方選、早急に政治と民主主義を理解するための「道具立て」の導入を(西田亮介)
Yahoo!ニュース個人はオンライン・メディアだが、メディアの影響力といえば、今のところ、日本社会ではマスメディアが顕著に強いとされている。ここでいう「影響力」とは、さしあたり視聴者数と、各視聴者がメディア体験を経て行動に反映するか否かという変数を掛けあわせたようなものだとイメージしておいてもらえれば事足りるだろう。
他方で、その割には、選挙報道は選挙が来る度になされているにもかかわらず、今回の統一地方選のように大きな争点が顕在化していない選挙の場合、いくら「投票率が下がる可能性」をメディアが報じても、一向に投票率が上がらないのはなぜだろうか。もう少し抽象度を上げて言い換えると、なぜ、メディアの選挙報道は有権者に伝わらないのだろうか。
「メディアの議題設定機能」といったりするが、日本の場合、マスメディアが主導して大々的なキャンペーンを展開することは少ない。放送法が規定する政治に対する公平中立性を重視するため、リクルート事件のように刑事事件の可能性があるケースを除くと、積極的に争点を作っていくことはあまりない。こうした日本のメディアのあり方を「偏向している」という見方もあるが、アメリカでも公平性原則が撤廃されるまでは政治的中立性に配慮するよう求められていた。
だが、マスメディアは、事実報道に終止するあまり、その意味内容を受け手に伝える努力を(意図せず)怠ってしまっている可能性があるのではないか。以下の京都府議選と市議選に関する2本のニュースを見てみてほしい。
 自民第1党、共産は第2党に 京都府議選(京都新聞)- Yahoo!ニュース
 京都市議選、自民第1党 共産上積み、民主大敗(京都新聞)- Yahoo!ニュース
ここで京都と京都新聞を取り上げたのは、筆者の勤務地だからという程度の意味しかないが、多くの統一地方選に関する報道は、概ねこれらの記事のように選挙結果と議席の動向を取り上げている。もちろん新聞紙面で見た場合、ページを繰っていけば、もう少し踏み込んだ分析的な記事も掲載されているかもしれない。だが、おそらく1面や目立つページはこうした選挙結果とその客観的動向を中心に取り上げているはずだ。
これらのニュースを読むと、確かに選挙結果と動向はよく分かるように思えるかもしれない。だが、これらの記事からは、京都府、京都市の政治で、これから何が起こりうるのか、どういった政策が推進されていく可能性が高まるのかといった意味内容は、全くわからない。おそらくは、相当京都の政治動向に詳しくないと、結局その意味は受け手には伝わらないと思われる。そのような記事を、最初から最後まで読むだろうか。
たとえば具体例を挙げてみると、京都市議選の記事では、図のなかに「過半数ライン」が引かれているが、自民、共産の順番で並んでいるので、自公が連立すると京都市議会では過半数を越えるということも文章では説明されておらず、行間を読まなければ分からない。
「そこまで説明する必要があるのか」という意見もあるかもしれない。だが、とくにあまり政治に親しみを持たない読み手にとっては、従来のメディアの「常識」を越えた、意味内容の解説が必要ではないか。 前半で取り上げた筆者の過去のエントリなどでも少し記したように、日本ではまともな有権者教育が提供されておらず、多くの有権者にとって、政治や民主主義、政局、それらのメカニズム等々が、ブラックボックスになっている可能性がある。池上彰氏のニュース解説番組が支持されるのは、池上氏の解説が、極めてわかりやすく社会的な問題を理解する補助線を提供しているからでもあるだろう。
「教養ブーム」の背後にも、類似のニーズが偏在しているかもしれない。メディアの選挙報道記事は、記事中の数字こそ変わるものの、全体の体裁は、暗黙裡にメディア内で引き継がれている。字数制限があるのはわかるが、今一度、その役割と機能、内容を見直してみてはどうだろうか。
かつて、マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と述べた。新聞記事が単体でネットに出たり、またネットファーストの新聞記事も登場するようになった。読者の高齢化に対応して、新聞の文字サイズは年々大きくなっていくが、記事の形式も、客観報道に加えて、意味内容をどのように受け手に伝えていくかという観点から見直すべき時期にきているのではないか。http://blogos.com/article/110048/
多くの地方選で争点や立候補の立場、人が見えず、無関心になっている状況は多いのでは?


再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について
まず、ニュースについて、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
ニュース(英:news)とは、最新の情報や出来事の報道のことである。あるいは、そうした事件や、出来事も指す。具体的には、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事などを伝えること。メディアとしては、新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、インターネット(特にWWW、ニュースサイト)が使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、インターネットの普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
メディア市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ネットを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬に米国内1,489名の成人に対して行われたもので、40%がインターネットから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞をニュースソースとしている人の率は2005年からほぼ横ばいだが、インターネットを情報源としている者の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビは70%の人がニュース情報源としていると回答しており、依然インターネットと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、インターネットはすでにニュース情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。ちなみに2007年はテレビ68%、インターネット34%であり、急速にインターネットのシェアが延びている。
そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。このことは、次の観点を思い起こさせる:
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について 
― まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見は何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
― これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。― 
というように、ニュースの重要性、価値判断は 多くは、上記のようにマスメディアを操作している人たちによって定められるという観点である。インターネットの普及で、個人たちが社会への影響を志向して、いろいろ積極的な働きかけがなされるようになってきているが、当分、新聞やテレビ、ラジオの影響の大きさは 続くのではないだろうか。
そこで、そのような関係者は、文化を支え、社会的な価値判断をしている現実を真摯に受け止め、声明165に有るように、責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。
特に、この声明の発想は、ニュースとして扱われる重要性をきちんと評価され、適切に扱い、伝えられることを 要望したいということである。
卑小な犯罪や、つまらないニュースを繰り返し、繰り返し扱い、伝えられているようなことはないだろうか。ニュースの低俗化などはないだろうか。(最近のある会合で、テレビを持たないという高貴な方から、そのようなニ-ハに興味があるのかという、話しを珍しくお聞きした。)他方、伝えられるべき 価値あるニュースで、無視されているようなことはないだろうか。新しい価値を見い出したり、世相を高め、浄化するような視点にも配慮し、より良い社会を築くために ニュースの質、扱いの妥当性を検討するように 精進、また見識を高められるように、関係者に要請したい。
本声明は、報道関係者に マスメディアの社会における重要な役割を 思い起こさせることにある。
                                     以 上

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