記事
SeaSkyWind2015年04月09日 00:00宗教問題は対岸の火事ではないはず
■イスラム教徒が最大勢力へ
米国の調査機関ピュー・リーサーチ・センターより『世界の宗教別人口は現在キリスト教徒が最大勢力だが、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になる』との予測が発表された。人口動態等を勘案すれば、さほど目新しい予測とも思えないのだが、思った以上にショッキングなニュースとして注目されているように見える。大多数の穏健なイスラム教徒にとっては失礼な話とも言えるが、『無宗教』を公言するような現代の大多数の日本人にとってはやはり脅威であり、得体の知れない不気味さを感じたり、不安を煽られたりしているはずだ。
イスラム教徒、2100年には最大勢力 世界の宗教人口予測 :日本経済新聞
実際、このような発表がある一方で、相変わらず『失意の若者狙うイスラム過激派 戦闘員候補、巧妙に物色』という類いのニュースも引きも切らず出て来るわけだから、脅威も不安も無理からぬところがある。それでも、先進国からイスラム国に自主的に出向くメンバーを含めて、自ら自爆テロ要因となる若者の心理は、理解できる部分もなしとはしない。差別を受けたり、米国やイスラエル等の空爆で罪のない家族を殺されたりして復讐心に燃える姿を見れば、同情の気持ちさえ湧くケースもあるだろう。
失意の若者狙うイスラム過激派 戦闘員候補、巧妙に物色:朝日新聞デジタル
だが、ナイジェリアのボコ・ハラムのように、10代の少女に爆弾を持たせて、遠隔操作で爆破するテロのような愚劣な行為を見せつけられては、もはやどう逆立ちしても理解も同情もできはしない。それどころか、イスラム教全体を疫病のようにみなす人々を抑える言葉さえ見つからなくなってしまう。
少女を脅して自爆テロ犯へ…ボコ・ハラムの恐るべき手口 - NAVER まとめ
■イスラム教だけの問題ではない
だが、歴史を遡れば、熱狂的な暴力行為に至る所行は、一人イスラム教だけのものではない。去る2月5日にワシントンで開かれた、National Prayer Breakfastで、オバマ大統領が、『歴史上、全ての宗教団体は暴力的な活動を展開してきた』とコメントしてキリスト教関係者が大激怒したそうだが、『多くの宗教は熱狂と暴力行為に至る可能性を秘めていて、歴史上それは何度も現実のものになってきている』という言い方であれば、誰しもこれを否定はできないはずだ。
オバマ大統領「全ての宗教は暴力的だ」と発言!キリスト教が大激怒!|面白ニュース 秒刊SUNDAY
宗教感情には、非常に崇高で厳粛な境地がある一方で、時に人を熱狂/トランス/暴力へ導くエネルギーを併せ持ち、既存の大宗教は、かつてはそのようなものを内部に含みながら、長い時間をかけて社会との葛藤や衝突に揉まれつつ、暴力的なエネルギーを抑止し、社会との折り合いをつけて来た、というのが本当のところだろう(その一方で原初のパワー/エネルギーも弱まったとも言える)。
現代の大抵の日本人は、葬式仏教のような一種の習俗/お付き合いを例外として、それ以外の宗教/宗教行為からは一定の距離を置き、無関心を装うのが『大人』『常識人』と信じている風がある。特に、オウム事件以降、日本人の宗教アレルギーは以前にもまして強くなっているように思える。だから、上記の要な議論は基本、自分たちとは関係ない他人事と思っているだろう。だが、本当にそうだろうか。
■日本教と宗教感情
『無宗教』を自認する日本人の風俗や普段の行動を外国人の目線で客観的に見ると、しばし、いかにも奇妙に映ることはよく知られている。かつて評論家の山本七平氏が指摘した通り、特定の宗教は名乗らなくても、大抵の日本人には日本教とでも言うしかないような信仰心の証が見え隠れする。少なくとも、合理的には説明のつかいない行動をいくらでも数え上げることができる(戦死者を祀った神社に参拝したり、お盆には先祖の霊を迎えたり、神社に行って合格祈願をしたり家内安全を祈ったりする等)。多少歴史を長いレンジで見れば特に、日本人の行動を突き動かす心底の原理は、しばし非常に感情的で非合理だ。そして宗教的とも言える。国に殉じる崇高を讃え、日本の山河を懐かしみ、会社に忠誠を誓って自殺したりする。皆広義の宗教感情であり、宗教感情の発露と言えるだろう。この場合、特定の宗教団体が問題でもなく、政治的な右とか左も関係ない。
そんなのは、古い時代の日本人の話で現代の若者には関係ない、という声も聞こえて来そうだが、これも本当にそうだろうか。今の自民党政治の目指す方向は、『家』中心の家父長制、いわば明治期を理想に据えているように見える。そして、多くの若者がこれを支持している実態を見れば(事の真相を理解しているかどうかは別として)昔も今もさほど変わらないように思える。少なくとも心理の古層は共有していることは明白だ。
■満たされない『崇高』求める気持ち
誤解のないよう断っておくが、私は宗教や宗教感情の一切合切を否定しているわけではない。宗教を介して非常に高い境地に達した素晴らしい人格者を私自身数多く知っている。通俗より崇高を求め、人知を超えた英知を求める気持ちは本来尊いものだ。ところが残念なことに、今の日本には、このような高い境地を求める気持ちが芽生えても、それを受け入れて善導してくれる器がない。危険のない既存の宗教は、いわば薄められ過ぎていて、そんな純粋な高みを追求する気持ちを満足させることができないことが多い。そして、ここなら、と思って飛び込んでみると、オウム(ないしそれと同様の団体)だったりする。
■『神』ではなく『悪魔』がしのびよる
また、最初は善意の個人、ないし少数者の集団から始まっても、本来言語化が難しいはずの『崇高』を言葉で無理矢理定義して、団体を組織し、その団体を拡大しようとするうちに、残念なことに、結局その空間には『神』ではなく『悪魔』が忍び寄ることが多い。本来『聖』を持って『俗』を仕切ることが難しいことは、過去に流れた大量の血が証明している。信仰の自由が一方にありながら、政教分離をもう一方の原則にする国々が多い所以でもある。
■日本では経済やアイドルが宗教
戦後の日本は『宗教感情』のエネルギーを、経済成長であったり、オタク向けのコンテンツやアイドルのようなエンターテインメントに向けてきた。批評家(というより最近はアイドル・プロデューサーというべきか)の濱野智史氏の著書、『前田敦子はキリストを超えた ー<宗教>としてのAKB48』*1というタイトル名など、まさにこれを象徴している。日本人の『宗教感情』のエネルギーをテロや犯罪等の破壊的な方向に向かわないように誘導している、という意味では、既存の宗教以上に宗教らしいことは確かだ。一定の役割を果たしているという議論にもそれなりの理はあると思う。
■それではおさまらない
だが、それではおさまりきれない『崇高』を希求する抑え難い衝動というのは、確かに存在する。そして、それは純粋であればあるだけ、他の代替物(お金、エンターテインメント、異性等)では置き換えれられない。そこには穴があいたままで、真面目で純粋な宗教感情を満たすことはできず、受け入れる器も未熟な疑似宗教のようなものしかなく、一方で貧困や格差(経済格差だけでなく『希望格差』も含む)が広がり、『俗』にも『聖』にも依ってすがれる『物語』が見つからない。今また日本にも魔が忍び寄り易い環境ができつつあるのではないのか。杞憂であればよいのだが。ただ、少なくとも、イスラム国等での話を、対岸の火事とばかりに国境線で安易に線引きするほど楽観してはいられないと私には思えるのだがどうだろうか。
1:
前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書) 前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)
作者: 濱野智史
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2012/12/07
メディア: 新書
購入: 9人 クリック: 3,364回
この商品を含むブログ (42件) を見るhttp://blogos.com/article/109726/
いろいろな価値を認め、住み分けの態度が大事では? 相手の気持ちの尊重は基本では?
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす 知と情の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性があり、いろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。
以 上
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿