勉強しても底辺校にしか入れなかった人って、≪賢さ≫というものに対して、呪詛に近いような感情を持っているのでしょうか?ネットで頭よさそうな人をやたらに筋も通さず叩いている人ってそういうことでしょうか?
ボク、劣等生になったことないからそういう人の気持ちがわからないの\(^o^)/
で、ボクの場合も、やっぱり行くところによっては激しく劣等感に襲われたり小さくこそこそ逃げ帰りたくなる。でも、そこにいる人たち、そういう感情をボクに味あわせた人に対して、恨むような気にはならないなぁ。ああ、自分にはチャンスも才能もなかったなって、失望と悲しみが湧いてくるだけ。でも、確かに努力しないで幸運ばっかり廻ってくる奴にはめちゃくちゃ嫉妬する嫌悪することがあるけど、それは相手を嫌というほどよく見てきて実際付き合ってみて、そういう過程を経てからのこと。ネットの一期一会なんてもとより、たまにちょっと会うすごく薄い付き合いとか会合とかで底の人に攻撃的な気分にはならないなぁ。なんか、どっちがおかしいんでしょうね?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10144288290
人間の能力も 社会もそう単純でないので、いろいろな生き方を考えたい.多様な価値を発見して行きたい。
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
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国の借金1000兆円を突破 6月末時点
国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み
再生核研究所声明 105(2012.11.06) 人間の愚かさ、弱点について
人間を大きく捉え、人間の愚かさ、人間の弱点の視点から 人間について 触れて置きたい。
まず、人生の肯定にかかわる、大事、人間は本能に基づいて、少しでも生きたいと考え、健康に気遣ったり、病との闘い、あるいは生きるために いろいろ苦労している。しかしながら、人生は帰するところ、みな同じで、無駄な努力をして わざわざ苦労しているとも言える。これ、人間の愚かさの最たるものである。(しかし、地球すら いずれ壊滅するだろう。その時、世界史は結局 空に帰するだろう。そこで、本能寺の変が起きたら、余計なことを続ける必要が無くなった、これ幸いと考えれば 良いですね。2012.6.11.09:45)。しかしながら、 人生の基本定理: 生きて存在しなければ 始まらない ― を しっかりと、理解する必要がある。
しばしば、恋をしたり、子をもうけ、育児など、することなど、愚かしいことと考えられる面がある。これは、人生そのものを否定するような発想につながる面もあるが、人間の愚かな営みであると考えられる面を否定できず、逆の立場の視点を 有していることは視野を広める意味で、また 本能からの解放で 良いのではないだろうか。
人間には、育ち、初期の学習で 大きな影響を受けて、その枠から抜けられないような要素が有るので、大きな弱点として、指摘したい。宗教や文化の強い影響を考えてみれば 深く理解できるだろう。― しばしば、ベジタリアンは おいしい肉を、まるで悪魔を見るような眼差しで見ている。
恋でも、学問、芸術、志でも 初期の影響が 永く人生に影響していることは驚くほどである。殆ど、初期に受けた影響から 抜けられないは あたかも 人間そのものがそのように形づけられた面が、要素があると考えられる。― 三つ子の魂 百までも とは よく言ったものである。
次に環境、群衆心理に流され易い、状況を指摘したい。人は世論や、環境に左右され易く、 戦時などにおける 異常な群集心理には大いに心したいものである。 上記、少し触れた 本能寺の変でも、途中で 反乱に反対した者がいなかったのは、考えようによっては、不思議なものであるが、群衆心理で、軍隊の流れで、 突入させられているのではないだろうか。それは 基本的にいずれの軍隊、合戦でも同じようではないだろうか。そもそも、人間は大きな流れの中で、流されている面が相当に強く、慣性の法則で 生きている面が強いのではないだろうか(再生核研究所声明 72:慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。 多くの価値観、感性すらも環境、文化的な背景で、形づくられていると言える。
環境の影響で、いわゆる、劣等感の強い影響を 特に指摘したい。相当に偉いとされている成功者でも、 試験に落ちた、 受験に失敗したことの傷を受けているのを知ると、実に驚くほど、劣等感の強い影響を感じる。人にはそれぞれ、個性が有り、得意、苦手はつ きものであるから、大事な個性として、居直る強さを身に付けるべきである。強いもの、良いものだけでは 社会は構成できず、いろいろあって社会である。優越感も同じく、空しいものである。― 人が何でもない様な事で、永く、深く傷ついている場合が 世には多い。
個人は、物理的にも、客観的にも小さな存在であるから、原理的にも単細胞的思考、予断と先入観で支配された 盲目的な存在である と絶えず自戒する必要がある(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
人間は、人間関係の中で生きているという面を有するが、無用な競争意識に 悩まされている場合が多いのではないだろうか。人が、友人が成功したり、幸運を掴むか否かは、本当は、自分には関係がないのに いちいち気にして、人のことに異常に関心をもっている愚かさは 世に多いのではないだろうか。日本における 異常に競争をあおる教育における世相は、人間形成の観点と そのような競争心を異常に高める悪しき在りようであると考える(再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)。
現在、日本の政局は混乱していて、さまざまな意見と批判が展開されている。予断、決めつけ、感情むき出し、思い込み、敵、味方に分けての考え方が 強く、真面目な議論の背景が薄く、批判合戦になっているのは、世相ばかりではなく、そうあるまじき、マスコミ、政党、言論界などすらもそうである。 人間の浅ましさ、愚かさの極みと絶えず、自戒し、どうしたら 良い国造り、良い社会を築けるかと、広い視野と公正な精神で考え、前向きに、建設的な立場で議論するように努力したい。
人間の愚かさと 弱点は それこそ人間らしい、人間の実相だと達観して、眺める余裕を持てれば、人間の愛おしさを 一層深められるのではないだろうか。
以 上
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