2015年4月22日水曜日

記事 佐藤慶一2015年04月20日 01:58Yahoo!ニュースはどのように記事の価値を判断するのか? ソーシャル&スマホ普及がもたらす「ニュースの変容」

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佐藤慶一2015年04月20日 01:58Yahoo!ニュースはどのように記事の価値を判断するのか? ソーシャル&スマホ普及がもたらす「ニュースの変容」



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ヤフートップには1日100本のニュースを掲出
先日、スクーにて「何が『ニュース』なのか Yahoo!ニュースに学ぶ価値判断と『見出し力』」という授業が開講されていました。登場したのはヤフーのニュース編集部リーダーの伊藤儀雄さん。編集部の体制やトピックス編集方針・判断基準のみならず、ニュースとはなにか、といったことを改めて考えるきっかけになる授業でした。

Yahoo!ニュースのトップは1日約100本の記事が掲載されるそうです。300以上の提携メディアから毎日4000本以上のニュースが届くなかで、人が読めるものは限られているため、記事の重要性と本数のバランスがとれているのが現状100本程度とのこと。

1996年7月にスタートし、いまでは月間約100億PV超え、スマホからのトラフィックが半数。2014年のブラジルW杯がきっかけで、スマホ経由が伸びていったのは興味深いことです。東京、北九州、大阪、八戸の4ヵ所体制・4交代制(24時間シフト)の編集部は約25名で構成されているそう。トップの編成は30分に1回(1~3本)ほど変更され、約2時間でトップ記事8本がすべて変わるといったやり方。

見出しの閲覧だけで、政治知識の学習に効果
やはりエンタメとスポーツがよく読まれるそうですが、硬派なニュースも掲載しているYahoo!ニュース。ヤフーと国立情報学研究所による共同調査によれば、見出しを閲覧するだけでも、政治知識の学習に効果的という結果が出ています。

Yahoo! JAPANのトップページに掲載される「Yahoo!ニュース」のトピックス見出しを閲覧するだけで、個別の見出しをクリックして記事自体を読まなくても、政治に関する知識の学習効果が認められました。これは、「Yahoo!ニュース」が政治に関する知識を社会に広く伝達するという重要な役割を担っていることを示しています。
「Yahoo!ニュース」の閲覧は、政治的関心の高い層と低い層の、政治に関する知識差の縮小に効果があります。特に、政治に関心の低い層が政治的リーダーのパーソナリティについて学習する場として機能しました。
これらの結果は、ニュースをタイムリーに整理・選定し、バランス良く掲載することで新たな価値を生んできた「Yahoo!ニュース」とその特性、および編集姿勢がもたらした結果であるといえます。
「Yahoo!ニュース」は政治に関する知識の学習に効果的
~ トピックス見出しの閲覧が有権者の知識差の縮小に貢献 ~

編集方針は、公共の利害にかかわる重要な出来事である「公共性」と世の中の多くの人が知りたいと思っている事象「社会的関心」の2つのバランスを重要とし、7つの観点からニュースの価値を判断しているとのことでした。

7つとは、1. 速報性/時事性/今日性、2. 真実性/信頼性、3. 新奇性、4. 公益性、5. 認知度、6. 表現力、7. 品位。どんなニュースが価値があるんだろう、と思ったときに、こういったポイントで考えてみるのは有用だと感じました(もちろん価値あるニュースだからといってすべてのポイントが含まれるというわけではないです)。

ニュースを変える「ソーシャルとスマホ」
また、伊藤さんはニュースの変容について「ソーシャル&スマホ化」という点を挙げ、発信者、受信者、環境という3つに対して変化が起きていると説明していました。

発信者の変容:担い手の爆発的増加、ニュースの種類や質が多様化
受信者の変容:メディア接触回数の増加、情報ニーズの多様化
環境の変容:情報消費のサイクルが加速、確度や質の高い情報が流通拡散
新聞雑誌テレビなどマスメディア全盛の時代に比べて、現在のスマートフォンとソーシャルメディアが普及する時代においては、友人からの通知などのほうがニュースといったことも言えそうです。そういう意味では、メディアの役割のひとつであるアジェンダセッティング(議題設定)をどのように機能させていくのかは大きな課題になるなと思いました。

Yahoo!ニュースによる授業はこれ以外にもあるようですので、メディアにかかわる方はチェックされるとよいかもしれません。伊藤さんが書かれている「ソーシャル時代の『ニュース』と格闘する」というコラムも合わせて読むとさらなる理解につながるのではないかと思います。

Yahoo!ニュースによるNewsHack術(全5回) - schoo WEB-campus(スクー)http://blogos.com/article/110494/

再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について

まず、世論について、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
世論(せろん、よろん、英語: public opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見、もしくは大多数の賛同が得られている意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
用語[編集]
日本では、戦前より、「輿論(ヨロン)」と比べるとはるかに頻度は低いものの、「世論(セイロン、セロン)も使用されていた(輿論の項参照)。使用頻度に関しては、戦前の代表的な国語辞典である『言海』などに収載されていないことが一つのめやすになるだろう。戦後の当用漢字表制定時に、「輿」が当用漢字表に含まれなかったため、新聞などでは「世論」の表記が使われるようになった。その後、それまでの「セロン」のほか、「世の中の論」という感覚での「ヨロン」という読み(湯桶読み)も一般化した。
概要[編集]
世論は多くの人々が共有する意見であり、社会の統合化の促進、支配者の統治の正当化のために世論は重要であると考えられている。特に現代の議会制民主主義に基づいた社会においては選挙を通じて世論が政治的支配の正当性を左右することになる。すなわち世論は政治的リーダーに対する国民の意思表示としての機能があると言える。しかし世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単なるマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることも多いし、またアナウンス効果による世論操作と言われることもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AB%96
民主主義では 主権は国民にあり、 国民の意見に従うは大事とされるが、この文脈で、国民の意見の表現で しばしば世論が使われ、政治や政権に一定の圧力を加え、反映が期待される面を有している。また、選挙の動向の報告に世論調査が盛んに行なわれている。
まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見とは何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。 世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。 この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。 選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
ところで、民主主義の観点で、政治や政権が 世論に縛られるとは考えるべきでは無く、国民に選ばれた代表者は、高い立場から、個々の政治的な問題について、国民の世論など曖昧な意見に左右される必要はなく、自由に判断できると考えるべきである。そうでなければ、民主主義は 無責任政治、衆愚政治に陥ることになるだろう。まさに、間接民主主義の大事な観点は ここに有ると考えられる。
これはもちろん、選挙で選ばれた政治家が、多様な意見を参考にすることを、否定することを意味しない。逆にいろいろな意見を参考にすべきは当然である。
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、 逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。
以 上

再生核研究所声明219(2015.3.20)報道における理系関係の充実を

まず、報道関係について述べてきたことで、本声明に関係ある声明の部分をコンパクトに引用しよう:
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について:
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度が 求められることを意味する。
再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について:
そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは 止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題:
また、公共放送として、教育的な要素の配慮は大事であり、 約束違反でも結果が良ければ良いでは、本末転倒であり、結果が良くなくても、意図、過程が適切ならば、評価すべきであるというが基本的な原則であるべきではないだろうか。 結果が良ければ 良いでは 世の秩序は保てず、悪い教育を全国レベルで行い、悪い影響を世にもたらすと考える。
もし、これらが、このドラマの、元々の物語に、あるいは史実に従っているとするならば、その辺の扱いには、深い、広範な配慮が 必要であると考える。マスコミや公共放送には 良い社会を築くような方向での 配慮が求められていると考える。真実を伝えれば良いとはなっていないのは当然である。 ドラマ制作関係者の注意を促し、配慮をお願いしたい。
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ:
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。

上記で述べてきたように、言論界、報道関係の役割は、国や社会で極めて重要な役割を果たし、言わば文化の 狭義の意味における 担い手集団と言えるだろう。
そこで、ここで注意を喚起したいのは、報道関係者には いわゆる文系の人間が多く、相対的に理系の人が少なく、そのために 文系の報道が多く、理系の取り上げられる題材が相対的に少ないのではないかという観点である。新聞記者など理系出身者が どのくらい いるのか、文芸関係者、スポーツ関係者、芸能関係者などと比較すると 大いに参考になるのではないだろうか。 もちろん、政治は 社会の大きな共通の問題であるから、報道関係に関わる人がその関係で多いのは当然である。
科学技術や科学も社会に大きな影響を与え、人々の関心も広く大きいが、それらの素養が薄い人たちが報道関係に多く関わっていて、そのために理系の題材が社会に適切に反映されていないのではないだろうか。小さな卑小な個人的な犯罪を大きく繰り返して報道していたり、繰り返し報道された 小保方氏の問題の報道などに見られる軽薄な報道には、何か問題はなかっただろうか。自然科学や技術関係の報道の充実は 報道界の大きな未開拓の分野であると注意を喚起するとともに、充実を希望して置きたい。
絶えず、報道する素材の価値について検討し、 質の高い報道の精選は大事ではないだろうか。なぜ報道し、それを受け取る者の 影響に思いを致すべきである。一方的に自社の都合で闇雲に報道するような姿勢は 良くないのではないだろうか。
以 上


再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について

まず、ニュースについて、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:

ニュース(英:news)とは、最新の情報や出来事の報道のことである。あるいは、そうした事件や、出来事も指す。具体的には、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事などを伝えること。メディアとしては、新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、インターネット(特にWWW、ニュースサイト)が使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、インターネットの普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
メディア市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ネットを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬に米国内1,489名の成人に対して行われたもので、40%がインターネットから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞をニュースソースとしている人の率は2005年からほぼ横ばいだが、インターネットを情報源としている者の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビは70%の人がニュース情報源としていると回答しており、依然インターネットと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、インターネットはすでにニュース情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。ちなみに2007年はテレビ68%、インターネット34%であり、急速にインターネットのシェアが延びている。

そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。このことは、次の観点を思い起こさせる:

再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について 
― まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見は何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。

― これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。― 

というように、ニュースの重要性、価値判断は 多くは、上記のようにマスメディアを操作している人たちによって定められるという観点である。インターネットの普及で、個人たちが社会への影響を志向して、いろいろ積極的な働きかけがなされるようになってきているが、当分、新聞やテレビ、ラジオの影響の大きさは 続くのではないだろうか。
そこで、そのような関係者は、文化を支え、社会的な価値判断をしている現実を真摯に受け止め、声明165に有るように、責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。
特に、この声明の発想は、ニュースとして扱われる重要性をきちんと評価され、適切に扱い、伝えられることを 要望したいということである。
卑小な犯罪や、つまらないニュースを繰り返し、繰り返し扱い、伝えられているようなことはないだろうか。ニュースの低俗化などはないだろうか。(最近のある会合で、テレビを持たないという高貴な方から、そのようなニ-ハに興味があるのかという、話しを珍しくお聞きした。)他方、伝えられるべき 価値あるニュースで、無視されているようなことはないだろうか。新しい価値を見い出したり、世相を高め、浄化するような視点にも配慮し、より良い社会を築くために ニュースの質、扱いの妥当性を検討するように 精進、また見識を高められるように、関係者に要請したい。
本声明は、報道関係者に マスメディアの社会における重要な役割を 思い起こさせることにある。
                                     以 上

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