Why Marx and Plato don’t make my philosophers’ fantasy football team
The classical Greek idea of learning how to live a good life by studying ideas is one we should adopt – but only if we put the right thinkers on
Iwas pleasantly taken aback recently when my teenage daughter came home from her (state) school telling me that she had just had an interesting lesson on Nietzsche and Kierkegaard. At her age, I had neither heard of these philosophers nor been able to spell their names.
Philosophy is now often disguised under the rubric of “religious studies”. Despite this, I think its adoption is an immensely positive step. Organisations such as The Philosophy Foundation and Philosophy4Children are working to push philosophy further up the educational agenda.
The inventors of philosophy, the ancient Greeks, had a different idea from us of what education meant. You weren’t at school in classical Athens to prepare yourself for the world of economic activity – on which much of modern education is predicated – but to learn “virtue”: how a citizen should live a good life.
You might go to a school of the Epicureans or the Stoics or the Cynics – and each would offer a different approach to life. I don’t think there is any more important question than: “How should you live?” that can be asked in schools, particularly now, when there is such confusion around the answer. It seems crucial to ask: “What are we doing all this for?” rather than just assuming everyone wants to work to buy a nice house, put nice possessions in it, possibly have a family and then retire and die.
Taking my cue from Plato, who enjoyed speculating on the ideal organisation of society, I have been asking myself which philosophers I would teach in schools to provide instruction on ethics, meaning and “virtue” – a kind of philosophical fantasy-football team. I might well leave Plato on the bench, given his belief that only philosophers had the wisdom to build the ideal society, but his mentor, Socrates, who believed truth was something that was real and could be uncovered, rather than just being a matter of clever argument, would definitely feature.
Heraclitus, with his formulation that “you never step into the same river twice”, would be a proponent of the idea that all life is change and flux – and that pupils should appreciate their childhood, because it’s going to disappear. The Stoics, who were in no doubt that life involved a lot of suffering, were experts in understanding how that suffering could be navigated – and what more valuable lesson could there be to our children?
Given the nature of the teaching profession, I suspect the philosopher who won the BBC’s “greatest philosopher of all time” vote in 2006, Karl Marx, would be the most popular choice for schools. I wouldn’t let kids anywhere near him, not because his philosophy is “bad” – although an awful lot of people have died in its name – but because it is largely incomprehensible, at least in its more contemporary formulations (step forward, backwards and sideways Adorno and the Frankfurt School.)
And what about Marxism’s bastard children, the postmodernists, who teach that truth is an ideological construction? Theirs probably isn’t the ideal path to go down, because 2+2 can be made to add up to 5. They would probably oppose classical philosophy on the basis that old, dead, white men invented it and therefore were pushing their own agenda.
As an old, white man myself, I don’t believe wisdom can be corralled into any age, race or gender. This is an unfashionable view, but freeing yourself from fashion (and ideas are subject to fashion as much as cars or dresses) should start as early as possible. Otherwise, we end up, well, where we are now. And I definitely wouldn’t wish that on my kids.
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明75(2012.2.10): 政治・経済の在りようについて
(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。
債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、
それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。
逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。
以 上
再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える
まず、再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え から復習しよう:
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēsの世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそuniverse に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
声明で述べたい主旨は ウィキペディアにおける天敵の項の説明のように、世は矛盾や複雑な利害関係で成り立っているということである:
自然生態系では、生物は食う食われるの関係でつながっている。ここで”食う”というのは、必ずしも捕食を意味するものではなく、寄生であっても、相手を殺す寄生になれば、それも含める。たとえば寄生蜂のような捕食寄生のものや病原体も含まれる。そのような生物を、食われる側の生物の天敵と呼ぶ。
実際の生物群集では、あるものを食う生物が一つしかないことは少なく、それぞれの生物は複数の天敵を持つ。ただし、食物網の高い段階のものでは、天敵種が少ないものも存在する。
生物群集では、これら食う食われるの関係が複雑に組み合わさって、各種生物の個体数は、長期的にはおおよそ保たれている。どれかの種が増えれば、それを捕食とする天敵が増加し、結果としてその種を減少させる力がそれまでより強まるからである。逆に天敵が増えすぎた場合も、捕食される生物の不足などの諸要因により数が抑制される。
人工的環境である農地では、人為的かく乱による天敵種数と個体数の減少により、害虫が大発生することがよくある。また、それまでそこにはいなかった生物(外来種)が進入した場合にも、天敵の不在により、外来種の大発生が引き起こされる可能性がある。
確かに 悪いことをする人がいなければ、多くの警察官や司法関係者は少なくて済む。 敵国の軍隊が弱ければ、自らの軍隊もそう増長する必要もない。 これらは 世の中は微妙なバランスの上に成り立っており、一面で判断したり、拘り過ぎたり、やり過ぎたりすることの危険性を述べており、 広い視野、バランス感覚の重要性を述べている。
一面の主張、行き過ぎに注意して、相手の立場や、逆の立場に思いを致して行きたい。総合的に判断する、世の流れを掴むような努力もしたい。
以 上
まず、再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え から復習しよう:
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēsの世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそuniverse に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
声明で述べたい主旨は ウィキペディアにおける天敵の項の説明のように、世は矛盾や複雑な利害関係で成り立っているということである:
自然生態系では、生物は食う食われるの関係でつながっている。ここで”食う”というのは、必ずしも捕食を意味するものではなく、寄生であっても、相手を殺す寄生になれば、それも含める。たとえば寄生蜂のような捕食寄生のものや病原体も含まれる。そのような生物を、食われる側の生物の天敵と呼ぶ。
実際の生物群集では、あるものを食う生物が一つしかないことは少なく、それぞれの生物は複数の天敵を持つ。ただし、食物網の高い段階のものでは、天敵種が少ないものも存在する。
生物群集では、これら食う食われるの関係が複雑に組み合わさって、各種生物の個体数は、長期的にはおおよそ保たれている。どれかの種が増えれば、それを捕食とする天敵が増加し、結果としてその種を減少させる力がそれまでより強まるからである。逆に天敵が増えすぎた場合も、捕食される生物の不足などの諸要因により数が抑制される。
人工的環境である農地では、人為的かく乱による天敵種数と個体数の減少により、害虫が大発生することがよくある。また、それまでそこにはいなかった生物(外来種)が進入した場合にも、天敵の不在により、外来種の大発生が引き起こされる可能性がある。
確かに 悪いことをする人がいなければ、多くの警察官や司法関係者は少なくて済む。 敵国の軍隊が弱ければ、自らの軍隊もそう増長する必要もない。 これらは 世の中は微妙なバランスの上に成り立っており、一面で判断したり、拘り過ぎたり、やり過ぎたりすることの危険性を述べており、 広い視野、バランス感覚の重要性を述べている。
一面の主張、行き過ぎに注意して、相手の立場や、逆の立場に思いを致して行きたい。総合的に判断する、世の流れを掴むような努力もしたい。
以 上
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