2017年11月2日木曜日

人間が永遠に生き続けることは数学的に「不可能」

人間が永遠に生き続けることは数学的に「不可能」

この数百年の間に人間の寿命は大きく伸び、「老い」そのものを避けるという研究も進んでいることから、いつか人間は永遠に生きられるようになるのでは?という考えを抱いている人もいるはず。しかし、アリゾナ大学の研究者らは、最新の研究結果で「数学的・論理的に見て死は避けられない」と伝えています。

Intercellular competition and the inevitability of multicellular aging
http://www.pnas.org/content/early/2017/10/25/1618854114

Fountain of Youth? Sorry, It's Not Out There | UANews
https://uanews.arizona.edu/story/fountain-youth-sorry-its-not-out-there

Humans living forever is ‘impossible’ according to science – BGR
http://bgr.com/2017/10/31/fighting-aging-study-research-cancer/

老化が起こると、人の体は細胞レベルで見て2つのことが起こります。1つは細胞の動きが遅くなり、色素や髪の毛の細胞を作るといった機能が失われていくということ。そしてもう1つは老化とともに生み出されやすくなるがん細胞といったいくつかの細胞の成長率が上がることです。近年進められている老化に関する研究の多くは、このような人間の体の細胞が生み出され死んでいくプロセスに着目したものです。

上記の2つの問題に対処し若さを手に入れるには、体が若い時の細胞の働きを手に入れ、同時にがん細胞のような生物的な必然性を避けることが必須となります。しかし、生態学と進化生物学の教授であるJoanna Masel氏が行った数学的なデモンストレーションでは、「細胞を若く保つ」ことと「がん細胞を排除する」ということは同時に実現できないという内容が示されました。
by National Human Genome Research Institute (NHGRI)

「年を取るにつれ、あなたの多くの細胞は動きが悪くなり、機能を失い、そして成長をやめます。しかしいくつかの細胞は異常なほど成長します。私たちが研究で示したのはキャッチ=22のような板挟みの状況です。あなたが動きがのろくなり機能が悪化した細胞を排除すれば、がん細胞は急増します。そしてこれらのがん細胞を排除したりスローダウンさせたりすると、今度は動きののろい細胞が蓄積されていきます。つまり、動きののろい細胞を蓄積させるか、がん細胞を増やすかの板挟みの状況になるのです。それらを同時に行うことはできません」と論文の共著者であるアリゾナ大学・博士研究員のPaul Nelson氏は語りました。

人間がいつか死ぬということは当然のことですが、2人の研究者は「なぜ老化は議論の余地がない事実なのか、多細胞生物はなぜ本質的に老化を避けられないのか」ということを示した形になります。

「人々はなぜ老化が起こるのかということを、『自然選択説が正しいならなぜ人は老化を止められないのか?』という観点から考えています。そこには暗に『年を取らないことは可能である』という前提があり、なぜ人間が老化しない方向に進化しないのかが問われています。しかし、私たちは『進化しない』のではなく『自然選択説であれ何であれ、できないのだ』ということを主張します」とMasel教授。

「老化の速度を遅くすることはできますが、止めることはできません。私たちはなぜ2つの問題を同時に解決できないのかというデモンストレーションを行いましたが、1つを修復するともう1つが問題となるのです。2つのうち1つの問題を対処しようとしても、両方に対処しようとしても、状況は時間と共に悪化します。その根本的な理由は、『物は壊れる』ということにあります。どんなに止めようとしても、壊れないようにしようとしても、無理なのです」とMasel教授は語っています。



再生核研究所声明 390(2017.10.31):  人間は 何をしているのだろう。

高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。

同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察

以 上


再生核研究所声明 145 (2013.12.14)  生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
(2013.12.8.14:20 研究室で、論文原稿を通読、満足して通読を終えて、休憩に入ろうとしたら、自然に湧いた構想である。)
ここでは 人間として生きることの 究極の意義 を考察したい。本質を観るには 余分な非本質的なことを排除するのが 良い。
まず、人間は生物であり、動物であるから、生物的な本能を満たしたいと考えるのは 当然である。生きること、生物的な条件が すべて満さられたと考えよう。食欲から人間を考える(再生核研究所声明85:食欲から人間を考える ― 飽きること)は 人間の本質をしっかり捉える意味で重要なことを述べていると考えられる。既に相当な人たちは、そのレヴェルを越えて、生きることを考えているだろう。
すなわち、学問、研究、芸術、求道、その他 好きなことを求め、考え、追及している。昇任したい、偉く成りたい、政治的な権力が欲しい、名誉が欲しいなどと考えている方も多いのではないだろうか。それらが、本当にどれほどの意味が有るかと問えば、実は自己とは離れていて、空しいものであると気づくだろう。自由な時間を求める者には、わずらわしく 馬鹿らしいと考えられるだろう。
しかしながら、それらを求めるが世に多いのは、それらに、自由とお金が結びつく、重要な副賞が 付いているからである。
世には、お金も 自由も十分に満たされている者も、実に多いのではないだろうか。 それで、人は何を求めて、生きている意義は 何かと問うている。一般的には、人間は、神、自由、不死を求めているとされる。さらに、人間存在の価値は、真、善、美、聖を求めることにあるとされている。しかしながら、今、それらを求める意義を問うているのである。それらに達したり、究めたりするのは 不可能であろうが、どんどん追及して行くことは出来る。しかしながら、それらの追及にも飽きて、やがて空しい、自己を発見するだろう。その時さらに、人間として生きること、在ることの意義を求めている。死からも解放されて、神さえも感得したら、人間は、さらに何を求めるかと問うている。世界史の中で、そのような回答を聞いたことは無い。されば、
人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなものである、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
しかしながら、結局、人生では 始めも、終わりも分からず、夢中で、踊っているようなものであるとすれば、 やはり空しく、寂しいものだ と考えるだろう。
この空虚を満たすには、健全な精神の 健全な進化による、悟りと神への帰依が望まれる(再生核研究所声明 132: 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか)(再生核研究所声明144)。
これが 回答に成り得るだろうか、それは 否であろう。 それよりは、人生の基本定理
再生核研究所声明 57: 人生とは何か、人生如何に生きるべきか -
さて、自由意志を有する人間について さらに 何が人生で 問題であろうか。すなわち、人間をその内なる世界からみれば、どのようになるであろうか。それは究極、人生の基本定理 人生の意義は 感動すること にある(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)ということになるだろう。 
なにものかによって 作られた人間 が できることとは、理想境界(ideal boundary, 想像上の境界)のように、自らの生命と感情の命ずるままに生きざるを得ない のではないだろうか。
暇だから、巨大素数の構造を調べる遊びに熱中していた、暇だから 数学をやる他ないと言っているような者は 世に多い (再生核研究所声明36)。
真実は唯一つ、生命の基本定理; 生きて存在しなければ、始まらない、ただ生きること、これだけが真実で、確かなことのようにみえる。
しかしながら、ここで生きることとは、個として生きることに非ず、大きな生命、元祖生命体 (再生核研究所声明36) としての 大きな命の存続 を志向している のも明らかである。それ故に、人は、共感、共鳴、交流を求めている。それは、精神を引き継いで行きたいという この大きな命に帰依したいという、本能に基づいているからである。

以 上


再生核研究所声明381(2017.09.03) NHK大河ドラマ 政次の最後と大義、本懐

これはドラマの中での、― 作られた想像上の世界におけるあり様についての所見である。始めに、ドラマ制作関係者、演出者達の素晴しさには 何時も感銘を受けているので、全体的に 称賛と感謝の気持ちを表明したい。

人間は環境に左右され、時代の価値観、生い立ちなどに根本的に影響を受ける。このことは 人間とは何者かとの本質に迫る問題であろう。そこで、個々の人間は心の全体における意志、志がその環境の中で、どのような在り様になるかで、個々の人間の人生観、人生は定まって行く。理想的な状況とは 結局、環境と個人の在り様が、高度に調和がとれていれば、人生に対する満足度は高く、生きて本懐である、死をも越えて本望であるという、 終末を迎えることが出来るだろう。今回のドラマで、政次は 仲間の、愛する者の誤解を恐れず、愛する者、一族の為に身を捧げたものであり、真に本望の最後を遂げたもので、多くの人に感銘を与えたのではないだろうか。 見事な、素晴しい最後である。
同じような最後を遂げた者として、前回の真田幸村や古くは大石内蔵助の最後などが想起される。いわば大義に殉じて1点の曇りもなく、最後を迎えたのであるから、素晴しい生涯と言える。
これは、武士の世界ばかりではなく、学問、研究、芸術、教育、修業、さまざまな路で 全く同様に考えられ、人物の志と環境と心の高度の調和は、分野や職業を越えて普遍的な在り様であり、人物評価の要点でもあると考えられる。

真摯に1点の曇りも無く人生を終えられるように修業に励みたい。

以 上

再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について
平和が永く続くと歌謡界、スポーツ界、芸能界など、重層に深く発展して、いわゆる一般の人たちには近づけない形相を帯びてくる。NHK大河ドラマや朝ドラなどの映像など 高級でどうして作れたか不思議でならない。しかし、ここに挙げた分野などでは、それらの良さが一般の人たちにも理解され 楽しませてくれるので、社会貢献、社会の役割などは相当理解できる。
このような視点から、数学について考えてみたい。人類精神の名誉のため の研究ではなく、専門外の人にとっての数学である。
まず、数学の役割であるが、それはギリシャ時代以来、数学の学習を通しての論理的な思考の訓練と、科学を記述する言語としての数学教育が重要視され、実際、各種入試などでは 数学の学力は重視されてきている。- これらの要請は、計算機や人工知能が 発達しても当分 本質は変わらないと言えるだろう。しかし、これらの状況に従って、カリキュラムの在り様や、教育の精神は絶えず変更が必要であろう。
上記に述べられている内容については、素材は相当に固まっていて、教育内容は安定していると見られるのではないだろうか。
そこで、日進月歩の数学研究内容の高度化と深さは、他の分野に比べて、数学の抽象性もあって、理解が困難で、専門家の間でさえ交流できない状況は普遍的見られる。一般人にとっては、大抵は始めから話題にもできず、内容の理解の最初の1歩さえ、踏み込めないであろう。すなわち多くの研究成果は、社会的にも一般の人にも何にもならない内容であると考えられる。しかし、物理的な問題、医学的な問題など具体的な問題解決の観点から等 具体的な研究の位置づけのある研究は 何も一般人に理解できなくても 当然そのような研究は十分に意義があることは誰にでも分かるだろう。しかしながら、数学内部から湧いた純粋な数学の内容は高級で、抽象的で、理解もできず、興味、関心を呼び起こすことは相当に難しいのではないだろうか。そのような課題は、数学界以外では ほとんど意味がないと言われかねない。これが現代数学における純粋数学の姿ではないだろうか。
もちろん、人類の名誉のための 自由な研究は それ自体 誠に 尊いものである。しかしながら、数学界が社会でより安定的な存在になるためには、高等数学より、基礎的な数学を重視し、数学の興味や好奇心を駆り立てる教育的な視点を強めていくのが 良いのではないだろうか。教育より研究であるという発想は、高等研究機関や大学などでは当然、としても 広範な大学や学校では勧められない発想ではないだろうか。 評価、評価の世相が 研究や形式的な研究業績などに拘りすぎている世相が無いかと気になる。数学の教育や数学の社会的な存在性に配慮していきたい。― 何のための数学かとは 絶えず問うていきたい。
数学の研究ではなく、数学を楽しんでいるような先生は、教授は世に必要であり、良い先生であり、良い教育者ではないだろうか。世情、研究者自身本意ではない つまらない抽象的な研究に走り過ぎてはいないであろうか。楽しむような数学を世に広めたい。― もちろん、これは一面の観点である。
以 上

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