名門校版「君たちはどう生きるか」
16の白熱授業の中で、名門校の教師たちが生徒たちに共通して問いかけていたものを煎じ詰めればこの一点。「君たちはどう生きるか」である。
吉野源三郎によって同タイトルの名著が書かれたのは1937年。多感な時期の青少年が立ち向かうべき問いは、戦前から変わっていない。その問いに真剣に向き合うことなく、エリートビジネスマンのまね事のようなカタカナのスキルばかりを身に付けたところで、荒れ狂う時代の波の中で自分の足で立ち続けるかどうか、おぼつかない。
『名門校の「人生を学ぶ」授業』(おおたとしまさ著、SB新書、税込864円)。累計500万PVの本連載をノーカット完全版にして書籍化。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
今、その名著が漫画になってリバイバルし、ブームになっているのもうなずける。あまりに変化が激しく、無自覚のうちに時代の波にのみ込まれかねないこんな世の中だからこそ、自らの進むべき方向性を見失わないために、その問いが重要なのだ。簡単に答えの出せる問いではない。それでいい。その問いを問いとして抱え続けることさえできれば、ひとは自由になれる。
自由とは、つねに「君は何を感じるんだ?」「君は何を考えているんだ?」「君はどこへ行きたいんだ?」「君はどうしたいんだ?」と尋ねられ続けることである。言うなれば自由とは、それ自体が無限の問いの集合体である。問いを問いとして抱え続ける力がなければ、自由には耐えられない。
その問いかけ自体は名門校でなくともできる。社会を通じて大人たちが子どもたちにつねに問いかけなければいけない問いだ。みんなが『君たちはどう生きるか』の主人公コペル君にとっての「おじさん」にならなければいけない。そのためにはまず、大人たちこそがその問いから逃げてはいけない。いやむしろその問いは、大人にこそ向けられているのである。
名門校の教育から、大人こそが忘れかけていた大事な何かを学べるのではないだろうか。http://toyokeizai.net/articles/-/195626?page=3
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明 76(2012/2/16) 教育における心得 ― 教育原理
人間の教育には微妙で複雑な要素がある。 その要点について触れ、教育の原理に思いを寄せたい。 また、学校教育や、家庭教育、人間の在りようの心得としたい。
教育とは要するに、 外なる刺激で、人間の成長、発展を促すことであるが、要点は外なる刺激が、個々の人間にどのように影響して、好ましい影響を与えるかである。
好ましい影響とはそもそも何であろうか。 簡単に考えれば、次が 基本ではないだろうか:
個人の才能を伸ばしたり、活かしたり、 究極には個人が幸せになること、
および
良き社会人になり、社会に貢献できるような人間に成長できるようにすること。
両者は矛盾するものではなく、表裏一体、車の両輪と言えるだろう。なぜならば、 人間は 社会の中の存在だからである。
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。
日本の大きな教育目標が 本来あるべき教育の理念からずれ、受験勉強やそのための学力を付ける いわゆる科目の勉強に重点が行き過ぎてはいないだろうか。 ひどい場合だと、ただ良い大学に入ることばかりが目的で、文科系を専攻したいのに、理工系,医学系が 評判が良いので 評判の良い方に入学したということは 世に多い現象である。 また、近年はいわゆる名門大学に入るために、 小さなころから 塾通いをしたり、入試を有利にするために、専門的な学校に入学して、特訓をしている場合が 世に多いのではないだろうか。
これらは、昔の軍国主義教育と同じように 何か変な教育で、おかしな人間を大量に育てているのではないかとの危惧の念を抱いている。また入試の共通テスト方式の悪い影響を危惧したり(再生核研究所声明 20:大学入試センター試験の見直しを提案する)、貧しい、競争をあおる風潮にも懸念を表明したり(再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)、 天才教育などに対する配慮なども提案している(再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会)。
そのような面からも、日本の教育の在りようについては 初心に戻って考え直す必要が有るのではないか(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)
そのような面からも、日本の教育の在りようについては 初心に戻って考え直す必要が有るのではないか(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)
と、 再検討を広く訴えたい。
EUやアメリカでは、日本のような上記教育問題が 顕在化していない様に見えるが、実体の解明と比較検討は 大いに参考になるのではないだろうか。
もちろん 教育の問題は、人間存在の意義 と同じく、永遠の問題であり、絶えず、各級で検討され続けて行かなければない。
以 上
再生核研究所声明 390(2017.10.31): 人間は 何をしているのだろう。
高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。
同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
以 上
再生核研究所声明283 (2016.2.8) 受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:
再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:
ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。
まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:
1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。
いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。
再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:
1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7) 危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、
等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上
再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:
再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:
ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。
まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:
1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。
いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。
再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:
1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7) 危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、
等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上
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