今年のノーベル物理学賞を受賞した「重力波観測」。何がそんなにスゴいんですか?<重力波とは何か>
2017年のノーベル物理学賞は、「重力波」の観測に成功したアメリカの研究チームが受賞しました。
重力波って何? 重力波観測の、何がそんなにスゴいの?
実は、重力波を観測することで、「宇宙誕生の瞬間」も見ることができるようになると言われています。
そして、今回の受賞者のひとりレイナー・ワイス博士が、インタビューで「日本人研究者の存在なしには、受賞はあり得なかった」と感謝の言葉を述べたのが、東京大学宇宙線研究所教授で、日本の重力波観測施設「KAGRA(かぐら)」を率いる川村静児さん。
川村さんの著書『重力波とは何か――アインシュタインが奏でる宇宙からのメロディー』から、人類永遠の謎に挑む「重力波天文学」のロマンあふれる世界をご紹介します。
重力波って何? 重力波観測の、何がそんなにスゴいの?
実は、重力波を観測することで、「宇宙誕生の瞬間」も見ることができるようになると言われています。
そして、今回の受賞者のひとりレイナー・ワイス博士が、インタビューで「日本人研究者の存在なしには、受賞はあり得なかった」と感謝の言葉を述べたのが、東京大学宇宙線研究所教授で、日本の重力波観測施設「KAGRA(かぐら)」を率いる川村静児さん。
川村さんの著書『重力波とは何か――アインシュタインが奏でる宇宙からのメロディー』から、人類永遠の謎に挑む「重力波天文学」のロマンあふれる世界をご紹介します。
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■■100年ごしの素晴らしい発見
2016年年2月11日(現地時間)に、すばらしい大発見が発表されました。新聞も一面に大きな見出しを掲げて報道したので、覚えている人も多いでしょう。
米国の研究グループが、「重力波」の直接検出に世界で初めて成功したのです。
米国の研究グループが、「重力波」の直接検出に世界で初めて成功したのです。
この歴史的な偉業を成し遂げたのは、カリフォルニア工科大学とマサチューセッツ工科大学が中心となって建設した「LIGO(ライゴ)」という観測施設でした。正式には「レーザー干渉計重力波観測所(Laser Interferometer Gravitational-Wave Observatory)」といい、LOGOはその頭文字から取った略称です。…http://www.excite.co.jp/News/column_g/20171102/Gentosha_9028.html
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明 393(2017.11.3): ゼロ除算の認知と真相の解明、究明を求める
ゼロで割る問題、ゼロ除算は 狭くは Brahmagupta (598 -668 ?)以来で、彼は Brhmasphuasiddhnta(628)で 0/0=0 と定義していた。ゼロ除算は古くから物理、哲学の問題とも絡み、アリストテレスがゼロ除算の不可能性を示していたという。現在に至っても、アインシュタイン自身の深い関心とともに相対性理論との関連で相当研究がなされていて、他方、ゼロ除算の計算機障害の実害から、論理や計算機上のアルゴリズムの観点からも相当な研究が続けられている。さらに、数学界の定説、ゼロ除算の不可能性(不定性)に挑戦しようとする相当な素人の関心を集めている。現在に至ってもいろいろな説が存在し、また間違った意見が出回り世間では混乱している状況である。しかるに、 我々は、ゼロ除算は自明であり、ゼロ除算算法とその応用が大事であると述べて、 次のように表現して、広く内外に意見を求めている:
Dear the leading mathematicians and colleagues:
Apparently, the common sense on the division by zero with a long and mysterious history is wrong and our basic idea on the space around the point at infinity is also wrong since Euclid. On the gradient or on derivatives we have a great missing since $\tan (\pi/2) = 0$. Our mathematics is also wrong in elementary mathematics on the division by zero.
I wrote a simple draft on our division by zero. The contents are elementary and have wide connections to various fields beyond mathematics. I expect you write some philosophy, papers and essays on the division by zero from the attached source.
____________
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hi roshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1
-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
国内の方には次の文も加えている:
我々の初等数学には 間違いと欠陥がある。 学部程度の数学は 相当に変更されるべきである。しかしながら、ゼロ除算の真実を知れば、人間は 人間の愚かさ、人間が如何に予断と偏見、思い込みに囚われた存在であるかを知ることが出来るだろう。この意味で、ゼロ除算は 人間開放に寄与するだろう。世界、社会が混乱を続けているのは、人間の無智の故であると言える。
三角関数や2次曲線論でも理解は不完全で、無限の彼方の概念は、ユークリッド以来 捉えられていないと言える。(2017.8.23.06:30 昨夜 風呂でそのような想いが、新鮮な感覚で湧いて来た。)
ゼロ除算の優秀性、位置づけ : 要するに孤立特異点以外は すべて従来数学である。 ゼロ除算は、孤立特異点 そのもので、新しいことが言えるとなっている。従来、考えなかったこと、できなかったこと ができるようになったのであるから、ゼロ除算の優秀性は歴然である。 優秀性の大きさは、新しい発見の影響の大きさによる(2017.8.24.05:40)
思えば、我々は未だ微分係数、勾配、傾きの概念さえ、正しく理解されていないと言える。 目覚めた時そのような考えが独りでに湧いた。
典型的な反響は 次の物理学者の言葉に現れている:
Here is how I see the problem with prohibition on division by zero, which is the biggest scandal in modern mathematics as you rightly pointed out(2017.10.14.8:55).
現代数学には間違いがあり、欠陥がある、我々の空間の認識はユークリッド、アリストテレス以来 間違っていると述べている。
ゼロ除算の混乱は、世界史上に於ける数学界の恥である。そこで、数学関係者のゼロ除算の解明による数学の修正を、ゼロ除算の動かぬ、数学の真実にしたがって求めたい。詳しい解説を 3年を超えて素人向きに行っている:
数学基礎学力研究会公式サイト 楽しい数学
www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
以 上
再生核研究所声明 392(2017.11.2): 数学者の世界外からみた数学 ― 数学界の在り様について
平和が永く続くと歌謡界、スポーツ界、芸能界など、重層に深く発展して、いわゆる一般の人たちには近づけない形相を帯びてくる。NHK大河ドラマや朝ドラなどの映像など 高級でどうして作れたか不思議でならない。しかし、ここに挙げた分野などでは、それらの良さが一般の人たちにも理解され 楽しませてくれるので、社会貢献、社会の役割などは相当理解できる。
このような視点から、数学について考えてみたい。人類精神の名誉のため の研究ではなく、専門外の人にとっての数学である。
まず、数学の役割であるが、それはギリシャ時代以来、数学の学習を通しての論理的な思考の訓練と、科学を記述する言語としての数学教育が重要視され、実際、各種入試などでは 数学の学力は重視されてきている。- これらの要請は、計算機や人工知能が 発達しても当分 本質は変わらないと言えるだろう。しかし、これらの状況に従って、カリキュラムの在り様や、教育の精神は絶えず変更が必要であろう。
上記に述べられている内容については、素材は相当に固まっていて、教育内容は安定していると見られるのではないだろうか。
そこで、日進月歩の数学研究内容の高度化と深さは、他の分野に比べて、数学の抽象性もあって、理解が困難で、専門家の間でさえ交流できない状況は普遍的見られる。一般人にとっては、大抵は始めから話題にもできず、内容の理解の最初の1歩さえ、踏み込めないであろう。すなわち多くの研究成果は、社会的にも一般の人にも何にもならない内容であると考えられる。しかし、物理的な問題、医学的な問題など具体的な問題解決の観点から等 具体的な研究の位置づけのある研究は 何も一般人に理解できなくても 当然そのような研究は十分に意義があることは誰にでも分かるだろう。しかしながら、数学内部から湧いた純粋な数学の内容は高級で、抽象的で、理解もできず、興味、関心を呼び起こすことは相当に難しいのではないだろうか。そのような課題は、数学界以外では ほとんど意味がないと言われかねない。これが現代数学における純粋数学の姿ではないだろうか。
もちろん、人類の名誉のための 自由な研究は それ自体 誠に 尊いものである。しかしながら、数学界が社会でより安定的な存在になるためには、高等数学より、基礎的な数学を重視し、数学の興味や好奇心を駆り立てる教育的な視点を強めていくのが 良いのではないだろうか。教育より研究であるという発想は、高等研究機関や大学などでは当然、としても 広範な大学や学校では勧められない発想ではないだろうか。 評価、評価の世相が 研究や形式的な研究業績などに拘りすぎている世相が無いかと気になる。数学の教育や数学の社会的な存在性に配慮していきたい。― 何のための数学かとは 絶えず問うていきたい。
数学の研究ではなく、数学を楽しんでいるような先生は、教授は世に必要であり、良い先生であり、良い教育者ではないだろうか。世情、研究者自身本意ではない つまらない抽象的な研究に走り過ぎてはいないであろうか。楽しむような数学を世に広めたい。― もちろん、これは一面の観点である。
以 上
再生核研究所声明 391(2017.11.1): いろいろな数学者、数学者の心
数学者とはどんな人たちだろうか。回想しながら、感じを表現してみたい。まず、一般に思い浮かぶのは いわゆる世情の表現で、優秀で数学の感覚が発達していて、特にいわゆる数学の理解が早く、問題解きが 得意であるなどではないだろうか。学校でそのような優秀性が現れて、どんどん数学が好きになり、数学の研究者にまでになり、その優秀性を世界的にも示したいと考える数学者は 相当いるのではないだろうか。典型的な発想として、世の難問に挑戦して解決、自己承認を求めた偉大な数学者は多いと言える。始めから優秀ゆえその才能を活かして、数学者の道をひたすらに歩んでいる。その心は意外に純粋、単純で、天才ニュートンとライプニッツの微積分の先取性を生涯争った事実、ニュートンの株投資の失敗、ガロアの決闘、数学の王ガウスの非ユークリッド幾何学の発見者 若きボヤイに対するいわば冷たい対応など結構 想い出される。優秀さゆえに弟子たちに対する冷たい対応なども見られる。結構競争意識が強く、それが碁や将棋の趣味にも通じてもいる原因とみられる。
ところで、どうしても数学を志したい気持ちの本質は 何だろうか。上記才能の他、数理論が好きである、意外に社会、人間関係が好きではない、自分の世界を大事にしたいが あるのではないだろうか。また、数学の絶対性、永遠性に対するあこがれは ギリシャ以来の伝統として有るのではないだろうか。この辺は、そうは才能が無くても、数学好き、数学を趣味として研究している者の精神にあるのでは ないだろうか。
市井の数学愛好者、多田健夫氏について書いてきた
フォームの始まり
フォームの終わり
https://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360/66172415.html
が、別にやることが無くて、別に報いを求めることもなく、数学に集中して人生を終えた者がいる。その心を推察すると、いろいろ考えることが好き、社会生活、人間関係はそうは好きでなく、特別な趣味ややりたいことがない、そして大事なことは 人生に何か記念碑を残したい、できれば、 世の承認 ― あれこれをやったということを認められ、残したいということではないだろうか。このような心は 相当な数学者の基本的な心と言えるのではないだろうか。良い定理を発見して残したい、良い論文を書きたい、著書を出版したい等。
数学者、数学の研究といえば、抽象的で専門化が進み、細分化、深く成りすぎて、お互いに理解が困難に陥ってしまい、孤独で、閉じこもりがちになっているのが憂慮される。しっかりとした動機や目標もなく、ただ先人の理論の先を調べ、調査しているような研究が純粋数学のほとんどであると言えるのではないだろうか。ただ盲目的な研究である。現代のように世知辛い評価時代、あるいは競争の激しい時代になると、しっかりとした方向性、創造性に基づいた研究よりも評価され易い、確立した数理論の先を改善した方が手っ取り早いと、改善型の研究がはびこりかねない。
少し、時間が経てば、当時の流行で見るべきものは無かったと、雑情報、雑論文の溢れていた時代と評価されるだろう。
その様な時、数学者の存在は社会からは、変な社会の人たちに見られてしまうのではないだろうか。
数学者については 下記は素直に全貌が表されている:
再生核研究所声明285(2016.02.10) 数学者の性格、素性について
また、数学の細分化などについては次を参照:
再生核研究所声明 128(2013.8.27): 数学の危機、末期数学について
以 上
再生核研究所声明 390(2017.10.31): 人間は 何をしているのだろう。
高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。
同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
以 上
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