2017年11月16日木曜日

痛快! 歴史的タブーに切り込んだ「不遜な歴史書」 ■『科学の発見』(スティーヴン・ワインバーグ著・赤根洋子訳、文藝春秋)

痛快! 歴史的タブーに切り込んだ「不遜な歴史書」

■『科学の発見』(スティーヴン・ワインバーグ著・赤根洋子訳、文藝春秋)

歴史学の主流は、過去を過去として尊重し、現代の基準を当てはめて過去を裁くことをタブーとしてきた。だが本書は、古代ギリシア以降の自然科学史上の偉人の業績を、現代科学の視点から批判的に分析して見せる。著者自身が「本書は不遜な歴史書である」と位置付ける、異色の本だ。
 
著者は、こうして歴史学のタブーを冒すことで、科学の発展段階を可視化し、ひいては現代の学問全般に対する警鐘を鳴らすことにさえ成功したと評者は見る。
 
米サイエンス界のダイナミズムを感じさせる好著というべきだろう。
 

アリストテレスの非科学的思考をリセット



 
本書で語られる科学とは、「森羅万象を説明するために、数学的な公式と実験に裏付けられた客観的な法則を追い求める」(本書P10)営みといえる。
 
人類史において、農業の発見と並び、こうした科学の発見が大きな歴史の転換をもたらしたことは、日本でもベストセラーとなった『サピエンス全史』で活写されている。本書はその科学の発見を、主として天文学と物理学の切り口から克明に説明していく。

前半(第一部〜第三部)は、科学の発見以前の物語だ。
 
宗教を含む主観と客観とが未分離であることを原因として、古代から中世の自然観察にどのような過ちがあったかを述べる。アリストテレスも厳しい批判を免れない。著者が「(中世キリスト教会がアリストテレス学説に対して行った)異端宣言がアリストテレス絶対主義から科学を救った」(本書P180)とするくだり、いわばキリスト教がアリストテレスの非科学的思考を一度リセットしたが故に、その後の科学の発見が早まった、との主張は特に印象的である。
 
後半(第四部)では、光が射すように「科学」が産声をあげる。コペルニクスが過ちを多く含みなお科学的ではないながらも、太陽系の解明に大きな仮説を投げかけたことを鏑矢とし、ケプラーの三法則そしてガリレオの実験装置の科学的価値を語る。時代をさらに下り、ベーコン、デカルトをなで斬りにした後、クライマックスとして革命者たるニュートンが登場、著者はここに「科学」の確立を高らかに宣言する。この過程はエキサイティングで一気に読み通せる。そして現代科学の最先端に至る思考の変遷を概説するエピローグで本書は幕を閉じる。

科学史を説明しながらも、著者の語り口は無機的ではない。新たな発見の喜びこそが科学発展の原動力となることを力強く説明する第十四章の結びは感動的ですらある。学究の熱意を感じつつ、読者は人間の歴史上の思考の系譜を、あたかも一人の人の成長過程かのように追体験できるであろう。

古代ギリシアの哲学者たちは「詩人だった」


著者は1979年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの理論物理学者であり、本書奥付によれば「本書は歴史家や哲学者の大反発を呼び、2015年欧米の論壇でもっとも物議をかもした一冊となった」とある。さもありなん。歴史学者の伝統的姿勢を正面から否定するのみならず、古代ギリシアの思索を科学ではないと断罪し、哲学者たちは「詩人だった」と喝破するのである。
 
だが、高校や大学の社会思想史でタレスの「万物は水である」から始まる哲学史を学び、なぜ哲学者がモノの組成を語るのか、と素朴な疑問を抱いたであろう多くの人にとって、本書はその霧を晴らしてくれる最高のガイドブックともなろう。
 
科学的思考の萌芽に対し、イスラム教とキリスト教がそれぞれどう対応したかも詳述されるが、これが真に興味深い。
 
ギリシアの到達点を承継したはずのアラブ世界は、イスラム教の伸長にしたがい科学的思考の獲得から遠ざかっていく。全ては神の力に拠ると徹底して信仰するが故に、自然法則の意味そのものを否定する教義が現れるからである。11世紀にバグダッドで活躍したアル=ガザーリーの『科学の起源』(何と皮肉なタイトルか!)の内容を著者は紐解いて曰く、「酒は肉体を活気づけるが、それでもイスラム教徒には禁じられている。同様に、天文学や数学は精神を活気づけるが、『それでも、それらを通じて危険な説にひきつけられてしまうことをわれわれは懸念する』のだ」。中世キリスト教会が紆余曲折を経ながらも、自然法則の研究を「神が通常起こそうとすること」を研究するとして、神への信仰との折り合いをつけたことと、この姿勢は決定的な違いとなる。

本書を通じて、評者は、現代社会のイスラム教が、教義及びその信仰姿勢の徹底度において、抜きがたい困難を包摂していることを改めて痛感した。そしてそのうちの原理主義一派が、信仰の名の下に、教義が否定し続けてきた科学による陰の果実たる近代火器を用いて暴虐を働く様を、複雑な思いで凝視せざるを得ない。

また評者は、千年後の学者が、現代の学説を批判的に考証する姿を思い浮かべる。現代もいずれ過去になる。本書を読むにつれ、現代の学問を無条件に信奉する危うさに思いを致してしまうのは、考え過ぎであろうか。自然科学でさえこれほどの生みの苦しみを経てきたとすると、例えば経済学は、今どのような発達段階にあるのだろう。千年後の学者は現代経済学をどう裁くであろうか。
 
我々は、現代の経済学説が不完全でありうることを承知している。だが、代替するものがない以上、その不完全なものに依拠して、一国の経済政策は推し進められていく。それが時代の限界というものなのかも知れない。https://news.biglobe.ne.jp/trend/1116/jc_171116_7693809668.html

とても興味深く読みました:ゼロ除算は・・・・・・
 
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
そこで自然な考えが突然浮かんだ:
2017.11.13.10:45 突然、この流れで考えが湧いた。数学を芸術として楽しもうという新しい分野の創造の提案である。
数学は抽象的な理論、文章や式で表される場合が多く、社会の一般の方の理解が難しい不幸な状況にある。数理に興味を抱く多くの人々を遠ざけ、数理に喜びや楽しみがあるのに、スポーツやドラマ、芸術、文学などに比べて民衆の享受に寄与していないのは、数理の美しい世界の存在に比べて誠に残念な状況であると危惧される。― 数理の話題、ニュース、情報の極端に少ない現状からそう判断せざるを得ないのではないだろうか。数理科学を楽しみ、数理の世界の社会貢献、裾野の広がりを求めて、数学芸術 分野の創造と発展を提案したい。少し、具体的に触れるが いろいろな衆知を集めて構想そのものの進化を期待したい。
数学芸術は 数学の内容を、絵画やその他の手段で簡明な表現を求め、音楽や絵画が感動を呼び起すように 美しい表現を追求していく。
数理科学の社会的文化的基盤を拡充、充実発展させ、数理科学を芸術のように楽しみ、かつ 真智への愛 を育てる。
以 上

再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から

数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れた。少し、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べたい。
数学とは関係の集まりであるが、時間にもエネルギーにもよらない数学の論理の神秘性から、神学のような性格を帯びていて、およそ世に絶対的という概念が有ればそれは数学くらいで 特別に尊い存在であると考えられてきた。ところが非ユークリッド幾何学の出現で、数学についての考えは本質的に変えられ、数学とは ある仮定系、公理系から論理的に導かれた関係の総体が その公理系から導かれた一つの数学で、数学自身は絶対的な真理や世の価値とは無関係な存在であるという認識に改められた。数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ価値がないものであるとも言える。― 近年 異常な評価時代に、論文、著書など、引用情報やダウンロード数などが重視される世相を作っている。現在は表面的なデータによる行き過ぎとしても、将来は相当に裏付けの伴う評価に発展して、評価は人工知能が活躍する分野に成るのではないだろうか。
この観点は、2014.2.2に発見されたゼロ除算とゼロ除算算法の研究姿勢に大きなヒントを与えてくれる。そもそもゼロ除算は1000年以上も不可能であり、考えてはいけない が 数学界の定説であった。それが全然予想もされなかった結果であったと報告されても、全く新しい数学で、世の常識と違うわけであるから、始めは、興味も、関心も抱かないのは当然とも言える。気づいてみれば、ゼロ除算は本質的には定義であり、仮定とも言えるので、上記数学の観点からは、新しい数学とも言える。そこで、ゼロ除算の世界を広く社会に紹介するために初等数学全般に亘ってゼロ除算の影響を調べてみることにした。新しい数学がどのような意義を有するかを問題にした。
誠に皮肉なことには、ゼロ除算の、ゼロ除算算法の直接の影響として、ユークリッド、アリストテレスの世界観を変える、結果を導くことである。始めから重大な問題を提起してきた。すなわち、無限遠点はゼロで表される、すべての直線には原点を加えて考えるべきである。― 異なる平行線は原点を共有するとなって、 ユークリッドの平行線の公理に反し、世の連続性に対するアリストテレスの世界観にも反することになる。さらに、円の中心の円に関する鏡像は無限遠点でなく、円の中心自身であるとなって、古典的な結果に反することになる。驚嘆すべきことに、x、y直交座標系で y軸の勾配は ゼロであるという結果をもたらす。すなわち、 \tan(\pi/2) =0 である。
それで、初等数学全般に大きな影響が出ることが明かになった。
大事な論理的な原理は、新しい定義、仮定からゼロ除算は展開されるので、得られた結果、導かれた結果については吟味を行い、結果について評価する態度が大事である。ところが考えてみれば、数学そのものが実はそうであった。数学も、得られた結果がどのような意味が、自分の好みを越えて価値があるか否かを絶えず吟味していきたい。吟味して行かなければならない。
以 上
 
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
天才ガウスは生存中に既に数学界の権威者として高い評価と名声を得ていた。ところが、2000年の伝統を有するユークリッド幾何学とは違った世界、非ユークリッド幾何学を発見して密かに研究を進めていた。この事実を繰り返し気にしてきたが、ガウスは結果を公表すると 世情か混乱するのを畏れて公表をためらい、密かに研究を続けていた。ガウスの予想のように、独立に非ユークリッド幾何学を発見、研究を行って公表した、数学者ロバチェスキー と若きヤーノス・ボヤイは 当時の学界から強い批判を受けてしまった。
ガウスの心境は、十分にやることがあって、名声も十分得ている、ここで騒ぎを起こすより、研究を進めた方が楽しく、また将来に遺産を沢山生産できると考えたのではないだろうか。現在の状況より、歴史上に存在する自分の姿の方に 重きが移っていたのではないだろうか。
このような心理、心境は研究者や芸術家に普遍的に存在する未来に生きる姿とも言える。いろいろな ちやほや活動、形式的な活動よりは 真智への愛に殉じて、余計なことに心を乱され、時間を失うのを嫌い ひたすらに研究活動に励み、仕事の大成に心がける、未来に生きる姿といえる。
しかしながら、この未来に生きるは 実は当たり前で、生物の本能であることが分る。世に自分よりは子供が大事は 切ない生物の本能である。短い自己の時間より、より永い未来を有する子供に夢を託して、夢と希望を抱いて生きるは 生物の本能の基本である。生物は未来、未来と向かっているとも言える。
そこで、ゼロ除算が拓いた新しい世界観に触れて置きたい。未来、未来と志向した先には何が有るだろうか。永遠の先が 実は存在していた。それは、実は始めに飛んでいた。
そこから物語を始めれば、実はまた 現在に戻り、未来も過去も同じような存在であると言える。- これは、現在は未来のために在るのではなく、未来も現在も同じようなものであることを示している。
現在は 過去と未来の固有な、調和ある存在こそが大事である。将来のためではなく、現在は現在で大事であり、現在を良く生きることこそ 大事である。ガウスについていえば、ちょうどよく上手く生きたと評価されるだろう。- ただ人生を掛けて非ユークリッド幾何学にかけた若き数学者の研究を励まさず、若き数学者を失望させたことは 誠に残念な偉大なる数学者の汚点であることを指摘しなければならない。
以 上

再生核研究所声明 396(17.11.13): 人間の終末の心 - 人生も人間も大した存在ではない


人間の終末の心の状態を顧みて置こう。
西行の終末、西行花伝 ― 辻邦生、新潮社 に現れた状況は 詠んだ和歌の選の結果が楽しみで 伊勢神宮に献じるのを最大の楽しみにしていた様子が良く伺える。
これは どこかで映像で見た平家の公達が都落ちに 和歌を残したいと立ち寄ったシーンが 深く心に残っている それと同様の心境と解せる。これらに共通する心は 多くの研究者、芸術家に共通する 生きた記念碑を後世に残したい という心情で相当人間の本質を表していると考えられる。
信長の場合には、もうすぐ天下を取れるとみられる 最も充実していた折りに、突然の事件で 数時間で最後に追い詰められた いわば無念の思いの最後である。これは世に多く見られる現象であるので、一応の心構えとして 日頃努めるべきである。修業とはそのような心構えをすることではないだろうか。― 明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の  吹かぬものかは(親鸞)。
それに対して、秀吉は 相当に満足できる人生を送ったが、最後の心境には 一族の将来不安が有ったとみられる。上手く人生を歩んだ人の 一般的な心境ではないだろうか。
大石内蔵助達の最後は 義を貫き、志を遂げての最後で 爽やかであり、強い信念で生きたものの迷いのない最後とも言える。意外に戦場における 兵士達の最後の心境も同様ではないだろうか。国家や部隊と命運を共にして殉ずる精神で 結構普遍的にみられる心境ではないだろうか。- 追い詰められれば結局 大義に殉じざるを得ないし、我々の精神はそのように 作られていると言える。
人間は、本能的にも事実としても、人生はゼロから始まってゼロに終わることを知っていて、所詮はかない存在であることを知っている。しかしながら、なかなかゼロに帰することを受け入れられず、生物的な生命の延長と少しばかりは ちやほやされたい、褒められたいなどのいじらしい心を有しているのでは ないだろうか。― ここで、 ゼロに帰するは 全体を支えている大きなものの存在を否定して訳ではないことに注意して置きたい。
これ男子の本懐なり、板垣死すとも自由は死せず とか ソクラテスが、悪法もまた法なりといって毒杯をあおったのも その辺を周知のうえでの 肯定の終末といえる。
そう考えると、人間そうは 大した存在ではなく、人生もまた同様であると言える。
以 上

 
Ten billion years ago DIVISION By ZERO:
https://www.facebook.com/notes/yoshinori-saito/ten-billion-years-ago-division-by-zero/1930645683923690/


One hundred million years ago DIVISION By ZERO

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http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

                                     


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再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
 

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