2017年9月10日日曜日

数学は人類のための芸術である──「たす」を考えることから見える新しい視点:石川善樹

数学は人類のための芸術である──「たす」を考えることから見える新しい視点:石川善樹

1を無限に足していくと「−1/2」になる──。誰もが小学校で習う「たす」という数学の基本を、いまこそ問い直すべきかもしれない。7月に理系絵本『たす』を刊行した予防医学の俊英・石川善樹が、「常識にとらわれない数学的思考」をひも解く。
いきなり、荒唐無稽な話になるが、
1+1=2
とは何を意味しているのだろうか?
さらに言えば、ここで見落とされている「数学的な視点」とは何だろうか?
奇妙な問いかけに思われるかもしれないが、これは重要な意味をもつ。なぜなら、数学の修業を積むうえで、1+1=2というイメージが実は邪魔になるのだ。たとえばひとつ例を挙げると、「1を無限に足していくと、マイナス1/2になる」ことが知られている。
1+1+1+1+……=−1/2
これは大学で習う超基礎的な数学で、「解析接続」という技術を使うのだが、おそらく多くの人にとって不自然に映ると思う。「1を無限に足せば、それは無限に発散する」というのが自然なイメージだからだ。
何を隠そう、わたし自身、1+1=2であり、1を無限に足せばそれは無限になる、というイメージがあったばかりに、大学以降の数学につまずいたひとりである。「たす」とはもっと自由なものだと小学校で教わっていれば、あるいは大学以降の数学も「すっ」と理解できたかもしれない。
余談になるが、1を無限に足せばマイナスの値をとる、ということを利用しなければ説明できない物理現象は多々あり(たとえば、カシミール効果)、それはナノテクノロジーなどにも関係している。
さて、話を戻そう。
そもそも、「たす」とは何だろうか?
さらに問いを進めると、そもそも「数学」とは何だろうか?
そのような疑問を、わたしの友人でもある数学者・三澤大太郎(横浜市立大学・特任助教)に訊いた。
「たす」とは何か?という疑問をもった石川は今夏、理系絵本『たす』〈白泉社〉を刊行。「理系の人がつくった絵本がない」ということに気づいたことも、絵本をつくるきっかけになったという。「1+1」は「2」じゃなくてもいい。そんな気づきを与えてくれる1冊だ。PHOTOGRAPH BY DAIGO NAGAO

ブルバキという革命

「数学の歴史をざっと振り返ると、ブルバキによってすべてが変わりました」
ここで解説しておくと、ブルバキとは主にフランスの若手数学者たちによって1935年に生み出された「架空の数学者」である。もはやこの時点で大変興味深いのだが、詳しくはWikipediaで調べていただくとして、先に進みたい。
それにしても、ブルバキによって数学が変わったというのはどういうことだろうか?
「誤解を恐れずに大胆に定義すると、ブルバキ以前の数学は『計算するための学問』でした。しかし、ブルバキによって数学は『構造を研究するための学問』に変わったのです」
…といわれても、「はー、そうですか」としか素人には言えないが、食らいついていくことにしよう。そもそも、なぜブルバキは数学という学問のあり方を変えたのだろうか?
「数学の歴史を振り返ると、革命的ともいえる転換点がありました。たとえば、ユークリッド原論(紀元前3世紀)やデカルト幾何学(17世紀)です。そしてそれに匹敵するのがブルバキの仕事で、一言で言うと『集合論』をベースに数学を再構築したのです。つまりブルバキは、数学という学問の前提条件を変え、数学の景色を変える、という大仕事をやってのけたのです」
なるほど。たとえば、どのように景色が変わったのだろうか?
「中学生でも理解できる問題だと、フェルマーの小定理があります。これは計算して解こうとするとややこしいのですが、ブルバキによって切り開かれた『構造』という観点から攻めると、わずか2行で解けちゃうのです」
フェルマーの小定理を2行で証明する数学者・三澤大太郎。PHOTOGRAPH BY YOSHIKI ISHIKAWA
三澤の話を聞けば聞くほど、現代の「高等数学」と小中高で習う「初等・中等数学」とのギャップが明らかに思えてくる。どれほどの隔たりがあるのだろうか?
「そうですね、あくまで感覚ですが、大学と高校との間には、少なくとも“200年”のギャップがあると思った方がいいですね。ぼくたちは、1+1=2という式から出発して数学を勉強し始めますが、それを積み上げていっても、まったく高等数学に追いつかないのが現状です。しかし、たとえば『圏論』という数学の分野を知らないと、もはや最新のコンピューターエンジニアリングにはついていけません。そのため、そもそも数学の出発地点自体を変える時期に来ていると思います」
出発地点を変えるとは、どういうことだろうか?
「1+1=2から始めるのではなく、現代の高等数学から逆算したときに、そもそも小学校1年生に何を教えるべきか? これくらいの視点で物事を考えなければならない時代になっています」

「たす」を超えて

では、もし自由に数学教育を再構築してよいとすれば、三澤ならどうするだろうか?
「ぼくならおそらく、集合論から始めます」と三澤は語る。それはなぜか?
「まさにブルバキが集合論から数学を再構築したからです。実際、高等教育のカリキュラムは、ブルバキの影響を多大に受けています。その証左に、大学1年生で最初に習うのが集合論です。でも、想像してみてください。『集合とは何か?』というイメージを、小学校1年生から直観的に理解しておけば、その後の数学とのかかわり方は大きく変わってくると思いませんか?」
ちなみに、もし小学1年生が集合論を習うとすれば、次のような問題が出題されるという。
(問1)
太郎くん、次郎くん、三郎くん、花子さん、花さん、を次のようにまとめました。
A ={太郎くん、次郎くん、三郎くん}、B ={花子さん、花さん}
集合AとBは、どんな考えでまとめられているでしょうか?
(問2)
次の空欄に当てはまる数字を答えなさい
三澤によると、問1は、集合であるための条件、つまり「その集合に属するための条件がはっきりと決められていること」を理解する問題である。この場合、Aは男性の集合、Bは女性の集合を示している。その一方、問2は集合論における「写像」という概念を理解すための問題だ。「Bのボール数=Aのボール数×2」という対応関係になっている。
些細なことに思えるかもしれない。しかし、この「集合」という視点の先に、ブルバキはまったく新しい数学の景色をブルバキはつくってみせたのだ。
ところで、集合論から始めると、わたしたちと数学とのかかわり方はどのように変わるのだろうか? 三澤は次のように説明する。
「いま、多くの人は数学を『計算するための道具』として応用しています。しかし、集合論をベースにすると、『新たな構造の作成・発見・理解の道具』として数学が応用されるようになります」
三澤は身近なスポーツの例を挙げてくれた。
「2012年に行われた、バスケットボールのポジション数に関する研究があります。TDA(Topological data analysis)と呼ばれる分析手法でバスケットプレイヤーの動きを分析すると、少なくともNBAにおいては、構造的に13のポジションがあるとわかったのです(ちなみに、バスケットボールのポジションは通常5つ)。
TDAは、数学のトポロジーという分野を応用した新しい分析手法です。トポロジーも、集合論の上に成り立っています。集合のなかに『位相』という概念を入れることで、点・辺・面の“つながり方”で図形を捉えるものです。角度・長さ・大きさではない視点で形をとらえるこの分野では、コーヒーカップもドーナツも同じ形になります。バスケットプレイヤーのポジションも、このような“つながり方”で見ると、13に分けられるということです」
ここまで聞いて、わたしはようやく、「数学は人類のための芸術である」(E.T.ベル)という言葉の真意を理解できたような気がする。新しい視点を提供するのが芸術の役割であるならば、ブルバキ以降の「構造を理解するための数学」は、世界の新しい関係性を気づかせてくれる芸術にほかならない。
「わかる」とは、文字通り「分ける」ことである。山々の草木の違いを知り、虫の声や空の色から季節の変化を感じる──この世界の多様さを認識し、それらの関係性を考えることは、すなわちブルキバ的な数学の視点を得ることは、わたしたちの感性を豊かなものにしてくれるに違いない。
石川善樹|YOSHIKI ISHIKAWA
1981年、広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーヴァード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。「人がよりよく生きるとは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。 専門分野は、予防医学、行動科学、計算創造学など。2017年7月、子ども向け理系絵本『たす』〈白泉社〉が刊行。また近日『思想としての予防医学』が刊行予定。@ishikun3

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とても興味深く読みました:ゼロ除算はどうでしょうか:
 
再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
 
再生核研究所声明378 (2017.8.4): マインドコントロール下にあるゼロ除算 ― 強い思い込み

強い教育で異なった考え,対立する見方が受け入れない状況をしばしばマインドコントロールという言葉で表現されている。いくら議論しても分かってもらえない、感性や強い性格の違いとも言える。
ゼロ除算の新しい発見とその反響にそのような印象を強く抱いている。
まずゼロ除算は、代数的にはゼロ除算を含む山田体として、代数的には確定されている。また、十分一般的な状況下で高橋の一意性定理でそれ以外のゼロ除算は有り得ないことが保証されている。しかしながら、具体的な応用や世の中への影響にはゼロ除算算法の考えが大事で、既に広範な具体的な知見が多く挙げられている:

再生核研究所声明 373 (2017.7.17): 高木貞治 「解析概論」の改変構想
再生核研究所声明 374 (2017.7.20):微分方程式論における不完全性と問題
再生核研究所声明 375 (2017.7.21):ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論
再生核研究所声明376 (2017.7.31):現代初等数学における間違いと欠落 ― ゼロ除算の観点から

特に世の反響の鈍さを指摘するために、上記のように現代基礎数学の間違いと具体的な影響の大きさを簡潔に触れた。しかるに、ゼロ除算はダメだとの印象を持つ者が未だに多いように感じられる状況が存在する。初期から3年以上を経過しても、見解の相違が全然縮まらない状況が相当数の同侶たちの間にも存在する。そこで、その原因について思いを述べておきたい。
まさか、基礎数学の内容や教育、我々の空間の認識の間違いを指摘されて、そのままに出来る数学者はいないだろうと考える。なぜなら、数学者や先生などは 数学の教育と研究に使命感を持ち、それらに喜びと生きがいを見出し、さらに 義務さえ負う者たちだからである。もっとも真理を追求すべき者が逆にデータなどを捏造している社会現象さえ出ているが、それは不祥事の 世に稀なる現象であると考えたい。多くは自分の研究に集中していて、他のことに関心が行かない 状況が見える。
この状況を真面目に直視すると、超古典的な結果に反する結果で、とても信じられない、数学として正しくても とても受け入れられないと発想して、最初から取り合わない、関心を抱かない、ふれない心境ではないだろうか。― 論文や口頭発表でゼロ除算の内容は単純明快であるにも関わらず、そのような状況は 永い歴史と生い立ちからの世界観を変えられない、強いマインドコントロール下にあるような状況のためではないかと考えられる。
この状況における考察を研究仲間で繰り返し話題にしているが、逆に数学の専門家などが理解しにくく かえって素人やそう深い専門家でない人たちの方が ゼロ除算の結果を受け入れ易いという事実を反映させている。専門家は、自分の専門に入りすぎて、専門以外に興味も関心も抱けない状況が広く見られる ― このような余裕のない状況で、良い研究や教育ができるだろうか と 大いに危惧される。人生とは何かの視点からも問題があるように感じられる。

ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える(再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて)。

人間とはどのようなものかについて、下記も参照:
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
― 我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性があり、いろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。― 

以 上
 
 
再生核研究所声明 375 (2017.7.21):ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論

本年はブラックホール命名50周年とされていたが、最近、wikipedia で下記のように修正されていた:
名称[編集]
"black hole"という呼び名が定着するまでは、崩壊した星を意味する"collapsar"[1](コラプサー)などと呼ばれていた。光すら脱け出せない縮退星に対して "black hole" という言葉が用いられた最も古い印刷物は、ジャーナリストのアン・ユーイング (Ann Ewing) が1964年1月18日の Science News-Letter の "'Black holes' in space" と題するアメリカ科学振興協会の会合を紹介する記事の中で用いたものである[2][3][4]。一般には、アメリカ物理学者ジョン・ホイーラーが1967年に "black hole" という名称を初めて用いたとされるが[5]、実際にはその年にニューヨークで行われた会議中で聴衆の一人が洩らした言葉をホイーラーが採用して広めたものであり[3]、またホイーラー自身は "black hole" という言葉の考案者であると主張したことはない[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB

世界は広いから、情報が混乱することは よく起きる状況がある。ブラックホールの概念と密接な関係のあるゼロ除算の発見(2014.2.2)については、歴史的な混乱が生じないようにと 詳しい経緯、解説、論文、公表過程など記録するように配慮してきた。
ゼロ除算は簡単で自明であると初期から述べてきたが、問題はそこから生じるゼロ除算算法とその応用であると述べている。しかし、その第1歩で議論は様々でゼロ除算自身についていろいろな説が存在して、ゼロ除算は現在も全体的に混乱していると言える。インターネットなどで参照出来る膨大な情報は、我々の観点では不適当なものばかりであると言える。もちろん学術界ではゼロ除算発見後3年を経過しているものの、古い固定観念に囚われていて、新しい発見は未だ認知されているとは言えない。最近国際会議でも現代数学を破壊するので、認められない等の意見が表明された(再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告)。そこで、初等数学から、500件を超えるゼロ除算の証拠、効用の事実を示して、ゼロ除算は確定していること、ゼロ除算算法の重要性を主張し、基本的な世界を示している。
ゼロ除算について、膨大な歴史、文献は、ゼロ除算が神秘的なこととして、扱われ、それはアインシュタインの言葉に象徴される:

Here, we recall Albert Einstein's words on mathematics:
Blackholes are where God divided by zero.
I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).

ところが結果は、実に簡明であった:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

しかしながら、ゼロ及びゼロ除算は、結果自体は 驚く程単純であったが、神秘的な新たな世界を覗かせ、ゼロ及びゼロ除算は一層神秘的な対象であることが顕になってきた。ゼロのいろいろな意味も分かってきた。 無限遠点における強力な飛び、ワープ現象とゼロと無限の不思議な関係である。アリストテレス、ユークリッド以来の 空間の認識を変える事件をもたらしている。 ゼロ除算の結果は、数理論ばかりではなく、世界観の変更を要求している。 端的に表現してみよう。 これは宇宙の生成、消滅の様、人生の様をも表しているようである。 点が球としてどんどん大きくなり、球面は限りなく大きくなって行く。 どこまで大きくなっていくかは、 分からない。しかしながら、ゼロ除算はあるところで突然半径はゼロになり、最初の点に帰するというのである。 ゼロから始まってゼロに帰する。 ―― それは人生の様のようではないだろうか。物心なしに始まった人生、経験や知識はどんどん広がって行くが、突然、死によって元に戻る。 人生とはそのようなものではないだろうか。 はじめも終わりも、 途中も分からない。 多くの世の現象はそのようで、 何かが始まり、 どんどん進み、そして、戻る。 例えばソロバンでは、願いましては で計算を始め、最後はご破産で願いましては、で終了する。 我々の宇宙も淀みに浮かぶ泡沫のようなもので、できては壊れ、できては壊れる現象を繰り返しているのではないだろうか。泡沫の上の小さな存在の人間は結局、何も分からず、われ思うゆえにわれあり と自己の存在を確かめる程の能力しか無い存在であると言える。 始めと終わり、過程も ようとして分からない。

ブラックホールとゼロ除算、ゼロ除算の発見とその後の数学の発展を眺めていて、そのような宇宙観、人生観がひとりでに湧いてきて、奇妙に納得のいく気持ちになっている。

以 上

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