2017年9月10日日曜日

デビュー26周年を迎えてこれからも存在し続けるSMAP

デビュー26周年を迎えてこれからも存在し続けるSMAP
放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は、9月8日、9日と大きな節目を迎えたSMAPについて語る。
  
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 昨日、9月9日は、SMAPのデビュー記念日。“聖地”『西武園ゆうえんち』を始め、日本各地でファンが集い、お祝いをしていた。
 私も、数年前に知り合ったSMAPファンの方からお誘いいただき、都電荒川線の貸し切り電車に乗ってきた。同電車の先頭に手作りのエンブレムプレートを付け、その周りをこれまた手作りのペーパーフラワーで飾りつけ。車内では、持ち寄ったペンライトや団扇などのコンサートグッズを片手にしたファンらがSMAPトークに花を咲かせた。
 沿道では全く知らない人たちが手を振ってくれたり、停車駅ではスマホカメラを構える人も多数。改めてSMAPが国民的スターであることが車内から実感できた。
 荒川車庫前から一周回って三ノ輪まで、2時間ほどの貸し切り電車は、すごく盛り上がったが、ハメを外すような参加者はゼロ。昨年の署名活動のときもそうだったが、SMAPファンは「SMAPさんに迷惑をかけることだけは絶対にしたくない」という精神で、とにかく“ルール”を守り続ける。
 ファン有志でさまざま活動するにあたり、素人にわかりにくことについては、法曹関係者に細かく相談をしながら進めてきたとも聞く。どれをとっても本当に大人な行動で、実にキチンとしているのだ。
 都電荒川線貸し切り企画は私が知る限り4回目。かつてバラエティー番組でSMAPが都電荒川線を貸し切ってロケをしていたことを憶えていたファンの有志が「SMAPファンらしく、笑顔でお祝いしよう」と企画したものだ。それをきっかけに、都電荒川線への貸し切り申し込みが増加したそうだ。これも一つの“スマノミクス”と言えるだろう。
 その前日は、稲垣吾郎、草?剛、香取慎吾の3人がジャニーズ事務所を退所。翌9日の各スポーツ紙には、ジャニー喜多川社長からの“惜別エール”が掲載されていた。
 SMAP関連の記事を掲載したスポーツ紙はいまも売れるし、たとえSMAPメンバーがイラストで描かれているだけだったとしても、関連ニュースを扱った各地のワイドショーの毎分グラフは上昇する。
 反応するのは、SMAPと同年代のF2層(35〜49才の女性)なのだが、いわゆる“騒動”で過去のSMAPの映像を見て、彼らの魅力を知り、ファン歴が2年に満たないティーンエイジャーや20代前半の女性も増えていると聞く。SMAP効果は、いまもものすごいのである。
 私は8日、メ〜テレの『ドデスカ!』に出演し、同日発売の『女性セブン』の記事をきっかけに、パラリンピックとSMAPとの関係について話して来た。
 15年11月、SMAPがパラリンピックの応援サポーターに就任した会見で、リーダーの中居正広は、「SMAPのPはパラリンピックのP」と明言。その日は、会見会場でもあった日本財団のビルの2階に設けられた「パラサポセンター」の御披露目も行われた。
 もちろんバリアフリーで、パラリンピックの各競技団体の事務局がワンフロアに集結し、一切の仕切りがない、それはそれは素晴らしいオフィス。
 そして同センターの玄関に飾られていたのが、香取慎吾が延べ60時間かけて描いた壁画だ。躍動感に満ち溢れた明るい色調のその画は、大きさといい、内容といい「大作」と言えるものであり、SMAPがパラリンピックの応援サポーターを継続できなくなったいまも、玄関から外されてはいない。
 実はその御披露目の直後から、私はパラサポセンターの広報担当者と“やりとり”を続けている。
 同センターもSMAPの5人がサポーター活動をできなくなってしまったことに、おおいに落胆されていたのだが、“その後”もSMAPファンの皆さんがイベントに参加し、情報を拡散したり、寄付などに協力をしてくれていることに「驚き、心から感謝している」とのこと。
 ファンの皆さんは「SMAPが教えてくれたパラリンピックへのサポートを私たちが引き継ぐ」という強い気持ちで支援を続けているのである。
 8日、その話を文化放送『斉藤一美ニュースワイドSAKIDORI』でも話したところ、「え? SMAPの皆さんがそこに居ないのにSMAPファンの方がイベントにいらしているということですか?」と同局の水谷加奈アナウンサーが驚いて聞き返して来た。
 ちなみに、『女性セブン』では、今後もパラリンピックの応援を香取慎吾に「お願いする」という関係者のコメントを掲載している。いまも香取作の壁画が外されていないことが何よりの証拠だろう。朗報を待ちたい。
 さて、件の水谷アナから、「今日、9月8日をファンの皆さんは、どんな気持ちで迎えられたのでしょうか?」と質問された私は次のように答えた。
「いちばん悲しかったのは昨年の12月31日だったと思います。(中略)ファンの皆さんの心はもうデビュー記念日の9月9日にいっているのではないですか?」と。
 もちろん、「なんで、こんなことになってしまったのか」という、やりきれない想いに陥ることは何度もあっただろう。でも、SMAPファンは前を向いた。彼女たちの中に「SMAPがなくなった」という感覚は恐らくなくて、メンバーが「元SMAP」と紹介されることにも大きな違和感を抱いている。
 私もこの“元”には反対で、番組でSMAPについて話すときや、こうして原稿を書いているときも“元”と付けたことは一度もない。
 だが、時折、校閲室から「元」と直しが入ってくることがあり、そこに「ママ」(最初の原稿のままで、という指定)と記して返すこともしばしばあるのだ。
 ときには「読者が、まだSMAPが存在していると勘違いしてしまうので」という上司からのお達しが担当編集者を通じて下ってくることもある。結局、折衷案として、最後に「編集部注」が付くことになった連載もある。
 私が、「SMAPはまだ存在している」と感じるもっとも大きな理由の一つに、老若男女が歌える多くの名曲の存在がある。
 8日の『ドデスカ!』では、メ〜テレの徳重杏奈アナによる「昨日、名古屋で行われたPerfumeさんのコンサートのゲストにみえたスガシカオさんが『夜空ノムコウ』を歌ってくださった」という情報も挿入された。
 SMAP解散に大きな衝撃を受けたスガが、一度は「封印する(=歌わない)」と宣言した『夜空ノムコウ』だったが、再び観客と共に名曲を歌うことを選択。しかも、稲垣、草?、香取がジャニーズ事務所を退所する前夜に歌ってくれたというのだ。
 実は昨夏も今夏も、数々のコンサートで、ジャニーズの後輩グループの多くもSMAPのヒット曲をセットリストに加えていた。しかも彼らなりに「先輩・SMAPへ届け」とばかりに意味ある歌詞の曲を選んでいたように思う。
 思えば、私がSMAP周辺の“異変”について耳にしたのは、2年前の9月17日のことだった。あれから丸2年。こんなことになってしまうとは正直、予想をしていなかったのだけれど、さすがに“現実”は受け止めている。ファンの皆さんも同じだろう。
 9日、都電SMAP号を走らせたリーダーの女性は「三ノ輪駅」で下車する際、こうイベントを締めた。「稲垣くん、草?くん、香取くんは昨日で退所してしまいましたけれど、SMAPは、SMAPはなくならないんで。SMAPは、5人、6人でSMAPなんで」
 恐らく他のファンの皆さんも同じ気持ちで、SMAPのデビュー26周年を笑顔でお祝いしたに違いない。昨日は何百軒のケーキ屋さんがプレートに「祝SMAP26周年」など文字を書いたことだろう。これもまた“スマノミクス”だ。
 SMAPとSMAPファンは本当に素晴らしい。改めてSMAPとSMAPファンの皆さんに「デビュー26周年おめでとうございます」と伝えたい。http://blogos.com/article/245282/

再生核研究所声明337(2016.12.19) 人間、人生について

物心付いて以来 人生の意味について知りたいと考えてきた。そのために声明でも相当にとりあげてきた:

再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
再生核研究所声明 266(2015.12.25): 地球上に繁茂する 愚かな人類
再生核研究所声明 265(2015.12.24): 全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
再生核研究所声明244(2015.9.4)不完全な人類、恥ずかしい世界史 ― 心得
など。

最近、ライフワークの研究著書が出版され、いろいろ人生で目指してきたこと、期待されてきたことが実現して、心に変化が起こり、人生全体に対する感じに新しい感覚が湧いてきたので、触れて置きたい。人間の心は変わっていくものである。
雑草に覆われた野の一部を見る。コスモスの花たちを見る。人生も 人間も同じ様な存在ではないだろうか。コスモスは年年同じ様な生態を繰り返している。生きることを繰り返し、仲間と共感、共鳴をしたり、争ったりして共生している。人間の家族でも本質は殆ど同じ様なものであると言える。家族が元気で、社会の中で上手く生きていければ 慎ましい幸せを得ることが出来るが、人間社会は相当に厳しい状況が見える。人間が賢いとぼんやり考えてきたが、実際に気づいてみると、人間の知能も、心の程も 大したことはなく、本質的に視野も、考えも、世界も狭く、予断と偏見に満ち、動物や生物と本質的に変わらない様を見ることができる。若い頃、生命力に満ち、憧れや感動,予感から志を立て、人生を生ききっても、結局は始めも、終わりも分からず、歩んでいた時さえも本能で夢中で生きていたということになるだろう。
始めも、終わりも、その先も分からず、生きていた時さえも本能のままに生きていたとなれば、人間も動物も、その他の生物もみんな本質的に同じ様な存在であると言える。つくられた人間と発想したが、それはまことで、作られたように、定められたように生きていると言える。それで、いじらしい人間となる。
そこで、生命の、人生の基本とは何だろうか。自分の周りの小さな環境に順応して、共感、共鳴して、共生して存在している存在であると言える。順応してとは自己の本能と環境との調和のための戦いが本質的に存在している。実際、生命も、人生も生存のための戦いの要素が本質的で、エントロピー増大の原理にさからう存在として、生命や人生が存在していると言える。生命が環境の中で必死に生きようとしている姿は普遍的であり、本質的であると言える。多くの人にとっては ただ生きることが 人生の殆どであると言える。
しかしながら、いわゆる志をもって、日々その志の精神で生き、言わば日々精進している姿も多く見られる。何かに愛を感じ、求めていく姿である。芸術でも、スポーツでも、政治でも、研究でも、その他いろいろな趣味なども、そうであるが 積極的に求めていくものがあれば、それだけ豊かな人生であると言えるのではないだろうか。感動のある人生である。
しかしながら、繰り返される生命の営みは、いろいろな感動さえ、やがてポテンシャルが、生命のエネルギーが減少して 大いなる自然との調和を独りでに、自然に受け入れられるようになるだろう。
― 山間部の散歩中、上品な90歳を超えたおばさんとよく話してきたが、いろいろ全体的に話していたら、おばさんと周りに咲く花たちも 全く同じ様な存在に映った。
この最後の文章がこの声明の書きたかったことであるが、それではもの淋しく終わるだろう。そこで、人間として生きる意義を人生の原点に戻って述べて置きたい。― 人生とは真智への愛であり、真智とは神の意思のことであり、大自然の、万物の、ユニバースのことを知りたい、感知したいということである。

以 上

再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好み天才才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上


再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

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