甲子園大会は“越境入学”を許すな!<日本野球よ、それは間違っている!> - 広岡 達朗
第99回の全国高校野球選手権大会が甲子園球場で始まった。北は北海道代表の滝川西高校から南は沖縄県代表の興南高校まで、49代表のうち昨年夏に続いての連続出場は11校。
春夏連続出場は9校で、このうち大阪桐蔭は2012年に続いて史上初の2度目の春夏連覇を目指す。そして初出場は、私の母校・早稲田大学の系列校でもある早稲田佐賀など6校である。
毎年、甲子園を舞台に展開される高校球児のドラマは、全国の野球ファンの感動を呼び、涙を誘う。
しかし私は、甲子園に集結した球児たちを眺めながら、言い知れぬ寂しさを感じる。代表49校のうち、私立高校が41校で、公立高校は県立が7校、市立が1校の計8校しかないからだ。
スポーツ名門校に集まる野球エリート
高校球児の夢舞台・甲子園が、入学試験の厳しい公立校にとって「狭き門」になったのは、今に始まったことではない。
考えてみれば、1995年に私が日本のプロ野球で初めてのGM(ゼネラルマネジャー)に就任した千葉ロッテマリーンズのエース・伊良部秀輝は尽誠学園出身だった。尽誠学園は四国の香川県にある私立高校だが、伊良部は兵庫県尼崎市育ちである。
この学校は野球をはじめバスケットボール、ソフトテニス、卓球など全国大会に何回も出場するスポーツ名門校で、全国各地から集まるスポーツエリートのために各部の寮まであった。
当然、プロ野球で活躍した有名選手も多い。伊良部のほかにも、オリックスや巨人で活躍した谷佳知外野手や横浜ベイスターズの佐伯貴弘外野手がいるし、早大主将からヤクルトに入団した田中浩康は35歳でなお、横浜DeNAのセカンドを守っている。
そして彼らはいずれも関西の出身で、中学を卒業後、野球名門校に“越境入学”した組だ。
甲子園の球史を見ると、これまで「怪物」と呼ばれたスーパースターが多い。
代表格は数々の伝説を残した栃木・作新学院の江川卓投手である。
1980年代に投打の甲子園記録を塗り替えたのは、大阪・PL学園のエース・桑田真澄と主砲・清原和博内野手のKKコンビだ。
そして90年代に登場したのがゴジラ旋風を巻き起こした石川・星稜の松井秀喜と、98年に春夏連覇を達成して「平成の怪物」と呼ばれた神奈川・横浜高の松坂大輔投手。
さらに2000年代には宮城・東北高のダルビッシュ有と、北海道・駒大苫小牧の田中将大の剛腕コンビがいる。2人は今や、大リーグ・ドジャースとヤンキースの主力投手である。
メジャーといえば、大リーグ移籍が注目されている日本ハムの大谷翔平投手も岩手・花巻東時代、高校野球岩手大会でアマチュア史上初の球速160km/hを記録した。
メジャーのエース・ダルビッシュも田中将大も関西出身
102年の歴史を飾る甲子園の名選手をあげればキリがないが、私が注目するのは、その多くが私立高校の生徒だったことだ。
もちろん、私立高校がいけないというつもりはない。私立もそれぞれの個性的な教育方針にそって長年の実績を重ねてきた。しかし残念に思うのは、甲子園出場校のうち私立高校がついに83%に達し、そのほとんどが遠方の県外選手を受け入れていることである。
すでに知られているように、尽誠学園以外でも、横浜高の松坂は東京・江東区育ちだし、東北高のダルビッシュは大阪・羽曳野市で生まれ、地元の少年野球で才能を磨いた。
駒大苫小牧の田中も兵庫県伊丹市の少年野球で頭角を現し、野球名門校に入るため北海道に渡ったのだ。
ついでにいえば、甲子園の決勝戦で田中に投げ勝った早実の斎藤佑樹(日本ハム)は群馬県の出身である。
このほかにも、同じような遠隔地から越境入学で寮生活を送る高校球児は多い。
たとえば今大会に初出場した早稲田佐賀は、早大の創立者・大隈重信の出身地という縁で大学の系列校になった。早大への進学目的で集まる県外生徒のために専用の寮があり、歴代の野球部員の中にも寮生活で卒業した生徒がいる。
高野連は「聖地・甲子園」の原点に戻れ
学校法人が経営する私立高校に校区の制限はなく、遠方の都府県から優秀な生徒を誘致するのは違法でもない。
しかし高校野球の原点は、都道府県の代表として選ばれた49校が、伝統の甲子園で日ごろ鍛えた技と力を競うものではないのか。
だからこそ、地域の代表チームを送り出した地元のファンが熱烈応援し、感動し、涙を流す。
ところが、全国各地から有望な野球少年を集める野球名門校が、毎年のように甲子園に出場しても「地元ファンの感動は薄い」という話をよく聞く。さもありなん、である。
私があえて“越境入学”に反対するのは、高校生活の3年間は野球だけでなく、基礎教養をしっかり身につける時期だからだ。
この大事な多感な時期に、親元を遠く離れて野球漬けの寮生活を送る必要があるのか。野球名門校や甲子園常連校は、県外選手の寮生教育に甘くなっていないか。
選手も、どうしても甲子園に行きたいのなら、わざわざ遠い私立高校に行くのでなく、地元都道府県の高校で甲子園を目指したらよいではないか。
今大会の開会式でも、祝辞の文部科学副大臣は「都道府県代表として本大会の出場を果たされたみなさん」と呼びかけ、日本高校野球連盟会長も励ましの言葉で「高校野球の聖地・ここ甲子園球場で~」と選手たちを激励した。
高野連は、私立高校の広告塔かプロ野球選手の養成機関になりかねない“越境入学”を見直し、甲子園大会を教育の原点に戻すべきだ。http://blogos.com/article/239990/
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)
主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明
再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
の題名も真実だろうが、そこで述べた、
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上
再生核研究所声明 143 (2013.12.10) グローバリゼーションの危険性
(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ 他の周辺の広大な農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で 他の農家がやって行けず、農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は 哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつに考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記で いわゆる市場主義の原理で 事を進めれば、生業が成り立たなくなると言う、根本問題を提起している。 実例でも、例えば、 広々としたベトナムの農村では、田植えを 手で、一株ずつ人海戦術で植えているが、日本では、田植え機械で 夫婦二人で、どんどん田植えが行われている。稲刈り、収穫作業も同様の差がある。農作業の重労働を想い出し、胸を痛めたものであるが、アメリカの小麦の生産方式など考えれば、日本の農家の農作業など、ベトナムと日本の差以上であろう。それらが、市場主義、自由競争となると、ベトナムの農家も日本の農家も成り立たないのは、道理である。このような危惧は、至る所に現れ、世界混乱の主因になるだろう。長い間続いていた、文化、習慣、慣習、生活基盤の破壊である。― インドの痛ましい情景を時として、回想する。土を運ぶのに、土を籠に入れ 頭に載せて、沢山の女性が連なって運んでいる。普通考えられるトラックで運べば、如何に簡単に大量に運べるかを考えると、痛ましい仕事である。しかしながら、それらを機械化すれば、失業者の増大や、取り巻く環境の激変で大きな混乱が起きるだろう。
そこで、グローバリゼーションの危険性 を 夢の中の青年に代わって、世に訴え、注意を換気したい。
個々の存在してきた、事実、経過は大事であり、何事、新しい変化との調和に 思いを致さなければ、混乱の素になるだろう。何事変化に、早ければ良い、改めれば良い の考えには 根本的な問題が内在していて、危険であると考えたい。
グローバリゼーション は エントロピー増大の法則のように 避けられない面が有るだろう、そこで、絶えずブレーキをかけて行くような配慮、全体的な影響と調和を考える努力が必要ではないだろうか。
以 上
追記、参考資料(ウィキペディア):
グローバリゼーション
グローバリゼーション(英: Globalization, Globalisation)は、社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象である。
概略[編集]
この語は、様々な社会的、文化的、経済的活動において用いられる。使われる文脈によって、例えば世界の異なる地域での産業を構成する要素間の関係が増えている事態(産業の地球規模化)など、世界の異なる部分間の緊密な繋がり(世界の地球規模化)を意味する場合もある。
世界史的に見れば、何らかの現象の「グローバリゼーション」は、大航海時代に起源を発する。大航海時代により、ヨーロッパ諸国が植民地を世界各地に作り始め、これによりヨーロッパの政治体制や経済体制の「グローバリゼーション」が始まり、物流の「グローバリゼーション」が起こった。これが本格化し始めた時期は19世紀で、ナポレオン戦争による国民国家の形成や、産業革命による資本主義の勃興が、近代の「グローバリゼーション」を引き起こした。
第二次世界大戦が終わると、アメリカ合衆国を筆頭に冷戦の西側諸国で多国籍企業が急成長し、現代の「グローバリゼーション」が始まった。1970年代から「グローバリゼーション」という語は使われるようになったが、より一層広まった時期は、アメリカ合衆国が湾岸戦争に勝利し、ソビエト連邦が崩壊したことにより、アメリカ合衆国の単独覇権が確立された1991年以後である。ソビエト連邦が崩壊すると、経済面では、「運輸と通信技術の爆発的な発展や、冷戦終結後の自由貿易圏の拡大によって、文化と経済の枠に囚われない貿易が促進する事態」も指すようになった。グローバリゼーションの負の現象、例えば工業や農業といった産業が世界規模での競争(メガコンペティション)や、多国籍企業による搾取の強化と、それに伴う国内産業の衰退とプレカリアートの世界的増大という事態を指す場合もある。そのため、最近では否定的な語として用いられる例も多くなった。
1991年以後、グローバリゼーションの負の現象を非難する人々は、主要国首脳会議の開催地などで反グローバリゼーションを訴えている。又、グローバリゼーションが多国籍企業を利して末端の労働者を害する現象「アメリカニゼーション」だと揶揄する人々も少なくない(グローバル資本主義)。
異義語[編集]
「グローバル」と「インターナショナル」、「グローバリゼーション」と「インターナショナリゼーション(国際化)」という語は、意味する範囲が異なる。「インターナショナリゼーション」は国家と国家の間で生じる現象であるのに対して、「グローバリゼーション」は地球規模で生じるものであり、国境の存在の有無という点で区別される。
具体的に言えば、世界地図を見て国境を意識しながら国家間の問題を考えれば、「インターナショナル」な問題を考えている事になる。対して、地球儀を見ながら地球全体の問題を考えれば「グローバル」な問題を考えている事になる。即ち、「グローバリゼーション」の方が「インターナショナリゼーション」よりも範囲は広くなる。
訳語[編集]
大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立国語研究所の「外来語」言い換え提案では「地球規模化」を挙げている。グローバリゼーション、グローバル化といった言葉もよく使われる。中国語では、「全球化」と訳される。
徴候[編集]
グローバリゼーションの傾向が認められる現象は多くあるが、現代の「グローバリゼーション」では3つの流れがある。(1)第二次世界大戦後に地球規模化した現象、(2)世界恐慌最中の1930年代前半に失われたが、現在に復活している現象、(3)米ソ冷戦終結後の1990年代に地球規模化した現象:の3つである。これらの現象には、ヒト・モノ・カネと情報の国際的な流動化が含まれる。また科学技術、組織、法体系、インフラストラクチャーの発展がこの流動化を促すのに貢献した。一方で、様々な社会問題が国家の枠を超越し、一国では解決できなくなりつつある。
より明確にいうと、地球規模化が認められるものには:
· 世界経済の融合と連携深化。
· 貿易の発展。
· 直接投資を含む資本の国際的流動の増加。
· 国際金融システムの発展。
· 多国籍企業による世界経済の支配割合の高まり。
· 世界で最適な調達・販売を行なうサプライチェーン・マネジメントの発達。
· 地球規模的に適用される標準、基準などの増加。(例:著作権法)
· 異文化交流の機会増加。
· 増大する国際的な文化の交換。文化の同化、融合、欧米化、アメリカ化(アメリカナイゼーション)、日本化及び中華化を通じての文化差異の減少。
· 不法入国者・不法滞在者を含んだ移住者の増加。
· 政治主体の一元化
· 世界貿易機関(WTO)などの組織への国際的取り決めを通じての国家支配権と国境(の重要さ)の衰退。
· 経済的格差の世界化
· 社会問題の世界化
· 疫病の世界的流行。
· 犯罪の世界規模化。
· 地球全体の環境問題。
· 紛争への世界的関与。
※上記のすべての項目に地球規模化が認められるかどうかについては議論の余地がある。
賛否[編集]
グローバリゼーションの進展については、賛同して推進しようとする意見もある一方で、批判も強く、様々な立場から撤廃しようとする意見[(反グローバリゼーション・脱グローバリゼーション)が提示されている。様々な分野においてその功罪につき議論されている。
国家経済的視点では、ジョセフ・E・スティグリッツは、グローバリゼーションの利点を認めつつも、現状の市場・制度の下では二極化が進む欠点の方が多いと述べる。 またポール・クルーグマンは主に覇権国家や多国籍企業の利益追求を肯定・促進する(新自由主義)ために広められるドグマの一種であると書いている[要出典]。ただしその著書『グローバル経済を動かす愚かな人々』からも分かるように、クルーグマンはグローバリゼーションそのものに反対しているわけではない。
以下でグローバリゼーションに対する賛成・反対双方の意見を載せる。ただしここに載せた意見が経済学的に正しいとされているものとは限らない。貿易#貿易に関する誤解も参照の事。
賛同[編集]
· 国際的分業(特化)が進展し、最適の国・場所において生産活動が行われるため、より効率的な、低コストでの生産が可能となり、物の価格が低下して社会が豊かになる。
· 投資活動においても、多くの選択肢から最も良いものを選択することができ、各企業・個人のニーズに応じた効率的な投資が可能となる。
· 全世界の様々な物資、人材、知識、技術が交換・流通されるため、科学や技術、文化などがより発展する可能性がある。また、各個人がそれを享受する可能性がある。
· 各個人がより幅広い自由(居住場所、労働場所、職種などの決定や観光旅行、映画鑑賞などの娯楽活動に至るまで)を得る可能性がある。
· 密接に各国が結びつくことによって、戦争が抑制される可能性がある。
反対[編集]
· 安い輸入品の増加や多国籍企業の進出などで競争が激化すると、競争に負けた国内産業は衰退し、労働者の賃金の低下や失業がもたらされる。
· 投機資金の短期間での流入・流出によって、為替市場や株式市場が混乱し、経済に悪影響を与える。
· 他国・他地域の企業の進出や、投資家による投資によって、国内・地域内で得られた利益が他地域・国外へと流出する。
· 従来は特定地域に留まっていたテロリズムや武力紛争が全世界化し、各地域の安全が脅かされる。
· 多国籍企業の進出や人的交流の活発化によって、生活と文化が世界規模で均質化し、地域固有の産業や文化が消滅する。
· 地域間競争の活発化によって、投資・経済活動の巨大都市(世界都市)への集中が進み、農山村や中小都市が切り捨てられ衰退する。
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
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