2017年8月30日水曜日

西洋哲学に解けなかった難問を解き明かした、日本発の「西田哲学」とは何か?

西洋哲学に解けなかった難問を解き明かした、日本発の「西田哲学」とは何か?

2017年7月18日、代官山 蔦屋書店にて、同書店主催が主催のイベント『福岡伸一、西田哲学を読む』刊行記念の講演会が行われました。第1部では、福岡伸一氏が「ロゴス対ピュシス」のテーマで本書の読みどころを紹介。そして続く第2部では、西田哲学の継承者で哲学者の池田善昭氏を招いて、書籍では語り尽くせなかった西田哲学の真髄について語り尽くします。本パートは、その第2部の様子を全文書き起こしでお送りします。商品の購入はコチラ
シリーズ
『福岡伸一、西田哲学を読む』刊行記念 講演会
2017年7月18日のログ
スピーカー
生物学者 福岡伸一 氏
哲学者 池田善昭 氏

【モデレーター】
明石書店編集部 柴村登治 氏

池田善昭氏と西田哲学

池田善昭氏(以下、池田) 私の専門は西洋哲学です。IMG_9041 copy西田哲学というのは、京都大学に入ると、当時はどうしても勉強しなければならないといった雰囲気があり、学生時代には西田を勉強せざるを得ないような状況でした。しかし私自身はそのときは「ちんぷんかんぷん」というか、西田はよくわからなくて、途中で放棄というか、勉強するのをやめてしまいました。そして、ずっと30年ぐらい、西洋哲学の勉強をしてまいりました。その中で、専門としてはライプニッツという哲学者の哲学を研究したのですが、彼はモナドロジー(以下、モナド)、日本語では「単子」とも訳される概念を中心とする哲学を展開していました。一方で、西田は自分の哲学について「西洋哲学の中で自分に1番近いのはライプニッツだ」と言っています。そういう点で、私は逆にライプニッツを勉強しながら西田に興味を持ったという、そういう経緯があります。そうして西田を勉強し始めると、非常に面白いことに、西田には西洋哲学に全くない発想があることに気づきました。この、西洋と日本の考え方の違いというその違いに、私は大変深い興味を持つようになっていきました。西田がなぜ「ライプニッツが1番自分に近い」と言ったかということについても勉強してみると、確かに西田とライプニッツの哲学は近いとも言えるんですが、決定的なところでは違っているように思われるのです。その違いについては、西田哲学の中ではあまり明瞭には説かれていないのですが。モナドというものについて簡単に触れますと、みなさん一人ひとりが違っているように、世界には同じものが2つとない。個体というのはどの世界においても全部異なっています。全部違っているんだけれども、それぞれがその世界というものを鏡のように映していて、全体というものが意識できない形で映っている、という、そういうモナドのあり方が存在の基本であると(ライプニッツは)説いたわけです。西田にとっても、「個」というものは非常に重要な問題でした。なぜ個人というのは一人ひとり違っていて、違っていながら、それぞれがお互いに同意したり理解しあったり、つながったり、連続したりするということができるのか。みんな違っていながらも、つながっている。これを「非連続の連続」と言いますけれども、そういう問題の立て方の中で西田はライプニッツのモナドに大変興味を持つわけです。そういうわけで私は、逆に西洋哲学から西田に関心をもって、途中で西田にはまってしまう、ということになったのです。

西洋哲学はどのようにして始まったか

実は西洋哲学というのは非常にわかりやすいんです。ある意味では、考え方を大きくわけると2つ、あるんです。「観念論」と「実在論」です。 みなさんご存知のようにソクラテスとプラトンが哲学の始まりで、ソクラテスは哲学の父と言われているくらい西洋哲学の始まりにおいて非常に重要な役割を果たしています。彼の弟子のプラトンは今なお西洋哲学の1番中心に位置しておりまして、今日でも、ソクラテス、プラトンの影響は西洋哲学の根底に脈々と連なっています。普通は「イデア論」と言われていて、実在を観念的に理解するわけです。私たちの頭の中で理解するという、そうした営みの中から近代の科学も生まれてきたわけですし、あらゆるアイデアも全部私たちの観念の中から生まれてくるとも言えます。先ほど福岡先生が話された「ピュシス」というのは、ギリシャ語で「自然」のことです。ラテン語でnaturaと言い、英語のnatureという言葉のもとになっています。そういうわけで、「自然」というあり方のことを元々ギリシャでは「ピュシス」といいました。ロゴスに対するピュシスの話を先ほど福岡先生がなさいましたけれども、ピュシスというものが、(ロゴスのもとでは)実は本来的なピュシスとしてあり得ないのです。それはなぜかというと、人間がそれを理解しなければならないからです。人間はピュシスをどうしても観念的に理解せざるを得ない。ピュシスそのものを私たちはどうやったら理解できるのかという、そういったテーマが実は西田の中にあったんですね。西洋哲学の中では自然というものをロゴスとして理解する。しかし、自然の中には本来の人間には理解できないような深いロゴスがある、と(西田は気づいたわけです)。人間のロゴスとピュシスの持っているロゴスというのは完全に違っている、と。今、環境の問題という形で自然の在り方が問われていますが、「私たちは本当に自然というものを理解できるのだろうか?」という問題は、長い間西洋哲学でも論じられてきました。

ディアロゴスという概念

そもそもは、古代ギリシャで紀元前5世紀6世紀ぐらいの、ソクラテスやプラトンよりもっと遡った時代において、ピュシスというものが最初に唱えられました。その中では、自然はなぜわかりにくいかというと、隠れてしまうからだ、と。人間が自然をわかろうと思って近づくと、自然は奥の方へ奥の方へと隠れてしまう。そういう自然のあり方を言い出すわけです。そして、人間には本当の自然の姿というものが理解できないだろうということになると、ソクラテスは「我々の一人ひとりの力じゃだめだ。お互いに対話し知恵を出し合って、その話し合いの中で論じあいながら研究を続けていけばいい」と考えるようになります。いわゆるディアロゴスですね。ロゴスじゃなくてディアロゴス。ディアというのは2人という意味ですが、場合によっては、それ以上が集まって話し合うということですね。普通、ロゴスというのは、人間の、ある共通性の中で行うわけです。普遍性ですね。しかしディアロゴスということになりますと、一人ひとりが違っている。違っていながら、お互いに話し合うことの中で、これはのちに弁証法とも言いますけれども、その中でテーゼとアンチテーゼというものを出して、それをなんとか1つにまとめていこうという。そういう弁証法というものがソクラテスによって考え出されて(注:ソクラテスでは「問答法」)、それが西洋哲学の原型を作ります。しかし、本当にテーゼとアンチテーゼは1つになるんでしょうか? 実はならなかったんです。その後、ヘーゲルの弁証法が、マルクスに受け継がれていっても、実際はみなさまご存じのとおりマルクス主義は今ではほとんど顧みられることがなくなりました。それはやはり、ヘーゲルの弁証法では完全な形で私たちに客観的な自然の姿を伝えていることにはならないということが、半ば明らかになったと言っていいのではないでしょうか。

西洋哲学が解けなかったアポリア

こうした経緯を西田はよく勉強して知っていたんですね。なぜ我々は本当の「自然」というものに目覚めることができないのか。自然というものを理解することができないのか。それは、「存在」と「実在」というものの違いが判らないからです。存在と実在というのは、みな同じように考えているんですけれども、実はそうではありません。これは長くなるので、簡単にしかお話できませんけれども、今までのオントロジー、「存在論」というものが西洋哲学の基本の中にあります。認識論に対して存在論がある。認識というのは、人間の主観性から「私はこう思う」とか「こう見た」とか、常に主観が入らないと認識は起こりません。ところが真の存在というのは、そういう主観に関わらず常に客観的に存在していなければならないわけですけれども、その存在というもののあり方に、西洋哲学の中では実在するものなのか、それとも単に観念的に考え出されたものなのかということについて問いただしていくと、結局、実在するものと単に存在するものとの違いというものを、明確にすることができなかったんです。結論を言いますと、西田はそこのところで、西洋哲学・存在論にも限界があって、実在を問うていない、と考えたのです。その実在を問うていない証拠に、結局、西洋2000年以上の歴史の中でどうしても解けない問題がいくつかあります。1つは「他者問題」です。1つは「個体化原理」です。個体、一人ひとり違っているというものは、どう違っているのか、なぜ違っているのかという個体概念ですね。この個体概念とそういった他者問題というのは、ほとんど同じように難しい。「アポリア」と普通は言いますけれども、解けない問題です。それからもう1つ、デカルトが提出しました「心と体」ですね。心と体は「心身関係論」と言って、ずっと哲学の中で論じられてきたんですが、今日においても、どうして脳の中で観念的なものが生じて、我々がお互いに理解し合うということの仕組みにおいて、心と体がどういうふうに関わっているのかを明らかにできていない。心身二元論と言って、身体的な理解の仕方と精神的な理解の仕方がどうして1つになるのかという問題を、心身関係論とも言いますが、いままでの西洋哲学じゃ解けなかったんですね。そういう個体概念、個体とは何であるか、それから他者問題、そして心身関係論。これが未だに解けていないんです。

アポリアを解く西田の「絶対矛盾的自己同一」

しかし、西洋哲学が2千数百年も経っていながらどうしても解けない問題を、実は西田が解いています。このことも、私はごく最近知ったんですけども、アポリアの中のアポリアと言われている3つの難問、すなわち他者問題、個体概念、心身関係論というものを西田がどうして解くことができたのか。それは、西田が存在と実在の違いについて深く考えたからです。西洋哲学の中では確かに存在論があって、存在というものについては、ハイデガーに至るまでの歴史があるわけですが、長く論じられてきた「存在」というものがあります。しかし存在というのは人間のことだけではありません。個というのは、世界にたった1つしかないんですね。個体のことを西田は「個物」と言います。異なっているもの。そういう異なっているものを明らかにしようと思うと、どうしても「他者と自分」という他者問題につき当たって、違っているものがどうして1つにわかりあえるのか、という矛盾が生じてしまう。そして矛盾というものが解けない。しかし、西田は「絶対矛盾」であれば「自己同一」であるということを発見したんです。「絶対矛盾の自己同一」は福岡先生も仰っているように、単なる中途半端な矛盾じゃないんです。絶対矛盾。その絶対矛盾というものまで行きついたとき、「自己同一」という大変不思議な現れ方が出てきます。柴村 すみません、池田先生。ちょっとさえぎらせていただきます。福岡先生との対話をしていただきたく……。池田 そうか。(会場笑)柴村 池田先生は個体問題の話、個体概念と他者問題をこの本で十分に語りつくせなかったので、そのことをどうしてもおっしゃりたかったと思うのですが、打ち合わせでは別の展開になる予定でした。いまお話しされたことは今後の私たちの課題なのかもしれないんですけれども、一度話を戻していただいて、福岡先生とのお話し合いにしていただけるとありがたいです。福岡伸一(以下、福岡) もうちょっといきつくところまでお話されてもいいんじゃないかと。(会場拍手)

池田氏と福岡伸一氏との出会い、西洋哲学と西田哲学の違い

池田 一番言いたかったことは、この本(『生物と無生物のあいだ』)はご存知でしょう? 福岡先生のベストセラーです。私がこの本を読んでいちばん驚いたのは、この本の166ページにこう書いてあります。
「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」。
秩序を守らなければならないのに壊されなければならない。今お話ししたことは、矛盾しているでしょう? 秩序を守らなきゃならないのに、壊されなきゃならない。この文章を読んだ時に「これは西田だ」と思ったんです。絶対矛盾なんです。こういう絶対矛盾が自己同一、同じことであるということを、西田はかなり早い時点から知っていたんですね。福岡先生のお話がありましたように、細胞膜で起きていることというのは、分解することと、合一することですね。分解するということは、分けてしまう、バラバラにするということで、合一というのは1つにする。これは全く相反する同時性のことですから、絶対的に矛盾しているんですけれども、実は、この矛盾によってこそ細胞は生きているんですね。つまり、生命というのは、実に魔訶不思議なことに、絶対矛盾で、しかも自己同一という形をとるがゆえに、生きることができる。こういう点で、この本を読んだ時に、福岡先生は西田哲学を勉強しているに違いないと思ってメールを交換していたら、彼は何も知らなかった。何も知らないのに、どうしてこういうことが言えたんだろう? ということで、私は、福岡先生に大変深い興味をもったわけです。これが私と福岡先生をつないだ最初の原点だったわけです。「絶対矛盾的自己同一」という考え方は西洋哲学には全くありません。極めて端的に言えば、アポリアを抱えたまま西洋哲学がなぜうまくいかなかったのか。それは西洋哲学が「絶対矛盾の自己同一」を知らなかったからです。矛盾律の下で、矛盾するものはすべて避けてきた。しかし、矛盾するものこそが重要な問題を孕んでいるということを、西田は徹底的に我々に教えようとしたわけです。これが西洋哲学と西田哲学、我々日本人の哲学との違いなんです。はい、一番言いたいことは、それだけです。(会場拍手)


とても興味深く読みました: ゼロ除算は・・・・

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html

再生核研究所声明 375 (2017.7.21):ブラックホール、ゼロ除算、宇宙論

本年はブラックホール命名50周年とされていたが、最近、wikipedia で下記のように修正されていた:
名称[編集]
"black hole"という呼び名が定着するまでは、崩壊した星を意味する"collapsar"[1](コラプサー)などと呼ばれていた。光すら脱け出せない縮退星に対して "black hole" という言葉が用いられた最も古い印刷物は、ジャーナリストのアン・ユーイング (Ann Ewing) が1964年1月18日の Science News-Letter の "'Black holes' in space" と題するアメリカ科学振興協会の会合を紹介する記事の中で用いたものである[2][3][4]。一般には、アメリカ物理学者ジョン・ホイーラーが1967年に "black hole" という名称を初めて用いたとされるが[5]、実際にはその年にニューヨークで行われた会議中で聴衆の一人が洩らした言葉をホイーラーが採用して広めたものであり[3]、またホイーラー自身は "black hole" という言葉の考案者であると主張したことはない[3]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB

世界は広いから、情報が混乱することは よく起きる状況がある。ブラックホールの概念と密接な関係のあるゼロ除算の発見(2014.2.2)については、歴史的な混乱が生じないようにと 詳しい経緯、解説、論文、公表過程など記録するように配慮してきた。
ゼロ除算は簡単で自明であると初期から述べてきたが、問題はそこから生じるゼロ除算算法とその応用であると述べている。しかし、その第1歩で議論は様々でゼロ除算自身についていろいろな説が存在して、ゼロ除算は現在も全体的に混乱していると言える。インターネットなどで参照出来る膨大な情報は、我々の観点では不適当なものばかりであると言える。もちろん学術界ではゼロ除算発見後3年を経過しているものの、古い固定観念に囚われていて、新しい発見は未だ認知されているとは言えない。最近国際会議でも現代数学を破壊するので、認められない等の意見が表明された(再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告)。そこで、初等数学から、500件を超えるゼロ除算の証拠、効用の事実を示して、ゼロ除算は確定していること、ゼロ除算算法の重要性を主張し、基本的な世界を示している。
ゼロ除算について、膨大な歴史、文献は、ゼロ除算が神秘的なこととして、扱われ、それはアインシュタインの言葉に象徴される:

Here, we recall Albert Einstein's words on mathematics:
Blackholes are where God divided by zero.
I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).

ところが結果は、実に簡明であった:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

しかしながら、ゼロ及びゼロ除算は、結果自体は 驚く程単純であったが、神秘的な新たな世界を覗かせ、ゼロ及びゼロ除算は一層神秘的な対象であることが顕になってきた。ゼロのいろいろな意味も分かってきた。 無限遠点における強力な飛び、ワープ現象とゼロと無限の不思議な関係である。アリストテレス、ユークリッド以来の 空間の認識を変える事件をもたらしている。 ゼロ除算の結果は、数理論ばかりではなく、世界観の変更を要求している。 端的に表現してみよう。 これは宇宙の生成、消滅の様、人生の様をも表しているようである。 点が球としてどんどん大きくなり、球面は限りなく大きくなって行く。 どこまで大きくなっていくかは、 分からない。しかしながら、ゼロ除算はあるところで突然半径はゼロになり、最初の点に帰するというのである。 ゼロから始まってゼロに帰する。 ―― それは人生の様のようではないだろうか。物心なしに始まった人生、経験や知識はどんどん広がって行くが、突然、死によって元に戻る。 人生とはそのようなものではないだろうか。 はじめも終わりも、 途中も分からない。 多くの世の現象はそのようで、 何かが始まり、 どんどん進み、そして、戻る。 例えばソロバンでは、願いましては で計算を始め、最後はご破産で願いましては、で終了する。 我々の宇宙も淀みに浮かぶ泡沫のようなもので、できては壊れ、できては壊れる現象を繰り返しているのではないだろうか。泡沫の上の小さな存在の人間は結局、何も分からず、われ思うゆえにわれあり と自己の存在を確かめる程の能力しか無い存在であると言える。 始めと終わり、過程も ようとして分からない。

ブラックホールとゼロ除算、ゼロ除算の発見とその後の数学の発展を眺めていて、そのような宇宙観、人生観がひとりでに湧いてきて、奇妙に納得のいく気持ちになっている。

以 上

再生核研究所声明377 (2017.8.3): ゼロの意味について

ゼロ除算について考察を深めているが、それは当然ゼロの意味を究めることに繋がる。 そこでゼロ自身についても触れてきた:
再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
この要旨は: 
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。
座標系の導入における 位置の基準点を定めること。
複素平面では立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点である。
全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。
再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界
要旨は:
微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。

上記2件は、ゼロが基準を表すこと、無限や無限遠点の表現になっていること、消えて行った世界の神秘的な性質を述べている。
ここ3年、広くゼロ除算現象を探してきて発見したゼロの性質として、起こりえない現象不可能性を広く表すことが分かった。
そもそもゼロで割る問題とは、最も簡単な方程式 ax=b をa=0の場合に考える事と解釈できる。一般的に考えられる解(一般逆)として、x=0 が得られると解釈できるが、その心として、神は混乱が起きたとき、元に、基準に戻る、最も簡単なものを選択すると理解できるが、これは、不可能性をも表現していると言える。 これは新しい視点である。b=0 の時の解 x=0はもともとの意味でのゼロであるが、b がゼロでない時の解x=0 は不可能性を表すゼロであると言える。ゼロの2面性を主張したい。不可能性を表す例はゼロ除算の発現を広く探している折に発見された新しい視点である。
無限とは、極限値の概念で捉えられるが、定まった数のようにも扱われている。数としての無限は曖昧である。
ところが、無限大は、無限遠点は ゼロで表されることが発見され、また証明も与えられた、これはゼロ除算から導かれたが、同時にゼロの新しい意味をも受け入れる必要がある。ゼロが不可能性をも表現しているという事実である。
水平方向にx軸、鉛直上方方向にy軸をとる。 原点から,角アルファで初速度v_0
で質点を投射する。最高到達点の高さ、水平到達点までの距離、最高到達点に至るまでの時間など、引力がなければ(g=0の場合を考える)、どんどん飛んでいき無限の彼方まで、これが従来の表現であるが、ゼロ除算では、最高到達点の高さ、水平到達点までの距離、最高到達点に至るまでの時間などは全てゼロで表される。
                                     以 上
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…

再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html

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