「お笑いビッグ3」タモリだけがうまく生きている「これだけの理由」 「今を肯定して生きればいい」
「お笑いビッグ3」タモリだけがうまく生きている「これだけの理由」 「今を肯定して生きればいい」
2017年3月12日 14時0分 現代ビジネス
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いつも飄々として楽しそう。でも正直、何を考えているのかよく分からない。すべてをさらけださない。いつの間にかお笑いという枠からも外れて、独自の道を歩く。そんなタモリがうらやましい。
■好きなことだけやる
作家の吉行淳之介氏は、かつてタモリを評してこう言っている。
「ああいうタイプの人というのは、過去だれかいましたか。いたでしょうかね。ああいうの。いや、お笑いタレントというのでもない。『芸人』という感じでもないね。なんだろうね、あれは」
タモリ(71歳)は、つかみどころのない人である。でもなぜか「あんなふうに生きられたら楽しそうだな」「幸せそうだな」と思わせる不思議な雰囲気を持っている。
長年『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の構成作家を務めてきた鶴間政行氏はこう語る。
「『いいとも!』時代、タモリさんはよく『毎日、新宿のアルタに、午前10時に来て13時半すぎに帰る。その繰り返し。だから俺は新宿に通うサラリーマンなんだよ』と言っていました。
今、地方に行ってその土地を巡る『ブラタモリ』(NHK)が人気ですが、あれはタモリさんにピッタリな企画だと思います。
これまでは『いいとも!』という制約があって地方に行くことができなかった。その分、今は自分の好きなことだけをやっている。これは32年も休むことなく『いいとも!』を続けてきた『ご褒美』なのかもしれません」
もともとタモリは内輪ウケの「密室芸」を得意とした「キワモノ素人」としてテレビに登場。『今夜は最高!』('81年、日本テレビ系)などいわゆる「夜の顔」だったのが、『いいとも!』で昼の顔となり、老若男女から親しまれる存在となった。なぜ本来、大衆的でないタモリに人は好意を抱くのか。どこに魅力を感じるのか。
まずはその知識の豊富さ、頭の良さだろう。
タモリとの共演も多いミュージシャンでタレントのなぎら健壱氏が語る。
「僕もよくゲストに呼んでもらう『タモリ倶楽部』(テレ朝系)では、タモリさんが台本を開いているのを見たことがない。全部頭の中に入っているんでしょう。そんなタモリさんがこだわりを持って、やりたいことをやるから面白い。
タモリさんは普通の人が興味を持ちそうなことに本気で興味を持ってやっている。タモリさん自身が、物事を楽しみたいという気持ちが強い。それが視聴者を惹きつけている」
鉄道、ヨット、アマチュア無線、古地図……多趣味としても知られるタモリだが、趣味を仕事にまで「昇華」するのが彼の特技だと言える。
■常識的だから常識を壊せる
タモリと二人で結成した「日本坂道学会」で会長を務める山野勝氏もこう語る。
「タモリさんと初めて会ったのは銀座のバーでした。僕が会社の人と坂道の話をしていると、タモリさんが『加わらせてもらってもいいですか』とスッと入ってこられてね。
タモリさんは、決してウンチクを傾けるわけではなく、ちょっと違う視点で気づきを与えてくれるので、聞いているほうも心地よい感覚になるんです。『ブラタモリ』での一緒に歩く女性アナウンサーとの軽妙な掛け合いも面白くて、ふざけたことを言っても嫌みにならない。『こういう大人になりたいな』と思わせるものがありますね」
博識のタモリだが、決してそれを自分からひけらかしたりはしない。タモリとの共演も多いタレントの勝俣州和氏が言う。
「タモさんはよく『知識をひけらかす料理人なんてろくなもんじゃない。客に緊張させる店は二流だ』と言っていました。その言葉通り、自分は決して威張らない。後輩であろうが垣根を作らず、『人の輪』を大切にされる方ですね」
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このタモリの姿勢はどこで培われたのか。タモリがデビューするきっかけを作ったジャズピアニスト・山下洋輔氏が語る。
「最初にタモリと会ったのは福岡のホテルでした。コンサートの打ち上げで盛り上がっていると、突然、知らない男が中腰で踊りながら入ってきた。サックスの中村誠一がデタラメな韓国語で怒ったら、何倍も上手い言葉で返してきた。
こちらは喜んでもっとやれと囃し立てた。あとでタモリに入って来た理由を聞いたら『面白そうだったから』。その瞬間、こいつはデキると確信した。
今考えるとタモリは根っからの『ジャズ体質』なんですね。ジャムセッションと一緒で、楽器を持って急に入ってきても、上手ければ許せることを知っていた。当然気が合って、皆に見せたいと上京を誘ったんです。
タモリはやはり頭がいい。滅茶苦茶なようで、言って良いことと悪いことの見極めはきちんとしている。何が常識的かは子供の頃から見抜いていた。かつて作家の星新一さんが『常識的な人間でなければ非常識な面白さはわからない』と言っていましたが、まさにタモリはそれですね」
常識を理解しながら、それを壊していく――こうしてタモリはビートたけし(70歳)、明石家さんま(61歳)らと共に「ビッグ3」と呼ばれる芸能界の大御所となった。その「ビッグ3」も今やサラリーマンであれば定年を迎え、余生を過ごす年齢である。だが、3人の現在の生き方はそれぞれ異なる。
■いい意味で適当
タモリが自分の趣味ややりたい仕事だけを厳選し、人生を楽しんでいる一方、たけしやさんまは今も「お笑い」にこだわり戦い続けている。だが最近は「ちょっと世間からズレてきた」と感じさせることもある。
昨年末、コカイン疑惑により俳優の成宮寛貴が芸能界を引退したことについて、たけしは「やめなくたっていいんじゃないの。相手が『FRIDAY』なんだから、俺みたいにずうずうしく、いきゃあいいんだよ。じゃんじゃん嫌がらせの電話とか。俺が言えた柄じゃないけど」と自虐的にコメント。
続けて「それだけ気にかけられることは、売れてるってことだと思わないと」と持論を述べたが、ネット上では「売れていることと薬物疑惑は関係ない」との意見も挙がった。
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もう一人の「ビッグ3」であるさんまは、いい意味でも悪い意味でも「お笑いモンスター」として突き進んでいる。今でも「自分が一番面白い存在である」ことを示そうと、若手芸人に混じって番組ではしゃぎまわっている。
こちらもネットでは「老害」「痛々しい」といった声が挙がることもある。二人とも少なからず好感度を落としているのである。
「たけしさん、さんまさんは常に前へ前へのタイプ。もちろん二人とも凄いんだけど、濃すぎるから毎日見ていると疲れてしまう。
でもタモリさんなら毎日見ていられる。決して自分の主張を強く出すこともなく、自分と違う意見の人を攻撃することもない。それでいて『ボソッ』と的を射た発言をする。タモリさんにはどこか『品』があるんです」(前出の鶴間氏)
タモリと昨年亡くなった大橋巨泉氏との共通点を指摘する人も多い。二人ともジャズ畑出身。知識が豊富で、遊びの達人、名司会者でもある。だが巨泉氏が国政や社会について警告を発し続けたのとは違い、タモリにはどこか世間を達観しているような部分がある。
それは、タモリが「他人に期待していない」からかもしれない。タモリはインタビューで「他人に期待などしなければ、つまらないことで感情的にならずにすむ。そうすれば人間関係に波風も立たなくなり、円満にだれとでも付き合える」と語っている。
『タモリ伝』の著者である片田直久氏は、こう分析する。
「元々早稲田大学でジャズをやっていたのも影響していると思う。本当は熱いんだけど、それを押し付けがましく見せない。一種のダンディズムを感じます。決して力まず、ジャズらしい脱力感を大切にしている」
「やる気のあるものは去れ」――これはタモリが、ニッポン放送の新年行事でスタッフに向けて書いた有名な格言だ。
「ガツガツしてもいいんだけど、それを表面に出すことをタモリさんはあまり好まない。誤解してほしくないのは、適当っていうのは、いい加減という意味ではなく、無理に気張らずに適度に肩の力を抜いてやろうよということ。それがタモリさんの哲学なんです。タモリさん自身がいい意味で適当な人間ですから」(前出の片田氏)
タモリ自身は好感度について昔からまったく意識していない。実際「人に好かれようとする自分が嫌い」とも語っている。
そんなタモリの性格を表すような発言がある。昨年『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)で、ビストロSMAPの最終回のゲストとして出演した際のこと。
タモリは解散するSMAPのメンバーに対して「友達なんかいらないって。俺、あの歌が大嫌いなんだよ、小学校に入ったら『ともだち100人できるかな』って。そんなことで人生決めんじゃないよ。今どんどん友達減らしていってる」と語った。この発言に「タモリさんに救われた」と、共感の声が一気に広がった。
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■ネチネチもくよくよもしない
そもそもタモリは、お笑い芸人やスターになりたいと思って、この世界に入ってきたわけではない。前出の山下氏が振り返る。
「タモリは昔からギラギラしてなくてヘラヘラしていました。むしろ『どうせ俺は……』みたいな感じで、目標とか野望が垣間見えることはなかった。でもそれが逆によかった。タモリの今があるのも、生き方自体にそんなにこだわりがなく、流されるまま面白そうなところについていったからだと思いますよ。
タモリは何事にもこだわらないところが良い。変にネチネチしていない。きっと自由を愛しているんです。さんまさんやたけしさんは、芸人であるということをしっかりと自覚されているけど、タモリは自分で芸人だとは思ってないでしょう」
あくまで「自然体」で生きる――くよくよしない。それがタモリの生き方である。
「タモリさんは未来にも過去にもこだわらない人なんです。『現状維持』というのがタモリさんの座右の銘であるように、5年先のことなんて誰も分からないし、いくら過去を悔やんでも取り戻せないんだから反省もしない。それだったら今を肯定して生きればいいと。
だから年齢にもまったく縛られていない。ある時から『いいとも!』でもタモリさんの誕生日を祝うのをやめました。タモリさんにとっては何歳になったというのは重要じゃないんです」(前出の鶴間氏)
タモリ曰く「自分も含めて皆、大した人間じゃない」。「気負わずもっと自然体で生きればいいんだよ」とタモリは教えてくれている。
「週刊現代」2017年3月11日号より
読んでとてもためになりました:
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(
再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得;
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25): 未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ―
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、
一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上
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