2017年3月21日火曜日

哲学とは「人生論」のことではありません!(1)

哲学とは「人生論」のことではありません!(1)

玉川大学文学部人間学科教授 岡本 裕一朗 氏

 今、私たちは政治・経済・文化のいずれにおいても歴史的に大きな転換点に立っている。
 しかもこの歴史的転換は数十年単位ではなく数世紀単位のできごとである。現代のように従来の常識がすっかり通用しなくなり、新たな発想が求められる社会で私たちは何を羅針盤にして生きていけばよいのだろうか。歴史を眺めてみれば、時代が大きく転換するとき、必ず哲学が活発に展開されている。哲学では日々進行している出来事に対して一歩身を引いた上で「これはそもそもどのような意味なのか?」、「これは最終的に何をもたらすのか?」と広い視野と長いスパンで考えることができる。
 話題の哲学書『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)の著者、玉川大学文学部人間学科の岡本裕一朗教授に聞いた。

もう小手先だけの対応では全く追いつかない

 ――『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)は哲学書にもかかわらず大変な人気です。多くの国民がこのような哲学的な考え方を求めていたのではないかと思います。先生が本書を出版された動機からお聞かせいただけますか。
玉川大学文学部人間学科教授 岡本 裕一朗 氏
 岡本裕一朗氏(以下、岡本) 私の著書は今までどちらかと言うと、研究者や大学・大学院生を対象にしたものが多かったと思います。しかし、この本は最初から一般社会人の方を対象にして書きました。おかげさまで、予想をはるかに超える多くの方に読んで頂くことができてうれしく思っています。経済同友会はじめ経済団体、事業構想大学院大学はじめ教育機関や経済誌関連の講演会、セミナー等でお話をさせていただく機会も増えました。このことは多くの方が現在進行中である社会そのものの大きな変化はもう小手先だけの対応では全く追いつかないことに気づきはじめたことによるものと考えています。

私たちは歴史的に大きな転換点に立っている

 本書を書いた動機は、大きく分けて3つのことをお伝えしたかったからです。
 1つ目は日本では哲学と言うと、恐らく「人生とは何か?」とか「いかに生きるべきか?」というような「人生論」をイメージする人が多いのではないかと思います。もちろん、哲学研究の一面には、そういうものが全くないわけではありません。しかし、私たちが学問的に哲学を研究する場合「人生論」を語ることは基本的にはありません。
 2つ目は哲学を学ぶことはソクラテス、プラトン、アリストテレスなど歴史上の偉大な哲学者の学説を研究することと思われている読者も多いと思います。もちろん、偉大な哲学者であるプラトンやソクラテスの学説を深く掘り下げて研究することは大事です。私たちも哲学という学問をスタートする際は、修士課程とか博士課程において、それぞれ自分の選んだ哲学者の学説を深く掘り下げて研究します。しかし、そこはゴールではありません。そこで終わってしまうと「現代社会の中で哲学はどう役に立つのか?」という一番大事な部分がスッポリ抜け落ちてしまうからです。現代の私たちを取り巻く環境(科学技術、平均寿命、親子関係など)はソクラテスの時代とは当然大きく違います。
 3つ目は最も重要です。私たちは政治・経済・文化のいずれにおいても、今歴史的に大きな転換点に立っています。しかもこの歴史的転換は数十年単位ではなく数世紀単位のできごとであるという点です。私たちは、このことを強く自覚した上で、今後どういう方向に進めばいいのかの判断を迫られています。今まさに私たちは哲学を必要としているのです。

哲学は諸科学を横断して考えることができる

 ――哲学とは「偉大な歴史上の哲学者の学説を学び、何か難しい抽象的な言葉を使って人生について語る」という漠然としたイメージを持っていました。
 岡本 結論から申し上げますと哲学とはそういうものではありません。それは、遡ること約2,500年前のソクラテスの時代から一貫して変わっていません。実は日本で、多くの方がそのように考えてしまうのには理由があります。日本には昔から「哲学=歴史上の偉大な哲学者の学説の研究」という伝統があります。哲学に関する研究手法は各国ごとにさまざまです。日本の場合は、歴史上の偉大な哲学者の学説を研究することが盛んだったころのドイツの影響を受けています。またこれまで哲学者たちも学問の世界に閉じこもり、必ずしも一般の方とのコミュニケーションを求めてこなかったことにも原因があります。
 哲学はギリシャ時代には全ての学問の上に立ち、中世においてはさまざまな学問の統合体という存在でした。20世紀になると哲学の中から諸科学(物理学、生命科学、心理学、社会学、経済学、法学など)が独立する動きが起こります。しかし、その後も哲学が果たしてきた役割は変わっていません。それは諸科学を横断して考えることができるのは哲学だけだからです。http://www.data-max.co.jp/290317_knk_01/

興味深く読みました:

再生核研究所声明3592017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義

ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0  で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:

複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。

以 上
付記: The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1 -16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

再生核研究所声明3572017.2.17Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。

再生核研究所声明 339で 次のように述べている:

世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インド数学者天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:

Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。

                               以 上

追記

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt
   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

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