第3章 「空」とは何か
第1節 一切の苦厄を度す
観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。
この冒頭の一節の最後の「一切の苦厄を度したもうた」(度一切苦厄)という文は、サンスクリット原典には、小本にも大本にもありません。おそらく漢訳者が心経最終段の「よく一切の苦を除く」(能除一切苦)を強調するために、ここに挿入したのでしょう。
「諸行無常」と並んで仏教が標榜する根本命題の一つが、「一切皆苦」です。この「苦」というのは、単に「楽しい」に対する「苦しい」という感覚のことではなく、この世は無常であるから「すべては思いのままにならない」ということを意味します。すなわち、何事も 不如意、という現実の認識が「苦」の原意です。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、この四つ(生老病死)の根本苦を四苦といいます。これに、愛するものと別れる苦(愛別離苦)、憎むものと会う苦(怨憎会苦)、求めて得られない苦(求不得苦)、五つの要素(五蘊)が仮に和合しているにすぎない人間存在は本質的に「思いのままにならない」という苦(五取蘊苦)、以上の四つの苦を加えて八苦。非常に難儀することを「四苦八苦」といいますが、それはこの最初の四苦とそれを含む八苦に由来する言葉です。ともかく「一切は苦」であり、これが仏教の根本命題。である以上、いかにしても苦は免れがたいように思われます。
ところが、観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」。あらゆる苦・災厄から離脱した、というのです。この一見さりげない挿入文は、おそらくは漢訳者が意図した通り、実に重大な'宣言'(メッセージ)というべきでしょう。
仏教の実践的目標であり、かつ究極の救いを端的に示したこの一文にこそ、般若心経の聖典としての真価と人気の秘密があるといっても過言ではありません。
どのようにして観自在菩薩は、「一切の苦厄を度したもうた」のでしょうか。
これまで説明してきたことをまとめますと、観自在菩薩は般若波羅蜜多の真言を念誦する瞑想をして、その結果、ある眺めのよい境地に達します。それは高層の建物を昇っていくごとに得られる展望に喩えられる、という話をしてきました。もちろん、それは「自分自身を知る」修行のプロセスを喩えたものです。
一階は幼児のフロア。
二階は世間のフロア。
三階から仏教のフロアです。でも三階はまだ小乗のフロア。そこに舎利子がいます。
四階が大乗のフロア。ここが事実上の最上階で、観自在菩薩が到達したところです。そこで観自在菩薩は何を観たのでしょうか。
観自在菩薩は、屋上の釈尊の瞑想にいざなわれるようにして、「般若波羅蜜多の行」という瞑想を実践して最上階に至り、そこで「空」を観たわけです。
この瞑想を「空観」といいます。これが尋常でないヴィジョンであったことは言うまでもないでしょう。なにしろ、それによって「一切の苦厄を度したもうた」のですから。
第2節 空(くう)の瞑想
一体あなたの得たヴィジョンとはどのようなものなのか―。
大本の「序」によると、これが舎利子の第一の質問です。(第二の質問は、そのヴィジョンを得る手段は何か、です。)それに対して、観自在菩薩は次のように答えます。
舎利子よ。色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是れ空。空は即ち是れ色。受想行識もまたかくの如し。
この文中のあまりにも有名な 「色即是空」という文句は、たしかにレトリック(修辞)として秀逸ですが、これは実は「五蘊皆空」をパラフレーズ(わかりやすく言い換える)した表現にほかなりません。
つまり、五蘊(色・受・想・行・識)の一つ一つについて「空である」ということを述べただけの表現です。「色即是空 空即是色」に続く文が「受想行識もまたかくの如し」ですから、当然、「受即是空 空即是受」「想即是空 空即是想」...ということが成り立ちます。
なぜ、そのようなことが言えるのか。なぜ色受想行識の五蘊がどれも「空」なのか。ここで注意していただきたい点は、これを「世間のレベル」や「舎利子のレベル」で解してはならないということです。
インドの宗教史上において、仏教が掲げた最もユニークな概念は「空」であると言って、まずさしつかえないでしょう。
もっとも、「空」という語自体は仏教が編み出したものではなく、インドではごくありふれた語のひとつでした。ただし、この語から数学史上最大の発見といわれる数字の「ゼロ」を導き出したのもインド人の功績です。インド仏教徒は、瞑想の極致のヴィジョンとして、「空」を「発見」したのでした。
世間のフロアでは、〈私〉は〈私〉です。人は自分というものがどのようなものであれ、自分は自分であり、かりそめにも他者でないことを意識して行動します。日常生活のレベルにおいては、自己の確立とか自己形成ということは、言うまでもなく、とても大切なことです。
それを否定して、最初から、たとえば「無我になれ」などと言われたら、たぶんまるで主体性のない人間ができあがってしまうことでしょう。したがって、「無我」は日常的な教訓などではありえないのです。むしろ自己を真に確立しえた人が、さらにその上に至って見ることのできる高度なヴィジョンであり、それが、「自己は五蘊なり」という洞察だったのです。
それが舎利子のレベルであり、そこで〈私〉は五蘊が仮に和合したものにすぎない、と知ります。言い換えると、〈私〉なるものはどこにもない。つまり、ここでようやく、無我、という真相をさとるのです。観自在菩薩はこのレベルをも通過して、「その五蘊はみな空なり」と洞察します。
舎利子のいる三階から見れば、世間レベルの二階は苦悩に満ちた世界です。二階のフロアにおいて「自己の確立」は大切な徳目だったのですが、それを三階から見るならば、「自己の執着」にほかなりません。それがあらゆる苦悩の原因であることが、そこに至った人には、はっきりわかるのです。でも、それは三階から見て二階を否定することではなく、ただ二階を通り過ぎるということなのです。
まったく当たり前のことですが、階上は階下なくして存在しません。二階のフロアだけしかない四階建ての建物などありえません。どの階もなくてはならず、どの階にもそれぞれの意義があります。そして、上の階に行くためには、やはり一階ずつ順に昇っていかなくてはなりません。なお、この建物の比喩(ひゆ)が適切である証拠に、般若心経の本文の中に「遠離(おんり)」という言葉が出てきます。これは「超越する」という意味ですが、この原語を直訳すれば「階段を昇りきっている」です。この言葉は、まさにこの比喩通りの意味で理解してよいでしょう。
さて、最上階における「空」のヴィジョンとはどのようなものなのでしょうか。
それを窺い知るには、観自在菩薩と同じ境地に至らねばなりません。と言ってしまえば、とても歯が立ちそうにありませんが、「色即是空」という公式で示されたしくみは、およそ次のようなことです。
第3節 「色即是空」のしくみ
まず「空」という語自体の意味は簡単です。要するに「からっぽ」ということです。「空」と似た語に「無(む)」があります。このふたつはよく混同されがちですが、もちろん違います。
般若心経には「空」とか「無」という語がたくさん使われています。数えてみますと、このわずか二百六十余文字の経典の中に「無」は二十も出てきます。「空」は七つです。ついでながら「不(ふ)」という語も九つあります。
なんと否定的な語の多い経典だろうという印象を誰しも抱くことでしょう。その理由は後回しにして、ここで「無」と「空」の違いについて簡単に説明しておきますと、たとえば水の入っていない 空(から)のコップがあるとします。この場合、「コップは空」です。でも、「コップは無(む)」とはいえません。
コップが空(から)ということと、コップが無(な)いということとは別です。「無」と「空」の違いはこれで明らかでしょう。
無(な)いのはコップではなくて水です。インド人は、このことを「コップには水の無(む)がある」と表現します。もしコップに水があれば、コップは「水の場所」です。ないと、コップは「水の無の場所」です。「無の場所」が「空」なのです。おわかりいただけましたか。
コップはもともと空(から)です。空でなければコップの用をなしません。空だからこそ、水でも何でも入れることができるのです。一方、水もまた容器を必要とします。
ここで「コップが空(くう)であること」を「空である性質」という意味で「空性(くうしょう)」と呼ぶことにします。すると、空のコップには空性がある、と表現することができますね。(でも、この表現は日本語になじみませんので、空性とはコップの内部のスペースのことだと理解していただいても結構です。「コップにはスペースがある」ならわかりますね。)
さらに、こういうこともいえるでしょう。もしコップに空性(スペース)がなければ水が入る余地はないのですから、コップにおいて空性と水とは不可分の関係にあります。空性なくして水はありえず、また水なくして空性も意味をなしません。
なぜこんなことを申しあげたかといいますと、般若心経で用いられている「空」という語は、原語に照らして正確に訳せば、すべて「空性」と解さねばならないのです。すなわち、「空なるもの」ではなく「空なること」を意味するわけです。これは「空」を理解するうえでの大きなポイントです。
ここで再び建物の比喩を思い出してください。この建物はかりに百貨店だとします。一階は衣料品のフロア、二階は家具のフロア、等々としましょう。各階に陳列されている品物が、この百貨店を特徴づけています。
なぜいろんな品物を置くことができるかというと、当たり前のことですが、置くスペースがあるからです。ちょうどコップに空性(スペース)があるから水を入れることができるのと同じように、一つ一つの品物はどれも空性に裏づけられています。
この建物とは〈私〉自身のことでした。〈私〉をして〈私〉たらしめている五蘊(色・受・想・行・識)は、舎利子が到達した三階のフロアのアイテムです。それはとても大切なものに違いありませんが、いわば一フロアの品物として単に置かれているだけものにすぎません。それも置くスペースがあってのことです。
品物とそれを置くスペースは不可分の関係にあります。「五蘊はみな空なり」というのも、まったく同様のことです。したがって、「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、空はこれすなわち色」というのは、その言い換えにすぎないわけですから、もはや説明するまでもないでしょう。
第4節 観自在菩薩が観たもの
ただし、ここで再び注意すべき点を確認しますと、これは最上階の観自在菩薩が三階のフロアのアイテム(舎利子の認識)を洞察して得たヴィジョンであったということです。
二階の世間のフロアでは、自己の確立は大切なことでした。しかし、三階のフロアから二階のその「自己の確立」を見ると、単に「自己の執着」にほかなりません。そして、そこで「自己とは五蘊にすぎない」と気づきます。それをさらに四階から見ると、「五蘊はみな空なり」と洞察することになるわけなのですが、問題は、以上の説明のように、それはただ単に「五蘊は空性(スペース)と不可分の関係にある」とみなすことだったのでしょうか。
この建物のあり方から推測すると、最上階の四階には「何もない」、すなわち「空性(スペース)のみ」ということになります。
実際、このあとの心経本文は、「空の中には何もない」として、そこに無いもの(言い換えれば、階下にあるもの)をことごとく列挙する文章がずっと続きます。ですから、「最上階は空性(スペース)のみ」と理解することは、まったく正しいことです。
問題は、「自己⇒五蘊⇒空性」を、ひとつのヴィジョンとして瞑想体験するとはどのようなことか、ということです。最上階に至っても、自己は消え失せるわけではなく、観自在菩薩は依然として観自在菩薩です。
ここで「空(くう)」とは「空(から)っぽ」のことであるという通常の理解からいったん離れる必要があります。なぜなら、観自在菩薩が観たものは、あくまでも自己自身であり、それが「空(から)っぽ」であった、という拍子抜けするようなことではありえないからです。
何にせよ、私たちが「自分とはこういうものだ」と考える時、そこに枠(わく)づけを行なっています。二階の「自己の確立」しかり、三階の「自己は五蘊なり」との自覚しかり。
それはあたかも地図の上に線を引くようなことです。地図は便利なものですが、単なる図面にすぎません。私たちが生きているところは図面の上ではなく、この地上です。そこにいかなる枠づけがあるでしょうか。土地の境界があるではないかとおっしゃる人がいるかもしれませんが、それは地図の投影にすぎません。土地そのものは、すべて繋がっています。宇宙から見た地球には、どこにも境界がありません。それと同じです。
自分、というのもひとつの枠です。それが枠である以上、どうしたって、いわば地図にすぎないわけです。地図ではない自分自身。それは、むしろ想像しがたいことでしょう。でも、どんなに精密な地図でも、それは地図にすぎず、それに較べて本物の地形ははるかに精妙です。本物の地形には、何ら枠はありません。この「枠がない」ということが、実は「空」の本義なのです。
言い換えると、まったく開放されている次元をさして「空(くう)」というのです。最上階は、たしかに「空(から)っぽ」です。でも、それは消極的な意味で空洞というのではなく、はるかに積極的な意味で、なにものにも煩(わずら)わされず開放された自由な空間の広がりがあるということなのです。ここにおいて、自己自身は、地図上の枠づけを離れ、豊潤で繊細なリアルな自己そのものに立ち戻ります。
枠が我欲の巣です。すべての苦厄はそこから発生します。これを突破するのが空観という瞑想です。観自在菩薩は、それを実現したのです。これは、やはり容易ならざるヴィジョンであったというべきでしょう。 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-202.html
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:
Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0⁄x= 0 である。しかしx⁄0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。
実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:
しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。
全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。
古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。
2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明357(2017.2.17)Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。
再生核研究所声明 339で 次のように述べている:
世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インドの数学者・天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。
以 上
追記
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
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