天才数学者ラマヌジャン-「奇蹟がくれた数式」を観て
はじめに
「ラマヌジャン」という名前を聞いて、これがインドの有名な数学者であると知っている人は、数学通か相当な物知りである。数学が好きな人にとっては、何とも言えない響きを有しているその名前は、一般の人には何の興味も呼び起こさないものだと思われる。
ラマヌジャンは、「インドの魔術師」と言われ、32歳の若さでこの世を去った夭折の天才数学者である。このラマヌジャンの短い生涯を表した映画作品である「奇蹟がくれた数式」(原題:The Man Who Knew Infinity)が、2016年10月に公開された。この原作は、1991年にロバート・カニーゲル氏によって著された「無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン」(田中靖夫氏翻訳)である。
今回は、このラマヌジャンについて、紹介したい。なお、ラマヌジャンについては、藤原正彦氏がその著書「心は孤独な数学者」(新潮社)、「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(新潮社)(文春文庫)等で紹介しているので、詳しい内容に興味がある方はこれらの著書を参照していただきたい。
ラマヌジャンは、「インドの魔術師」と言われ、32歳の若さでこの世を去った夭折の天才数学者である。このラマヌジャンの短い生涯を表した映画作品である「奇蹟がくれた数式」(原題:The Man Who Knew Infinity)が、2016年10月に公開された。この原作は、1991年にロバート・カニーゲル氏によって著された「無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン」(田中靖夫氏翻訳)である。
今回は、このラマヌジャンについて、紹介したい。なお、ラマヌジャンについては、藤原正彦氏がその著書「心は孤独な数学者」(新潮社)、「天才の栄光と挫折 数学者列伝」(新潮社)(文春文庫)等で紹介しているので、詳しい内容に興味がある方はこれらの著書を参照していただきたい。
ラマヌジャンとは
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyengar Ramanujan)(1887~1920)は、南インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナム(Kumbakonam)で生まれ育った。私自身はこの地を訪れたことはないが、世にも稀有な天才を生み出した街として、何とも言えない雰囲気を感じさせてくれる地なのではないかと推察している。できれば一度は訪れたいと思っているが、おそらくかなわぬ夢であろう。
ラマヌジャンは、母親の教育のおかげで敬虔なヒンドゥー教徒であった。カースト制度の最上級のバラモン階級の家庭に生まれたが、豊かな生活を送っていたわけではなかった。
幼い頃から、学業は優秀で、数学に強い関心を有しており、大学に入学したが、数学に没頭するあまり、あまり授業に出席せず、試験に落第して、退学を余儀なくさせられた。その後港湾事務所の事務員の職に就きながら、独自で数学の研究を行い、いくつかの数式をノートに書き留めていった。
彼は、こうした得た自らの研究成果を英国の何人かの教授に送った。その研究がケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)教授の目に留まり、英国に招聘されることになる。当時、海外渡航をするということは、バラモンの戒律を破ることになり、カーストから追放され、友人や親戚を失い、社会的に抹殺されることにもなることを意味していたが、周囲の支援もあり、神の特別な許しも得て、ケンブリッジ入りすることになる。
ただし、菜食主義で、バラモン以外の者が料理したものを不浄として口にしないという主義を貫いていたことから、英国では満足な食事をとることができなかった。周囲との付き合いも限られ、不規則な生活を行う中、第一次世界大戦の勃発で野菜等の入手も困難になったこともあり、ついには渡英後3年ほどして、病魔に襲われてしまう。その後インドに戻るが、嫁姑の諍い等の問題も抱える中で、1920年に32歳という若さでこの世を去ることになる。
藤原正彦氏の著書によれば、「ラマヌジャンは、『我々の百倍も頭がよい』という天才ではない。『なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない』という天才なのである。」ということである。さらには、「数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから、『十年か二十年もすれば誰かが発見する』のである。」「アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、二年以内に誰かが発見しただろうと言われる。」「ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおざす、ラマヌジャンがいなかったら、それらは百年近くたった今日でも発見されていない、ということである。」と記されている。
その意味で、ラマヌジャンは、アインシュタインをも超える大天才だったということになる。
ラマヌジャンは、母親の教育のおかげで敬虔なヒンドゥー教徒であった。カースト制度の最上級のバラモン階級の家庭に生まれたが、豊かな生活を送っていたわけではなかった。
幼い頃から、学業は優秀で、数学に強い関心を有しており、大学に入学したが、数学に没頭するあまり、あまり授業に出席せず、試験に落第して、退学を余儀なくさせられた。その後港湾事務所の事務員の職に就きながら、独自で数学の研究を行い、いくつかの数式をノートに書き留めていった。
彼は、こうした得た自らの研究成果を英国の何人かの教授に送った。その研究がケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)教授の目に留まり、英国に招聘されることになる。当時、海外渡航をするということは、バラモンの戒律を破ることになり、カーストから追放され、友人や親戚を失い、社会的に抹殺されることにもなることを意味していたが、周囲の支援もあり、神の特別な許しも得て、ケンブリッジ入りすることになる。
ただし、菜食主義で、バラモン以外の者が料理したものを不浄として口にしないという主義を貫いていたことから、英国では満足な食事をとることができなかった。周囲との付き合いも限られ、不規則な生活を行う中、第一次世界大戦の勃発で野菜等の入手も困難になったこともあり、ついには渡英後3年ほどして、病魔に襲われてしまう。その後インドに戻るが、嫁姑の諍い等の問題も抱える中で、1920年に32歳という若さでこの世を去ることになる。
藤原正彦氏の著書によれば、「ラマヌジャンは、『我々の百倍も頭がよい』という天才ではない。『なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない』という天才なのである。」ということである。さらには、「数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから、『十年か二十年もすれば誰かが発見する』のである。」「アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、二年以内に誰かが発見しただろうと言われる。」「ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおざす、ラマヌジャンがいなかったら、それらは百年近くたった今日でも発見されていない、ということである。」と記されている。
その意味で、ラマヌジャンは、アインシュタインをも超える大天才だったということになる。
ラマヌジャンの逸話-タクシー数-
ラマヌジャンにはいくつかの逸話(エピソード)があるが、その中でも最も有名なものは、映画「奇蹟がくれた数式」の中でも取り上げられている「タクシーのナンバープレート」に関するものである。
1918年2月頃、ラマヌジャンは療養所に入っていたが、そこにハーディが見舞いにやってくる。
ハーディが、自分が乗ってきたタクシーのナンバープレート「1729」について、「何の特徴も無いつまらない番号だ。」と述べたのに対して、ラマヌジャンは「とても面白い番号です。1729は2通りの立法数の和として表される最小の数です。」と反論したとのことである。
即ち、1729は、以下のように表現できる。
1729=123(12×12×12)+13(1×1×1)=103(10×10×10)+93(9×9×9)
1から1728までの数字は、このような形で表すことはできない。このエピソードは、ラマヌジャンがいかに数に対する探究心が強かったかを示している。
(注)なお、自然数だけでなく、負の数を含む整数の立法和ということで考えれば、91が最小(絶対値が最小)ということになる。
91=63+(-5)3 =43+33
1918年2月頃、ラマヌジャンは療養所に入っていたが、そこにハーディが見舞いにやってくる。
ハーディが、自分が乗ってきたタクシーのナンバープレート「1729」について、「何の特徴も無いつまらない番号だ。」と述べたのに対して、ラマヌジャンは「とても面白い番号です。1729は2通りの立法数の和として表される最小の数です。」と反論したとのことである。
即ち、1729は、以下のように表現できる。
1729=123(12×12×12)+13(1×1×1)=103(10×10×10)+93(9×9×9)
1から1728までの数字は、このような形で表すことはできない。このエピソードは、ラマヌジャンがいかに数に対する探究心が強かったかを示している。
(注)なお、自然数だけでなく、負の数を含む整数の立法和ということで考えれば、91が最小(絶対値が最小)ということになる。
91=63+(-5)3 =43+33
とても興味深く読みました: ゼロ除算は・・・・
再生核研究所声明359(2017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0 で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:
複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。
以 上
付記: The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1 -16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
再生核研究所声明357(2017.2.17)Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。
再生核研究所声明 339で 次のように述べている:
世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インドの数学者・天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。
以 上
追記
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:
Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0⁄x= 0 である。しかしx⁄0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。
実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:
しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。
全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。
古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。
2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上
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