なぜ、隣人の収入アップは我が身の不幸なのか?行政書士・不動産投資顧問 金森重樹=文
「他人の不幸を喜ぶのは不謹慎」ではない
「他人の幸福は飯がまずい」
という表現があります。底意地が悪いように聞こえる言い方です。しかし、それは、人間本来のありのままの自然な姿なのです。前回は、そのことをお話ししました。
ハーバード大学のエルゾ・ラットマー教授(経済学)も2005年に論文でこう述べています。
「隣人達の収入が上がることは、自分の収入が減ることと同じ程度の不幸をもたらす」
おそらくこうした心理は古今東西の人間の真相なのではないかと思います。
ただ、前回の私の原稿に対して読者の皆さんからかなり強い反発がありました。
「他人の不幸を喜ぶのは不謹慎だし、自分はそんなことはしない」
「他人が優れたものを持っていることについて、嫉妬することはいけないことだし不道徳だと思う」
「他人が優れたものを持っていることについて、嫉妬することはいけないことだし不道徳だと思う」
あるいは、宗教的な観点から、
「妬みは7つの大罪のうちのひとつであり、そのような感情は死に至る罪だ」
というものが多かったです。
これらについて僕は2点ご指摘したいと思います。
1点目は、「高収入貧乏の谷」(周囲に負けない生活レベルを目指すあまり多くの支出をして、貧乏家計に転落)を乗り越えるためには、自分には妬みの感情があるという事実を道徳的・倫理的に覆い隠してはいけない、ということです。自己欺瞞をするのではなく「正面から受け入れなければならない」。そう強く訴えたいです。
「自分には嫉妬などの悪しき心はない」と問題を覆い隠してしまえば、嫉妬の存在とそれに対する自己欺瞞の葛藤の中で、問題を解決することが不可能になってしまいます。
まずは、自分の中に嫉妬心という感情があるという事実を認める。ただ、その嫉妬心をあからさまに表明することは社会生活上の軋轢の元であり、好ましくありません。だから、どう適切に対処するべきかをよく考えることが大切です。
嫉妬心を見てみぬふりして、他人に勝とうという感情に任せて競争的消費を繰り返せば「高収入貧乏の谷」に落ちることは必然です。
2点目は、「集団とか社会的序列の中で生活する動物の脳には妬みの感情を抱く回路が組み込まれており、人間もその例外ではない」ということです。これは、犬などペットを飼っている方は動物の嫉妬する場面に出くわすことがあるためよくお分かりかもしれません。
しかし、前述したように人間が妬みの感情を持っているからといって、それは悪い心であるわけではありません。進化の過程で、生物は生存競争のために互いに食物や異性を奪い合ってきました。結果的に見れば、他者の不幸は自分の幸福につながり、自らが子孫を残す可能性が高まるため、他者を妬み、他者の不幸を喜ぶことが必要でした。だから、妬みは本能といってもいい。否定するものではないのです。
「他人の不幸は蜜の味」は視覚的に実証されている
とはいえ、ここまでお話ししても、反論する人も少なくないでしょう。
「自分には他人の不幸を喜ぶ感情などない。他人の成功を祝福する感情があるだけだ。妬みの感情を目に見える形で証明できるのか?」と。
今までは、目に見える形で証明することは不可能だったので、もしそう質問されたら、ぐうの音も出ません。即議論は終了。人間の性善説または宗教的・倫理的主張の勝利に終わりました。
ところが、以前にマシュマロ・テストの回(過去記事参照 http://president.jp/articles/-/17376)でお話ししたfMRI(機能的磁気画像共鳴法)の出現によって、「心」を直接見ることができるようになったことで事情は大きく変わりました。
さあ、この「心」をダイレクトに見ることができるfMRIとはどんな装置か。
ヒトの脳が働いている部位では大量に酸素が消費されることで、それを補うために血液量(酸化型ヘモグロビン含む)も増え、相対的に還元型ヘモグロビンが少なくなります。そのようにして血液中の酸素濃度に変化が起こります。この変化がMRI信号に影響を与えることを利用して脳の活動を視覚化する。それが、fMRIの仕組みです。
1秒間に10枚を超える高速で脳の断層写真を撮影した場合、血流動態反応が画像化できて、これによって脳のどの部位が活動しているかが分かります。そして脳のどの部位がどのような感情や欲求をつかさどるかを特定することで心がビジュアル化されるというのがざっくりとした考え方です。
人間に妬みの感情が起きた場合、このfMRIを使うと脳のどの部位にどんな反応があるのか。
京都大学大学院医学研究科の高橋英彦淳教授は以下のシナリオを使って、妬みの感情をfMRIで観察しました(『なぜ他人の不幸は蜜の味なのか』高橋英彦著)。
【被験者】
●主人公(男) 学業は平均的男子大学生、野球部で補欠、貧乏で寮暮らし、恋人なし
●一郎 学業優秀、野球部でエース投手、経済的に豊か、女子学生にモテる
●花子 学業優秀、ソフトボール部でエース投手、経済的に豊か、男子学生からモテる
●並子 学業は平均的、ソフトボール部で補欠、男子から人気なし
*女性の被験者の場合には、主人公を女性として性別を入れ替えたシナリオにします
●主人公(男) 学業は平均的男子大学生、野球部で補欠、貧乏で寮暮らし、恋人なし
●一郎 学業優秀、野球部でエース投手、経済的に豊か、女子学生にモテる
●花子 学業優秀、ソフトボール部でエース投手、経済的に豊か、男子学生からモテる
●並子 学業は平均的、ソフトボール部で補欠、男子から人気なし
*女性の被験者の場合には、主人公を女性として性別を入れ替えたシナリオにします
ご想像のように、主人公は一郎を最も妬ましく思い、次に花子を妬ましく思いました。並子は妬む理由がないため無関心でした。主人公が一郎や花子のプロフィールを見た際に、脳で活動した領域は、前頭葉の前部帯状回の上の部分でした。この部分は、身体の痛みの処理に関係している部位。つまり、「妬みとは心が痛いことである」ということができるかと思います。
このシナリオを使ったfMRIの実験で、「他人の幸福は飯がまずい」ということが、人間の本性であることがはっきりしました。
似た属性の人に不幸が訪れると、脳が「喜ぶ」
この実験には続きがあります。
相手が、不幸に見舞われたとき、人は同情してあげられるでしょうか。
・一郎の高級外車は故障ばかりします。昨夜、高級フレンチで外食して食中毒になりました
・並子の中古の軽自動車は故障ばかりします。昨夜カップラーメンを食べてお腹を壊しました
・並子の中古の軽自動車は故障ばかりします。昨夜カップラーメンを食べてお腹を壊しました
一郎の不幸を見たときに、被験者(主人公)の脳で活動した領域は、脳の深い部分にある線条体という部分でした。線条体はおいしい食べ物やお金を得たときに報酬に反応する報酬系という部位です。一方、並子の不幸を見たときには、線条体は活動しませんでした。かわいそうですからね。
妬ましい他人に不幸が起こった場合には、前部帯状回の心の痛みがやわらぎ、それと同時においしい食べ物やお金を得たときのように、無意識に自然と喜びが湧き上がってくるのです。これは、理性を司る部位よりもずっと深い部分にあり、無意識的に喜びが沸き上がるため理性による制御は難しいです。本能的な反応と言えます。
これで、宗教的・倫理的にどのような主張をしようが、「他人の不幸は蜜の味」というのは、自己欺瞞によって覆い隠しようがない厳然たる事実だということがはっきりしたのではないでしょうか。
結局のところ、ここが高収入貧乏の谷を渡る命綱なんですよね。
人間には妬みがあります。そして、妬みを感じると心が痛いため、それを和らげるため自分の社会的地位を示すために衒示的消費(誇示的消費、みせびらかしの消費)を衝動的に行いがちです。
“ママーカースト”で女性たちが身につけるものや持ち物を競い合い、タワーマンション族が同じマンションの中で広さや階数、方角、持っている車などで互いを格付けします。実は前述の実験で、被験者には次のような条件がありました。
●一郎:主人公と趣味、価値観、人生目標など共通点が多い。
●花子:主人公とは趣味、価値観、人生目標が異なる。
●並子:主人公とは趣味、価値観、人生目標が異なる。
●花子:主人公とは趣味、価値観、人生目標が異なる。
●並子:主人公とは趣味、価値観、人生目標が異なる。
主人公が最も妬んだのは、前述したものと同じで、自分と趣味、価値観、人生目標など共通点が多い一郎。その次に妬まれたのが花子でした。つまり趣味など「属性」が同じ(もしくは近い)者同士は妬み合いやすいのです。そして、並子のように、主人公と全く異なる価値観や人生目標を持つ者は妬む理由がないため、無関心です。
自分の中の「妬み」を認めねば富裕層は遠い
蓄財のプロセスで重要なのは、たとえ自分に妬みの感情が生じても、その妬みの感情が存在していることをあえて認識して(覆い隠さず)、「みっともなく生きること」(競い合いによる浪費を防いで質素に生きる)によって種銭を作ることです。
妬みの感情こそが、自分自身が感情に任せ消費によって周囲と張り合ってしまう原因になることを十分に認識し、質素倹約を貫き通すのです。
そのためにも種銭を作る段階では、なるべく周囲に高所得者が多いブランドエリアではなく、低収入の街を選び生活をダウングレードすることをおすすめします。ブランドエリアに住み続けながら必死に種銭を作ろうとすると、自分が惨めな思いをするなど不快感を感じやすい。その不快感を軽減するためにも低収入エリアを選んで住むことがベターなのです。
そうやって無理せずにトップランクの位置財(周囲との比較によって満足を得るもの)が入手できるような環境(周囲が自分より低収入の街)に暮らすことで、相対所得のメリットを享受しやすくなります。4つの財布(事業収入、不動産収入、給与 収入、配当収入)が揃って節税を兼ねた消費ができるようになった段階であれば、なおさらです。
資産形成において、生物の本能として自然に湧き上がって来る嫉妬の感情と社会的適応の間に折り合いをつけることは極めて重要なポイントなのです。なぜなら、たいていの人は、ここでつまずいて、「富裕層手前」で力尽きているのですから。
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*受け付けた質問の一部に関して、金森氏が記事内で回答する場合があります。なお、金森氏より質問者に連絡することは一切ございませんし、営業目的に利用することもございません(記入フォームにアドレスなど連絡先の書き込み欄はありません)。
https://docs.google.com/forms/d/1QL5Ik3u31anl6QRjpkUdgZw7NqKS4EpmVd3cIUVz82s/viewform
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再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:
再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。
作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:
再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上
再生核研究所声明290(2016.03.01) 神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
オイラーの公式 e^{pi i}= -1 は最も基本的な数、-1, pi, i, eの4つの数の間の簡潔な関係を確立させているとして、数学とは何かを論じて、神秘的な公式として、その様を詳しく論じた(No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。)。
余りにも深い公式なので、神の人類に対する意地悪かと表現して、神は恥ずかしがり屋で、人類があまりに神に近づくのを嫌がっているのではないかと発想した。
ここ2年間、ゼロ除算を発見して、ゼロ除算の実在性は確信できたが、ゼロ除算の神秘的な歴史(再生核研究所声明287(2016.02.13)神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算)とともに、誠に神秘的な性質があるので その神秘性に触れたい。同時に これを未解決の問題として世に提起したい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。天才オイラーの無限であることの証明とその誤りを論じた論文があるが、アーベル、リーマンと継承されて現在に至る。他方極めて面白いのは、アリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインで問題にされ、下記の貴重な言葉が残されている:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
現在、ゼロ除算の興味、関心は 相対性の理論との関係と、ゼロ除算が計算機障害を起すことから、論理の見直しと数体系の見直しの観点にある。さらに、数学界の難問、リーマン予想に関係していると言う。
ゼロ除算の神秘的な歴史は、早期の段階で ゼロ除算、割り算が乗法の逆で、不可能であるとの烙印を押され、確定的に、 数学的に定まった と 人は信じてしまったことにあると考えられる。さらに、それを天才達が一様に保証してきたことにある。誠に重い歴史である。
第2の要素も、極めて大事である。アリストテレス以来、連続性で世界を考える が世界を支配してきた基本的な考え方である。関数y=1/x の原点での値を考えるとき、正方向、あるいは 負方向からゼロに近づけば、正の無限や負の無限に近づくのをみて、ゼロ除算とは無限の何か、無限遠と考えるのは極めて自然で、誰もがそのように考えるだろう。
ところが、結果はゼロであるというのであるから、驚嘆して、多くの人は それは何だと顔さえしかめたものである。しばらく、話さえできない状況が国際的にも一部の友人たちの間でも1年を超えても続いた。 そこで、最近、次のような文書を公表した:
ゼロ除算についての謎 ― 神の意思は?:
ゼロ除算は数学的な真実で、我々の数学の基本的な結果です。ところが未だ、謎めいた現象があり、ゼロ除算の何か隠れた性質が有るように感じます。それはギリシャ、アリストテレスの世界観、世の連続性を否定し、強力な不連続性を表しています。強力な不連続性は普遍的に沢山あることが分かりましたが、肝心な次の等角写像での不連続性が分かりません:複素関数
W = z+ 1/z
は 単位円の外と内を [-2,+2] を除いた全複素平面上に一対一上へ等角に写します。単位円は[-2,+2]を往復するようにちょうど写ります。単位円が少しずれると飛行機の翼の断面のような形に写るので、航空力学での基本関数です。問題は、原点が所謂無限遠点に写っているということです。ところがゼロ除算では、無限遠点は空間の想像上の点としては考えられても、数値では存在せず、数値としては、その代わりに原点ゼロで、それで原点に写っていることになります。それで強力な不連続性を起こしている。
神が、そのように写像を定めたというのですが、何か上手い解釈が有るでしょうか?
神の意思が知りたい。
2016.2.27.16:46
既に 数学における強力な不連続性は 沢山発見され、新しい世界観として定着しつつあるが、一般の解析関数の孤立特異点での確定値がどのような意味があり、なぜそのような不連続性が存在するのかは、神の意思に関わることで、神秘的な問題ではないだろうか。 神秘の世界があることを指摘して置きたい。
以 上
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
再生核研究所声明305(2016.06.17) 出産の報に接して
友人が出産の喜びを伝えてきたが、これは友人に関わらず、一般に出産の問題から、人生の問題を考えて置きたい。
多くの人は自分の子の出産に際して、明かりが灯されたような希望、夢が湧いてくるのではないだろうか。人生の意義は感動することにあると 言い切ったことに対して、ある女性が 出産した時が人生で最も感動した瞬間だったと回想したという。よく理解できる。 生命とは何だろうか、人生とは何だろうか、生きるということが どのようなことかに関わっているからである。
なぜ、生命は、人生は始まったのか。両親の思いは代々、世代 世代くり返されてきたが、
それらは 同じようではないだろうか。多くは子供たちの将来の問題に関わらず、自然に極めて基本的な生命の営みの結果、恋などを通して出産を迎えていると言える。もの心付けば 異性に興味を抱き、片割れである人間は
(No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
Traduzir esta página19/03/2012 ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。骨格は .... の上に立って判断されるべきです (再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の. 審判)。実際、何十年も経って、...
)
異性に惹かれて、自然に出産に至る。大事なことは これらは、声明303などに述べられているように、そのように、生物、動物、人間は作られているという事実である。人生には意義が有るだろうか、意味が有るだろうかの問題ではなく、生物の基本的な営みとして、そのように作られているということである。
人生、苦しい時は、どうして苦しい人生を苦労して、生きなければならないのかと、生まれてきたことを恨みたくなったり、生まれて来なければ良かったと思うときは 少なからず有るのではないだろうか。苦労して、子供のために心配し、尽くしている両親を恨みたくなることさえあるのではないだろうか。
真実は、両親さえ、そのような心情には答えられず、生命の切ない定めで、現在に至ったと哀しい想いをするだけでは ないだろうか。
出産について言いたいことは、それは生命の基本的な営みで、強い必然性があって、我々の思考を超えたところにあるということである。それは、人生や、世界の存在の問題は 我々の思考を超えたところに存在するということである。
出産という慶事に際して、人口問題などの難題については 改めて、考察したい。
ただ、この世に生をうけたからには、人生を肯定できるような人生をおくって欲しいと願わずにはおれない。 人生の肯定である。
次も参照:
再生核研究所声明304(2016.06.16): いじらしい人間
再生核研究所声明301(2016.05.23): 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
以 上
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