2016年10月21日金曜日

現代の数学者を悩ませ続ける「100年前の数学の魔術師」シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

現代の数学者を悩ませ続ける「100年前の数学の魔術師」シュリニヴァーサ・ラマヌジャン

映画『奇蹟がくれた数式』が2016年10月22日に公開される。天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの短い生涯を追った作品だ。本作の解説をつとめる広島大学の木村俊一に、ラマヌジャンの功績について話を訊いた。
「ラマヌジャンは数学者のなかでも異色・異能の天才で、まさに“数学の魔術師”です。彼の着想の源がどこにあるのか、彼の死後、誰も本当にはわかっていないと思います。彼は4,000もの定理や数式をノート何冊にもわたってぎっしりとまとめていました。これは、その質まで考えると恐るべき量で、ぼくのこれまでの数学人生全部あわせても、ラマヌジャンの公式10個分にもならないでしょうね」
そう語るのは、著書『数学の魔術師たち』でラマヌジャンにふれた広島大学大学院理学研究科数学専攻の木村俊一教授だ。
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887〜1920)は、独学で数学を学んだインド人の数学者だ。彼は敬虔なヒンドゥー教徒で、身分は最上級カーストのバラモンだった。
20世紀の初め、南インドの小さい家で石版にカリカリと計算式を書いていた青年ラマヌジャンは、当時職もなく、できあがった数式のうちとびきり気に入ったものだけを貴重な紙のノートに丁寧に書き連ねていった。当時、紙は貴重なものだったからだ。
彼は自ら研究成果を英国に送り、その研究がケンブリッジ大学の数学教授ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディの目に留まる。海外渡航をするとカーストを失うなか「神の特別な許しを得て」ケンブリッジ入りをしたラマヌジャンだが、バラモンの教条を守り徹底した菜食主義を貫いたため、この国では満足な食事をとることができなかった。さらに第一次世界大戦の勃発で食料が不足するなか、ついには病に侵されてしまう。その後インドに戻り、32歳という若さでこの世を去った夭折の天才数学者である。
ラマヌジャンの生涯を描いた映画『奇蹟がくれた数式』(2016年10月22日公開)では、(文系にもかろうじてわかる)いくつかの数式が出てくる。なかでも印象的なのは、ラマヌジャンとハーディの別れのシーンに出てくる、タクシーのナンバープレートのエピソードだ。
そこに記された「1729」というなにげない数を、ハーディは「つまらん番号だ」と言うのが、ラマヌジャンは「とても面白い番号です。1729は3乗数2つの和として2通りにあらわされるいちばん小さな数です!」と反論する。これはつまり、こういうことだ。
12×12×12=1728 これに1×1×1=1を足すと1729
10×10×10=1000に9×9×9=729を足すと1729
1から1728までの数字では、このような現象は起こらない。これを少し変形すると、103+93+(−1)3=123となるのだが、この数式は、ラマヌジャンの生きた時代では未解決だったフェルマーの最終定理「xn+yn=znとなるような自然数x,y,zはnが3以上の整数ならば、存在しない」を連想させる。
「x3+y3=z3」となる自然数x, y, zが存在しないことはラマヌジャンよりも前の数学者レオンハルト・オイラー(1707〜1783)がすでに証明しており、普通の数学者ならば、未解決問題である「nを大きくするとどうなるか?」という方向に考えが進む。しかし、ラマヌジャンは「では、変数をひとつ増やすとどうか?」という思いもよらぬ方向に発展させ、
(6a2-4ab+4b2)3=(3a2+5ab-5b2)3+(4a2-4ab+6b2)3+(5a2-5ab-2b2)3
という不思議な数式を問題形式にして、インドの数学ジャーナルに発表するのだ。
「こんな式をどうやって見つけたのか、見当もつかない」と木村は言うが、同時にこれこそがラマヌジャンが天才たるゆえんだと語る。
「ラマヌジャンが優れていたのは空想力、夢想力なのだと思います。普通の数学者には見えていないものが、彼には見えていたのでしょう。この発想の源をラマヌジャンは『ナマギーリ女神が舌に数式を書いてくれる』と言っています」

数学者たちの数奇な運命

数学者をモデルとする映画や文学作品はこれまでにも数多くある。例えば、ゲーム理論を生み出した功績でノーベル賞を受賞した数学者ジョン・ナッシュの人生を描いた映画『ビューティフル・マインド』(2002)。
天文暦学者・数学者の渋川春海とともに映画『天地明察』(2012)で描かれた関孝和(1642〜1708)は、江戸時代に「点竄(てんざん)術」という筆算による代数方程式の解法を発明し、独自に編み出した微積分の計算を応用して円周率を小数第11位まで算出し、西欧にさきがけて線形代数の行列式まで発見した。
多変数複素関数論を発表した岡潔(1901〜1978)をモデルにした映画『好人好日』(1961)では、父娘の情愛を描いた物語がコメディタッチで描かれている。このように、一見とっつきにくそうな数学者が映画のモデルになることに対し、木村は次のように語る。
「数学者の人生が、ほかの人と比べて面白いというのは当然だと思います。普通の人は周囲と歩調を合わせないと社会生活を送れませんが、ぼくたち数学者は、ほかの人と同じ発想しかできないと存在価値がないんです。いかに誰も考えたことがない着想で新しい定理を導き出せるかが、数学者にとっての生命線です。だから日常では、ずれた面が出てくるんでしょうね」

数学の進歩の速度──ヒルベルトの23の数学の問題

今日においても、世界中の数学者たちはラマヌジャンの数式に挑んでいる。ラマヌジャンのいくつかの研究は、現在、弦理論やブラックホール、量子重力の研究を行う物理学者や数学者を支えているという。
ラマヌジャンはインドに帰ったあとも数学の研究を続け、「偽テータ函数と擬テータ函数というものを思いついて研究しています」とハーディに手紙を送っている。その研究ノートの140ページは、1976年に擬テータ関数の専門家、ジョージ・アンドリュースによって発見された。さらに、一見、インターネットと関係のない彼の整数論も、タウ函数についてのいくつかの予想を通して、現在ぼくたちが効率よくインターネットを使えるシステムにつながっているという。
ラマヌジャンが死去したのは1920年で、それから100年が経とうとしている。この100年におけるテクノロジーの進歩はいうまでもないが、かたや「数学」という学問においていかほどの進歩があったのか、木村に訊いた。
「1900年にパリで開かれた第2回国際数学者会議で、ドイツのゲッティンゲン大のダフィット・ヒルベルト(1862〜1943)は、20世紀に解決されるべき数学上の23の問題を提起しました。
ぼくたちがいましている数学の研究の半分以上は、1900年にヒルベルトが提示した23の問題の延長線上にあるといっていいと思います。つまり、ぼくたちはいまでも100年前・200年前の問題を一生懸命解こうとしているんです。
テクノロジーの発展は速いですが、数学の進みはとてもゆっくりです。1997年には、(前出の)アンドリュースがラマヌジャンに関係する数学専門の学術誌(『The Ramanujan Journal』)を創刊しました。ラマヌジャンの数学はいまもなお、生きているんです。むしろ、ようやくラマヌジャンが見えていたものが、100年後のぼくたちにも見えはじめてきたのだと思います」
木村俊一|SHUNICHI KIMURA
1963年生まれ。東京大学理学部数学科卒業。同大学院理学研究科修士課程修了。シカゴ大学にてPh,D取得。MIT、ユタ大学、ヴァージニア大学、マックス・プランク研究所などを経て、現在、広島大学院理学研究科教授。専門は代数幾何とおもしろ数学。著書に『数学の魔術師たち』〈角川ソフィア文庫〉ほか。http://wired.jp/2016/10/21/ramanujyan/
非常に興味深く読みました:
再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更 かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド空間とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、ゼロ除算の教育、研究は日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の協力、参加をお願いしたい。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。数学はより美しく、完全であった。さらに、数学の奥深い世界を示している。ゼロ除算を含む体の構造、山田体が確立している。その考えは、殆ど当たり前の従来の演算の修正であるが、分数における考え方に新規で重要、面白い、概念がある。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童・生徒たちにも歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。応用する。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直交座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象接線などの新しい性質解析幾何学との美しい関係と調和すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること行列式と破壊現象の美しい関係など。三角関数や初等関数でも考え方を修正、補充する。直線とは、そもそも、従来の直線に原点を加えたもので、平行線の公理は実は成り立たず、我々の世界は、ユークリッド空間でも、いわゆる非ユークリッド幾何学でもない、新しい空間である。原点は、あらゆる直線の中心になっている。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の発展の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し ― ゼロ除算算法、広範な応用を展開する。最も顕著な例は、tan 90度 の値がゼロであることで、いろいろ幾何学的な説明は、我々の空間の認識を変えるのに教育的で楽しい題材である。特に微分係数が正や負の無限大に収束(発散)する時微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。新しい、関数の素性が見えてくる。
複素解析学において 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点自身では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学的な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円に関する鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考え方の修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上における大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。これはアリストテレスの世界の連続性の概念を変えるもので強力な不連続性を示している。 ― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える。
以 上
追記:
*156  Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and
 Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China.
 (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177)  Sep. 2016 305 pp.            (Springer)
Paper:Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Dear Prof. Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
With reference to above, The Editor-in-Chief IJMC (Prof. Haydar Akca) accepted the your paper after getting positive and supporting respond from the reviewer.
Now, we inform you that your paper is accepted for next issue ofInternational Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue  1, 2017),
数学基礎学力研究会のホームページ
URL

再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
                                                     
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更 かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する

以 上

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