2016年10月20日木曜日

“放狼”是か非か 農林産物の鳥獣食害深刻化 福岡・添田 住民提案

“放狼”是か非か 農林産物の鳥獣食害深刻化 福岡・添田 住民提案

「オオカミ復活」は是か非か-。シカやイノシシによる農林産物の食害に悩む福岡県添田町の住民グループが、国内では絶滅したオオカミを輸入して山林に放ち、食害を減らそうとの構想を提案している。23日には、町内でオオカミを用いて有害鳥獣を駆除する方法や安全性について考える「オオカミフォーラム」を企画。過疎化に伴い、シカやイノシシの異常な増加など里山崩壊に悩む地域の対策として一石を投じる。
 フォーラムは町の河川保護に取り組む住民グループ「アカザを守る会」(武貞誉裕会長)が一般社団法人日本オオカミ協会(静岡)と連携して開催する。
 輸入オオカミを野に放つ構想は、2011年に大分県豊後大野市が同様の状況にある自治体に協議会設置を呼び掛けたが、安全性や生態系への影響が懸念され「市民の理解が得られていない」などの理由で実現していない。
 「人を襲うのでは」との不安も根強い中、フォーラムでは、米国とドイツから招く研究員ら4人が「オオカミは人を襲わない?」「オオカミの復活と自然生態系回復」などのテーマで講演する。1995年にシカの増加による生態系の悪化に悩んでいた米イエローストン国立公園で放した結果、シカが激減して植物群落やビーバーが戻ってきた事例や、欧米ではオオカミによる人的被害はゼロに等しい現状を報告する。
 構想の背景には食害の深刻化がある。町が最も被害を受けているシカの捕獲数は、2010年の99頭から14年は396頭と4倍に。猟友会による駆除やわなも増設しているが、農林産物被害は例年4千万円台後半に上るという。
 同町の英彦山にもかつてニホンオオカミが生息し、イノシシやシカの天敵だったとされる。守る会は将来的に、ニホンオオカミと祖先が同じとされ、中国などに生息するハイイロオオカミの導入を目指しており、武貞会長は「食物連鎖の頂点が復活すれば、自然環境のバランスは回復する。輸入オオカミの導入は地域の山や川を守る一つの可能性として挑戦する価値がある」と強調する。一方、環境省は「家畜被害や人を襲った場合の補償など課題も多い。現状では検討できる状況にない」としている。
 フォーラムは23日午後2時~4時半、添田町民会館で。定員200人で入場無料。
=2016/10/18付 西日本新聞朝刊=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/282600
再生核研究所声明 692011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考

(背景: 2011/09/22  宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)

単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。

まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67  脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。

相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。

次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。

上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。

1)絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2)その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3)みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4)特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5)世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6)一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7)くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8)ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。

これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。

なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上
再生核研究所声明1742014.8.7) 狼の輸入によって、生態系の維持を図れ

添付資料にも有るように、日本の森林が鹿の増大などで荒廃しているという。これは、人類生存の基本的な原理である生態系の維持の観点から、何万年と続いてきた生態系に人類が不遜にも過剰に自然に介入して、生態系のバランスを崩してきていると判断される。 誠に由々しき軽薄な行為として、反省させられる。生態系の全体的な維持、自然の尊重は心すべき、人間の在りようであると考える。
あらゆる生物は未だ、人知を超えた神秘的な存在であり、その未知の世界に対しては、畏敬の念をもって当たり、人類は慎ましい存在であるべきである。 人類は驕るべきではなく、自然状態の尊重を基本に当たるべきである。
山には、山の何万年も続いた秩序があり、数百年の人類の生活で、その計り知れない秩序の破壊は どのように大きな未知の影響をもたらすか、評価さえ難しいだろう。そこで、元の自然の状態への回帰は、賢明な在りようであると考える。狼は森の守り神のような存在で、狼の存在によって人間は森に対して、ある種の畏敬の念を抱いてきたのではないだろうか。人間の不遜な態度を戒めるためにも、狼の森への回帰は賢明な在りようではないだろうか。
困ったら、元に、困ったところに戻れ は 数学の研究の基本的な在りようであるが、困ったときには、自然の状態はどのようで有ったか と考えるのは、良い在りようではないだろうか。
人類が地球の生態系の中で、癌細胞のような存在になって、肥大化して、生態系と自然の破壊とと共に自滅したとならないように心したい。地球は人類だけのものではないことを 念を押して置きたい。次も参照:

再生核研究所声明 56(2011.04.06): アースデイ の理念

関係者の積極的な取り組みを提案したい。

以 上

参考資料:
シカ激増で止まぬ森林荒廃 生態系守護にオオカミの出番だ
2014.7.23 07:43 (1/4ページ)

『オオカミが日本を救う!』(白水社)の表紙。「生態系での役割と復活の必要性」が副題だ
明治以降、日本の森林はこの20年来、5度目の危機にあるという。シカの過剰増殖による植生の食害で森林の荒廃が止まらないのだ。土壌浸食や表土流出が起きている地域もある。平成26年版の環境白書では「生物多様性のみならず国土保全上の懸念も生じています」と警鐘を鳴らしているほどだ。シカ害だけでなくイノシシやサルも中山間地で深刻な農業被害を発生させている。
野生の反乱までを伴う「平成の森林危機」は、どうしてかくも深刻なものになったのか。
「食物連鎖には頂点捕食者が不可欠であるにもかかわらず、その常識を欠いたことによる帰結です」と東京農工大学名誉教授の丸山直樹さんは語る。
この頂点捕食者とは、オオカミだ。丸山さんは2月に白水社から出版された『オオカミが日本を救う!』の編著者である。有史前から日本に生息していたオオカミは、明治時代の野生動物の乱獲とオオカミ駆除政策によって絶滅した。その後は、人間による狩猟圧が頂点捕食者の役割を代替していたのだが、近年の農山村の過疎化や高齢化によって狩猟者の数が減ったことなどで個体数調整の機能が消えてしまった。http://sankei.jp.msn.com/science/news/140723/scn14072307430001-n1.htm

シカは消化力の強い反芻(はんすう)胃を持っている。群れを作って樹皮まで食べて木を枯らし、森林全体を衰退させる。他の鳥獣や昆虫類の生息の場までを根こそぎ奪うので、生態系の破壊力が大きいのだ。イノシシやサルもクマも農業被害をもたらすが、森林生態系の破壊にまでは至らない。ニホンジカの増え方は、すごい。平成2(1990)年ごろ50万頭だったが、現在は260万頭にまで増えていて、37(2025)年には、その2倍の500万頭になると推定されている。防護の柵やネットを張り巡らしても防ぎきれない。丸山さんによると、その対策の切り札はオオカミだ。オオカミの天敵効果以上に有効な手段はないという。
米国では駆除で絶滅していたイエローストーン国立公園に1996年ごろ、カナダからオオカミを再導入したところ、増えすぎていたエルクジカなどの草食動物の数が減り、他の動植物の回復が確認されている。オオカミ効果は、捕食だけでなくストレスによるシカの繁殖率低下にもつながるようだ。オオカミの再導入は、公園での絶滅から70年後のことで、貴重な先行実験例。丸山さんは1997年以来、定期的に同地を訪れ、7月中旬に5回目の調査から戻ったところだ。http://sankei.jp.msn.com/science/news/140723/scn14072307430001-n2.htm

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

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