2016年10月30日日曜日

8割以上が「MARCH以上」、高まる中学受験生保護者の学歴武装志向

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文部科学省の統計によれば、2015年の首都圏1都3県の小学6年生は約30万人。このうち四谷大塚情報本部の調査によれば、延べ約6万5000人が中学受験をしたという。一方、日能研関東予備校のグループ企業であるコアネット教育総合研究所が一昨年、首都圏の中学受験生(小学6年生)保護者約4800人に対し、教育に関する考え方や、私立中学へのイメージを探るため「私立中学の校風調査」を実施したところ、中学受験生保護者の学歴志向が、5年前に比べ高まっていることが分かった。

「子どもの進路への希望」として、「国公立難関大学」「私立難関大学」「MARCHレベルの大学」と回答した割合の合計は5年前の約1.1倍、「国公立難関大学」の回答割合は5年前の約1.2倍に上昇した。

 このような傾向の背景には、先行き不透明な経済や、就職の厳しさ、多くの中堅大学における入試難度の急落などがあるのかもしれない。こういった状況を受け、中学受験を選択する「教育熱心層」の親の中で、子どもに武器を持たせるという意味での「学歴武装」への志向が高まっていると考えられる。

 また、子どもの性別で進路希望を見てみると、女子保護者の変化のほうが大きいが判明。女性の社会進出が一層加速する中、「女子の進路」に対する保護者の意識も急激に変わってきていると言えそうだ。

文/編集部http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161028-00010005-dime-soci 
再生核研究所声明902012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察

世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。

再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する

センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1)     センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2)     教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3)     センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4)     永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5)     2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6)     センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7)     センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8)     共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。

以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては

1)     大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2)     逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3)     センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。

等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。

以上



特に次の観点を指摘して置きたい:

1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。

上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害

進路の相談を受けて、数日、大学受験について余計な危惧が心に広がって気になって来たので書き留めて置きたい。良く状況を調べた訳ではないので、軽く考えて頂きたい。
受験勉強が過熱化した場合の弊害のことである。ある相当有名な国立大学では、 東京出身者が入学者全体の85%を超えたということ、同じように日本の代表的な国立大学の入学者が特殊な高校や予備校で特訓を受けた生徒の入学者が大きな割合を占めているという。 また、かつて受験指導で有名な教授に伺ったところによれば、地方で普通の教育を受けた者が有名大学に入るのは至難なことと、組織を含めた自らの持つ情報の優秀さと指導のコツの良さに言及していた事が奇妙に気になる。要するに、今や、特殊な教育を受けた者でないと有名大学に入学できない状況があるように見える。― これは経済力や環境の良さも大きく左右しているものとも言える。 しかし、これに対しては、どんな入試でも優秀な者は良い大学に入れるから何も心配ないとの羨ましい人の言葉もある。
そこで危惧とは、

1)   みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2)   創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、
入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3)   優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4)   特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5)   厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6)   入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7)   危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、

等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。 もちろん、修行の時代が有っても良いだろうが。 教育については下記も参照:

再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17:教育界の改革を求める
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44:梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明91(2012.5.20):創造性についての一考察
再生核研究所声明102(2012.10.10):成果主義の弊害について
再生核研究所声明147(2013.12.27):創造性についての 第二考察
再生核研究所声明152(2014.3.21):研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
再生核研究所声明173(2014.8.6):愛が無ければ観えない
再生核研究所声明187(2014.12.8):工科系における数学教育について
再生核研究所声明218(2015.3.19):興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254 (2015.11.2):愛が無ければ観えない ― について、 更に

以 上

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