2016年10月21日金曜日

「マジメだけど評価されない」「いい加減だけど評価される」人たちに学ぶ、マジメさの正体

「マジメだけど評価されない」「いい加減だけど評価される」人たちに学ぶ、マジメさの正体

サイボウズ式編集部より:著名ブロガーによるチームワークや働き方に関するコラム「ブロガーズ・コラム」。桐谷ヨウさんのコラムです。
「あの人、いい加減なのに魅力あるよな〜」と思ってしまう人っているんじゃないでしょうか。いつもテキトーなのに笑って許されるような人。マジメにやっている方が損した気になって、でもどこかうらやましいような……。

高田純次さんを嫌いな人はなかなかいないのではないでしょうか? 個人的には芥川賞作家の西村賢太さんも好きです。テレビ番組で「文芸誌に締め切りなんてあってないようなもの」と言い切って、湊かなえさんと石田衣良さんが唖然としていたのは爆笑しました(笑)。
 

マジメであることは本当に必要か?

さて、みなさんは職場でマジメですか? いい加減ですか?

学生を終え、社会人になって真っ先に求められるのは「品行方正」であることでしょう。まず時間に遅刻をしない。客先だけでなく自社でも恥ずかしくない服装をする。正しい言葉づかいを守る。

これらは広い意味でのマナーであり、ドレスコードであることは間違いありません。が、「絶対」ではないのです。

現実として、同じ環境なのにルールを逸脱して許される人と許されない人がいる。盲目的にマジメであることを自分に課している人は、不公平さを嘆くのではなく、そのマジメさが本当に必要なことなのかを再度チェックしてみた方がいいです。

言い換えると、マジメさとは何か? を本質的に考えてみるということです。
 

僕のロールモデルになった先輩が教えてくれたこと。

そのヒントになったのは自分のロールモデルになった先輩の振る舞い方でした。

僕が惚れ込んだ先輩はマジメかいい加減かで言えば、明らかに後者でした。が、周囲の信頼は抜群で、管理職ですら彼の判断なしではうかつに動けないほど強い影響力を持っていました。

彼はありがたいことに僕を見込んでくれ、生来のルーズな部分を頭ごなしに否定せずに「教育」をほどこしてくれました。そのときに学んだことを書いていきたいと思います。
 

締めるところを締めろ。

彼に学んだことは「ルールは伸び縮みする」ということです。彼は年のわりにチャラめの服装でしたが、客先に行く用事がある際にはキッチリした服装をキメてきていました。また、ビジネスカジュアルの職場でしたが、謝罪の必要があるシーンではスーツをビシっとキメて先方に伺うことを徹底していました。

また、普段は前日の深酒により午前中は使いものになっていないシーンが度々ありましたが(よくコンビニでしじみのみそ汁を買っておいしそうにすすっていました)、案件の山場では誰よりも遅く残り、公私のすべてを仕事に注力しているのが傍目にもわかりました。それを見るとこちらの情熱もかき立てられました。さらにカッコ良いのは自分がそれだけやっていても他人には強要しないのです。

そう、「外してはいけないところ」を抑えていれば、他は少々ハメを外していても許されるのです。正確には「文句を言わせない」ということなんでしょう。

圧倒的なアウトプットを出しているから成立している、と思うでしょうか? もう少しハードルが低いのも紹介します。
 

根がマジメであることが明確である。

振る舞いの一挙一動がマジメであれば、その人がちゃんとしている人かどうかは誰にでも分かります。が、他人って「見てないようで見てる」んですよね。良くも悪くも。

そういう意味で、いい加減だけど愛される人って共通して「根がマジメ」なんですよ。高田純次さんの仕事仲間は例外なく彼のことを「すごくマジメ」と言っているようです。

くだんの先輩は客先にも上司にもそう思われていたのが明確でした。たとえば新規案件に関わったときに知識を吸収するための勉強熱心な姿は、どんな人よりもマジメでした。それ以外では調子のいい姿を見せていましたが……。

マジメすぎる人って概して「あらゆる場面でマジメでなくては、不マジメと思われてしまう」という強迫観念が強いように思います。でも、相手はちゃんと見てくれています。根っから不マジメなのか、根はちゃんとしているのにルーズさを出しているだけなのか。

だから、締めるところは締めながら「マジメさをゆるめる勇気」を持ってみてほしいな、と僕は考えています。
 

マジメの同調圧力って息苦しいでしょ?

というのも、マジメすぎる人って他人にもそれを求めがちなんですよね。自分がきっちりやっていると、やっていない人にいら立ってしまって。

特に後輩に対して、マジメの強要が連鎖していくのはよく見る光景です。それがあたかも社会人の常識であるかのようにして。

でも、勤務時間の融通にしても、服装にしても、残業時間にしても、「ゆとり」があって嬉しくない人なんて存在しないと思うんですよね。

僕が思うに「いい加減な人の魅力」ってそういうところも関係してると思うんですよね。つまり、彼・彼女らは他人にマジメであることを強要しない。なんというか、風通しをよくしてくれるような存在なんですよね。

見る視線を変えれば、「こういう身の振る舞い方もあるよ」と教えてくれていると言えます。
 

「マジメ」と「いい加減」は二項対立ではない。

結局のところ、いい加減さって言葉の通り「加減の良さ」なんですよ。

自分自身をどれくらい律するか? どこまで他人の要求に応えるか? あるいは他人に求める範囲はどこまでに設定するか? ルールとルーズさを守ることは排他関係ではなく、共存可能です。自分のバリューさえきちんと出せれば、コントロールすることができるものです。

そしてマジメさとは「信用の貯金」に近いと僕は考えています。

仕事ができる、あるいはこの人に任せられる、と思われることの本質は「信用」に他なりません。それがない人はできない人という評価であったり、フォローが必要な人材と思われるわけです。

そう、「いい加減だけどできる人」というのはそのバランスが上手いんですよ。ある意味では「自由・責任」がセットと言われる性質のものに近いと僕は考えています。自由に振る舞うためには、責任を引き受けなくては成立しない。

会社には(僕は大嫌いですが)「こう振る舞うべし」という暗黙のルール、同調圧力があります。それを無視して自由に振る舞う人は、ミスをしたときにつけこまれるスキを作っているわけです。

だから常日頃、窮屈な思いをして「マジメのアピール」をしておくことは貯金をコツコツ貯めるようなもので、少々のミスをしても大目にみてもらえる効用もあるんですよね。

結局は、他者からの「信用の貯金」を自分がどのように使いたいのか? ということなんだと思います。自分が使いたいときに小出しに引き出すのか、あるいは想定外の失敗をしてしまうときの保険として取っておくのか。

どちらを選択するのもその人の考え方次第です。でも、自分で自分を苦しめない選択肢は存在する、あなたにそれを選ぶ権利はある、ということだけは伝えておきたいな、と僕は考えています。
 

「うわべだけがマジメ」になろうとしない。

そして一番危険なのは「とりあえずマジメ風に見せておけばいい」とナメた態度を取ることです。

前述したように、人は見てないようで見ています。一見、マジメに振る舞っているようで周囲から信用されない人というのは、それがバレているのです。見せかけのマジメさは信用の貯金につながりません。

それでは見せかけ「ではない」マジメさとは?

僕が考えるマジメさの本質とは「何に対して誠実であろうとしているか?」です。仕事のクオリティを高めること、仕事の速度を上げること、納期を死守すること、とにかく人との約束を反故(ほご)にしないこと。何を選択してもよい。

その人が誠実に、真摯に向き合っている対象が明確である場合、それは信用に値するものだと人はみなします。反面、何を大切にしているのかわからない人は信用されません。場当たり的にいい顔をしているだけだと思われるだけです。

そして、それが所属している部署の利益あるいは理念と合致しているときに、評価がついてきます。見せかけだけがマジメな人、マジメだけど報われない人はこれを意識できていない人だと言えます。

表面的なマジメさではなく、何に対して誠実であろうとしているのか? そのことを一考するきっかけになれば幸いです。http://blogos.com/article/194806/再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える

まず、再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え から復習しよう:

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは  Aristotélēsの世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそuniverse に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
声明で述べたい主旨は ウィキペディアにおける天敵の項の説明のように、世は矛盾や複雑な利害関係で成り立っているということである:
自然生態系では、生物は食う食われるの関係でつながっている。ここで”食う”というのは、必ずしも捕食を意味するものではなく、寄生であっても、相手を殺す寄生になれば、それも含める。たとえば寄生蜂のような捕食寄生のものや病原体も含まれる。そのような生物を、食われる側の生物の天敵と呼ぶ。
実際の生物群集では、あるものを食う生物が一つしかないことは少なく、それぞれの生物は複数の天敵を持つ。ただし、食物網の高い段階のものでは、天敵種が少ないものも存在する。
生物群集では、これら食う食われるの関係が複雑に組み合わさって、各種生物の個体数は、長期的にはおおよそ保たれている。どれかの種が増えれば、それを捕食とする天敵が増加し、結果としてその種を減少させる力がそれまでより強まるからである。逆に天敵が増えすぎた場合も、捕食される生物の不足などの諸要因により数が抑制される。
人工的環境である農地では、人為的かく乱による天敵種数と個体数の減少により、害虫が大発生することがよくある。また、それまでそこにはいなかった生物(外来種)が進入した場合にも、天敵の不在により、外来種の大発生が引き起こされる可能性がある。
確かに 悪いことをする人がいなければ、多くの警察官や司法関係者は少なくて済む。 敵国の軍隊が弱ければ、自らの軍隊もそう増長する必要もない。 これらは 世の中は微妙なバランスの上に成り立っており、一面で判断したり、拘り過ぎたり、やり過ぎたりすることの危険性を述べており、 広い視野、バランス感覚の重要性を述べている。
一面の主張、行き過ぎに注意して、相手の立場や、逆の立場に思いを致して行きたい。総合的に判断する、世の流れを掴むような努力もしたい。

                                                                                                             
以 上
再生核研究所声明 1152013.4.26: 
枯れ木も山の賑わい ― 現状と存在に理由あり  

(2013.4.19.08:30  8時、宿舎を出る前に 新しい声明の題材が閃く, quatanion analysis を論じて興奮していた翌朝)
(枯れ木も山の賑わい: つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。)

この声明は一見何にもならない、無駄なようなものでも、意外に存在価値があるなどの所見を表現しょうとするものである。極論をすれば、何でも存在するものは それなりに価値が有るということ、存在する現状は それなりの原因が有って存在するということである。 現状を肯定、 まずは尊重すべきものではないだろうか。
悪も、不正義も、暗闇も それなりの理由が有って、存在しているということである。― ボストン・マラソンにおいて 卑劣なテロ事件が起きて、罪なき人を 無差別に巻き込むなど 理解できないのが 世の常識であろうから、その動機と真相、経過を徹底的に調べるべきである。― ここで、オバマ大統領が ビンラディン氏を裁判もかけずに しかも家族の前で公然と虐殺した事件を想い出し、家族の心情は 如何なるものであったかと 想いを巡らすのは当然である ― 公正の原則(再生核研究所声明1: 良い社会を作るには)(再生核研究所声明 61:ビンラディン氏殺害 ― アメリカの名誉と大義を傷つけた オバマ大統領)。
声明
再生核研究所声明 71:  菅 暗黒政権 を総括する
で、菅元首相の 貢献ある盟友 と 党の公約に対する 明確な背信行為を批判して来たが、それとて、菅氏にとってみれば、苦労の末、とうとう首相になれた 何とか権力を維持したい、また、首相になったら、国の状況はとてもやっていける状況ではなかったなどと、それなりの理由が有るのは当然である。しかし、菅氏と野田氏の上記背信行為が 嫌な感情を国民に与えてしまい、どのように弁明しても もはや信頼回復は 難しいのではないだろうか。 実際には そんなには悪意のあるものでは ないのではないだろうか。 残念である。世の中とはそのようなものではないだろうか。明智光秀にも、吉良上野介にも相手の身になれば、それなりのやもう得ない事情が有ったのではないだろうか。
組織には いわば、組織の落ちこぼれ組に属するような人がいるものである。ところがそのような人が 組織にいろいろ重要な役割をしているのは 世に多い。逆に、一様な組織こそ、偏り、変な方向に気づかずに走っている場合が世に多い。 このようなことは、多様性の重視、広い視点と幅を持たせることの重要性を示していると言えるだろう。
ニートなどと批判する世相、弱い者、貧しい者、悪者を厭う気持ちが世に有ると考えられるが、 逆にそれらの存在が人間社会を偉大な存在にして、いろいろな役割を果たしていることを積極的に発見して行きたい。優秀な人たち、美しい人たちだけでは社会は構成できず、 多様な人が居て、良い社会ができるのではないだろうか。全体的なバランスが 大事ではないだろうか。
いわば、負の部分にも価値を見つけ出し、大きな視野を持って、寛容な社会を志向したい。 白、黒ではなく、敵、味方ではなく、相手にもそれなりの立場があるという、広い見方である。
人生についても言える。 大事な時に、重病を患い、入院生活をやむなくされたが、それが反って、違った視点を与え 幅を持たせ、人生や、専門、仕事の上でも大いに良い影響を与えたことは 良く見られる現象である。ポルトガルでは 同性婚が法律で認められているが、これは出来るだけ、自由を尊重し、多様な在り様、世界を志向しようという意味で、その精神を高く評価したい。 独断と偏見で 単細胞的思考(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)に陥らないように注意したい、

以 上
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

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