蓮舫「与党の国民はどうせ忘れるだろうという姿勢は許したくない」
政府・与党の国会対応を、あらためて批判した。民進党の蓮舫代表は「強行採決したり、強硬な手法で、数の力で押し通しても、国民はどうせ忘れるだろうという姿勢は許したくない」と述べた。
蓮舫代表は5日、大阪市内で記者団に対し、TPP(環太平洋経済連携協定)の承認案を、衆議院の特別委員会で採決した与党などの対応を、あらためて批判した。
また、蓮舫氏は、山本農水相の不信任決議案について、「視野に入れている」と述べ、提出時期を探る考えを、あらためて示したうえで、ほかの野党とも、連携を図る意向を表明した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN003
蓮舫代表は5日、大阪市内で記者団に対し、TPP(環太平洋経済連携協定)の承認案を、衆議院の特別委員会で採決した与党などの対応を、あらためて批判した。
また、蓮舫氏は、山本農水相の不信任決議案について、「視野に入れている」と述べ、提出時期を探る考えを、あらためて示したうえで、ほかの野党とも、連携を図る意向を表明した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN003
再生核研究所声明84(2012.4.20)
国会審議における心得 - 討論、議論、批判における心得
国の最高機関である国会審議の様を見ていると、見るに堪えないような状況が有るので、意見表明し、また、世情における討論、議論、批判の在りようについても、自戒の念を込めて省察しておきたい。
まず、国の最高機関である国会は、国の在りようを決定する 国の最高機関であるから、国会審議、討論は 国家の在りようという視点を原点にして 行われるべきである。 ところが、政党政治では、批判のための批判、相手を攻撃して、政権を奪いとるのが 国会の場 と勘違いしているようにさえ見える有様である。 ひどい場合には いろいろ調べてきて、大臣や首相を国会の場で辱め 喜んでいる、得意がっている風潮さえ見うけられる。自分を売り込む場である、宣伝の場であると考えているようにも見える。 恥ずべきことである。膨大な国費をかけて、国の重要な公の場を 卑小な題材で、自己宣伝の場と考えられては、国民は堪えられないであろう。ところが、そのような浅ましい情景を喜んでいる大衆がいることも、また派手に、軽薄にも報じているマスコミの精神も情けない。
国益大事、国家のためには の精神 を徹底させ、そのような卑小なことを問題にせず、自ら選出した日本国の最高責任者を軽々しく批判せず、首相を助け、日本国を良くするために 首相、大臣たちに知恵を与えて、国家に貢献すべきである。よって、礼を弁え、国のために知恵を出し、日本国を代表する立場の首相、内閣を支えるべきである。 特に、自ら選出した日本国の最高責任者、首相は、日本国の国益を背負っている大事な存在であるから、首相に対しては アメリカ大統領など外国の元首以上の処遇で当たるべきである(再生核研究所声明73: 日本国首相の役割 参照)。
簡潔に纏めておこう:
1)自己や、政党の立場ではなくて、国家のための議論を行う。
2)批判ではなく、具体的に問題点を明らかにして、建設的な在り様を提案する。国に知恵を与える視点を重視する。
3)国の最高機関の構成員であることを自覚して、何時も国のためには、世界のためには の視点をもち、各論的な問題にとらわれない態度を保つように心がける。
世情における、討論、議論、批判における問題点を 次のように注意したい:
1)賛成派と反対派に分けたような色分けを行い、議論の背景や立場を無視して、一方的に あたかも敵、味方のように 有無も言わさず相手を批判するような傾向が有って、実りある議論になっていない状況が広く見られる。これを是正する。
2)上記国会審議と同様、良い国、良い社会を作るには どうしたらよいかの原点をしっかりと確認して、議論、討論、意見表明を、是是非非の立場、公正の原則の立場 から 行うべきである。
3)近年みられるのは、在るべき考えではなくて、利害関係で 特定の方向性を定めてキャンペーンを張っているような場面が多く、そのような立場は世に多いから、それはそれと理解して、対応して、自由な議論によって、実りある討論ができる相手か否かを見破らなければ、深入りの議論は 空しい議論に陥るであろう。
4) この観点において、第3者の立場の意見 を大いに参考,重視すべきである。
5) 特に批判する場合には、具体的な点を明確にして、きちんと理由を付けて、建設的な提案をするように心がけたい。
大局的には 視野が狭く、一面的、局所的、単細胞的な批判が多く 文化レベルの低さ、野蛮性を反映していると言える(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
討論、議論、批判は 多様な視点、在りようの意見を出し合って、より良い在りようを探り、視野を広め、文化を向上させ、より良い人生、社会を営めるようにするのが基本である。そのためには、真実を尊重、真理を追究し、良い意見を積極的に取り上げ、より良い社会を作るには どうしたらよいかの根本精神から、活かし またこのような精神を常に確認することが肝要である。折角のインターネットの世界、汚い、低級な罵りで汚したくはない。 進化した未来人の書く、世界史に耐えられるにしたい(再生核研究所声明83: 再生核研究所声明とは 何か; 再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判
)。
)。
そのためには、それらは、争いではなく、相手を論破したり、論戦で勝つなどの 卑小な精神を克服して、お互いに高め合って、人生、社会を楽しいものにしていきたいとの存念を擁くこと が大事である。
以 上
日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
ウイキペディアより:
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:
再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。
作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:
再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上
再生核研究所声明307(2016.06.22) 見かけ、表装と内実、実質
相当に高級な内容を記述しようと発想したのであるが、表現が難しいことに気づいた。そこで、表現し易い例で解説を始めよう。
選挙や代表者の投票などでは、どうしても格好の良さや感じの良さに惹かれて投票してしまう例が多いのでは ないだろうか。性格や感覚的な好みに惹かれるからである。ところが投票される者には特別な役割があって、その役割を果たすのに適任か否かを判断するのが 本来投票のあるべき姿であるとも言える。まさか、スポーツの代表選手の選出に 格好の良さや、感じの良さで選出することはないだろうが、政治家の選出などでは相当にちぐはぐになる、判断する場合は多いのではないだろうか。タレント候補者などで、本当に着く職務を果たすのに適任者か否か大いに疑問が湧く場合が多いのではないだろうか。分かり易い例として スポーツの監督者や解説者と 現役時代の実績の関係など、本来異なる才能ではないだろうが、混同してしまう傾向があるのではないだろうか? 学術の世界でも、創造的な業績をなしたものと、評価できる能力には異なる面があるのではないだろうか。芸術の世界でも、そのような観点で考察する必要があるのではないだろうか。いろいろな 権威の基 についても考察を深めることが大事ではないだろうか。この観点では、投票で、民主的に考えるも基本的な問題を抱えていると言える。良い政策か否かを素人集団で ただ投票で決めれば良いは本質的な問題を抱えていると考えるべきである。
表装と内実と捉えると、世の多くの問題に、問題を普遍化できる。現れた情報で、内実を推し量る、判断するからである。現れた情報には意図的に作られたり、歪められたり、虚偽に演じられたりする場合は多い。演出と実際、現実の乖離を心配している。
現在は、評価、評価と 賑やかであるが、評価に客観性を与えようとして、多くを数値化する傾向が強いが その数値化が評価の実態を上手く表現しているかは 大いに問題ではないだろうか。 それで、 いろいろなランキングの公表の 世界的な風潮には 大いに警戒したい。実際と現れたものの乖離、本末転倒のような現象が 世に多く現れているのではないだろうか。少し、時代が経てば、愚かなことをしていたとなりかねないことが多いのではないだろうか。
この声明の趣旨は 表装と内実の観点から、上辺だけに気を取られないで、本来のことに思いを致そうということである。見かけに囚われないように気をつけようということである。本末転倒の現象や、見かけと実質の乖離を見出して、判断や観測能力を高めたい。軽薄な世相にならないように気を付けたい。
物事の本質を見るようにしよう、本来のあるべき姿を求めていこう。もともとの在るべき姿、存り様を追求して行こうと纏められるだろう。初心や初期の精神を尊重したい。
以 上
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