伊藤 敏雄
大学入試センター試験の廃止。単純にマーク式の問題が記述式に変わるという形式の変更にとどまらず、もっと大きな変革を迎えているのです。意外と知られていないその真相とは?
センター試験廃止でどうなる大学入試?
2020年度から大学入試センター試験が廃止され、新たな試験「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が導入されることが決まっています。また、高校2、3年生を対象として実施される「高等学校基礎学力テスト(仮称)」は、高校で習得した基礎的な内容を測るもので2019年度から導入の予定です。
前者は、東大や京大といった旧帝国大学、早稲田大や慶応義塾大といったいわゆる難関大学と呼ばれる大学の入学者を対象としたもので、後者は、高校を卒業する者を対象としていると考えられます。
こうした改革を行う背景にあるのは、まず、現在の大学入試制度の限界です。これからの時代、知識詰め込み型の勉強だけで対応できる入試ではなく、思考力を問う入試のあり方が問われます。しかし、現在のマーク式の大学入試センター試験ではそれに対応するのが難しいのです。
また、私立大学の学生の約半数が推薦入試と呼ばれる入試を経て入学していることも問題です。推薦というと優秀な学生ばかりが集まるようなイメージがありますが、実際は大学の定員を埋めるための方便として使われています。その結果、実質無試験でパスできてしまい、基礎基本の学力に課題のある学生がキャンパスにあふれている、そんな大学も珍しくなくなりました。
こうした入試の問題点もさることながら、実はもっと重要なことが背景にあります。
前者は、東大や京大といった旧帝国大学、早稲田大や慶応義塾大といったいわゆる難関大学と呼ばれる大学の入学者を対象としたもので、後者は、高校を卒業する者を対象としていると考えられます。
こうした改革を行う背景にあるのは、まず、現在の大学入試制度の限界です。これからの時代、知識詰め込み型の勉強だけで対応できる入試ではなく、思考力を問う入試のあり方が問われます。しかし、現在のマーク式の大学入試センター試験ではそれに対応するのが難しいのです。
また、私立大学の学生の約半数が推薦入試と呼ばれる入試を経て入学していることも問題です。推薦というと優秀な学生ばかりが集まるようなイメージがありますが、実際は大学の定員を埋めるための方便として使われています。その結果、実質無試験でパスできてしまい、基礎基本の学力に課題のある学生がキャンパスにあふれている、そんな大学も珍しくなくなりました。
こうした入試の問題点もさることながら、実はもっと重要なことが背景にあります。
キーワードはGとL
まず、新しい大学入試の背景にあるのは、2020年度から施行される新しい学習指導要領です。そこでは、「社会に開かれた教育課程」を理念として大きく掲げられています。これは、学校を取り巻く様々な人や組織と連携して、社会とつながった教育のあり方を目指すことを意味します。ごく簡単に言ってしまえば、「受験のための勉強ではなく、社会とつながりの中で社会人になるための勉強を重視する」ということです。
そこで、まず文部科学省は、スーパーグローバル大学として、東京大学を始めトップ大学を指定しています。また、それに続く大学としてグローバル大学牽引型と呼ばれる大学も指定しています(リンク→スーパーグローバル大学創成支援)。
文科省がねらいとしているのは、大学の国際化を通して、GoogleやAppleのように世界で通用するグローバルリーダーの育成にあるのです。そこで、グローバルのGが一つのキーワードとなるでしょう。
では、そうでない大学はどうあるべきなのでしょうか。
日本経済を支えているのは大企業と思われがちですが、少なくとも製造業にとっては地方の町工場の技術なくしてモノづくりはありえません。また、現在、地方の産業の中心はサービス業ですが、これら地方経済の発展なくして日本経済の成長はありえないのです。
また、少子高齢化にともない人口減少社会や、地方の過疎化・都市部への集中という二極化の問題と、今後の日本の課題は山積みです。
こうした問題を解消するには、いかに地方を元気にするかが重要になってきます。この地方を活性化するのに欠かせないのが、もう一つのキーワードL=ローカルな視点です。
そこで、まず文部科学省は、スーパーグローバル大学として、東京大学を始めトップ大学を指定しています。また、それに続く大学としてグローバル大学牽引型と呼ばれる大学も指定しています(リンク→スーパーグローバル大学創成支援)。
文科省がねらいとしているのは、大学の国際化を通して、GoogleやAppleのように世界で通用するグローバルリーダーの育成にあるのです。そこで、グローバルのGが一つのキーワードとなるでしょう。
では、そうでない大学はどうあるべきなのでしょうか。
日本経済を支えているのは大企業と思われがちですが、少なくとも製造業にとっては地方の町工場の技術なくしてモノづくりはありえません。また、現在、地方の産業の中心はサービス業ですが、これら地方経済の発展なくして日本経済の成長はありえないのです。
また、少子高齢化にともない人口減少社会や、地方の過疎化・都市部への集中という二極化の問題と、今後の日本の課題は山積みです。
こうした問題を解消するには、いかに地方を元気にするかが重要になってきます。この地方を活性化するのに欠かせないのが、もう一つのキーワードL=ローカルな視点です。
同じサービス業でもグローバルな視点とローカルな視点が必要
例えば、同じバス会社でも観光バスと地方の路線バスでは、戦略は異なります。観光バスは外国人観光客をいかに呼び寄せ、売り上げ増につなげるかがポイントです。そういう点でグローバルな視点が必要です。
一方で、地方の路線バスは、そのようなグローバルな視点はあまり重要ではありません。地域のインフラとして、地域に密着したサービスの提供が重要なのです。そういう意味でローカルな視点が重要となってきます。
こうした社会構造に合わせて、大学のあり方もグローバルな大学とローカルな大学に二分化する必要があるというのが文部科学省の考えのようです。
一方で、地方の路線バスは、そのようなグローバルな視点はあまり重要ではありません。地域のインフラとして、地域に密着したサービスの提供が重要なのです。そういう意味でローカルな視点が重要となってきます。
こうした社会構造に合わせて、大学のあり方もグローバルな大学とローカルな大学に二分化する必要があるというのが文部科学省の考えのようです。
大学は研究者を養成する機関?
学校教育法によると、「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」とあります。一言で言ってしまえば、大学は学問を学び、研究する場なのです。
ところが、今や大学進学率は50%を超えています。2人に1人が研究者を目指すということはあり得ないでしょう。この点からも大学のあり方が時代に沿わなくなっていることがわかります。
そこで、グローバルな大学は、これまでと同じように学問的(アカデミック)志向が強いものに変わりありませんが、ローカルな大学は就職に直結する実学的な志向が強くなると考えられます。
実学志向とは、大学で学びながらも、地域や地元の企業と協働しながら、社会人として必要な素養(知識や技能)を身につけていくことです。例えば、プレゼンソフトや表計算ソフトが使えることはもちろん、ビジネスマナーから技術者としての最低限のスキルまで。これからの大学教育は、新卒であってもある程度、社会人として即戦力として働くことができる力を身につけることが重視されるのです。
折しも、2016年10月3日付の日経新聞では「ヤフー、新卒一括採用を廃止 30年未満は通年」という記事が掲載されました。これからは、新卒の学生が、今までどこかの企業で働いていた転職組と、同じレベルで就職活動をしなければならなくなることを意味しているでしょう。
ところが、今や大学進学率は50%を超えています。2人に1人が研究者を目指すということはあり得ないでしょう。この点からも大学のあり方が時代に沿わなくなっていることがわかります。
そこで、グローバルな大学は、これまでと同じように学問的(アカデミック)志向が強いものに変わりありませんが、ローカルな大学は就職に直結する実学的な志向が強くなると考えられます。
実学志向とは、大学で学びながらも、地域や地元の企業と協働しながら、社会人として必要な素養(知識や技能)を身につけていくことです。例えば、プレゼンソフトや表計算ソフトが使えることはもちろん、ビジネスマナーから技術者としての最低限のスキルまで。これからの大学教育は、新卒であってもある程度、社会人として即戦力として働くことができる力を身につけることが重視されるのです。
折しも、2016年10月3日付の日経新聞では「ヤフー、新卒一括採用を廃止 30年未満は通年」という記事が掲載されました。これからは、新卒の学生が、今までどこかの企業で働いていた転職組と、同じレベルで就職活動をしなければならなくなることを意味しているでしょう。
受験生はどうすればよいのか?
学歴の経済学。どんな大学へ行っても将来の収入にほとんど変化がないように、今、教育投資が問題になっています。学歴を経済学的な視点でみると。
では、受験生はこうした変化に対してどのように対応すればよいのでしょうか。まず、高卒よりは大卒の方がよい企業へ就職できるという幻想を捨て去ることが重要です。
そして、将来、自分がどんな分野で働きたいのか、そのためにどんなノウハウを身につけなければいけないのかを考えた上で、進路選びをすることが大切になってきます。仮に、それが高卒で十分可能な分野であれば、何も大学進学にこだわらなくてもよいのです。
逆に、特定の分野に関心や強みがある人は、例えば、建築業界で働きたいのなら物理や建築学を、IT業界で働きたいのならば統計学やプログラミングなどを、これらが学べる大学へ進学してその業界で働ける知識やスキルを在学中に身につける必要があります。
また、大学入試も画一的なペーパーテストから、各大学のアドミッションポリシーに基づく多面的な評価方法(面接や小論文など)へと変わります。これまでの詰め込み型の勉強ではとうてい太刀打ちできなくなります。
つまり、今まで以上に大学へ入るための勉強ではなく、大学に入って何をしたいのか、そして大学を出た後、「自分は何をしたいのか」「自分はどうありたいのか」という目的意識を持って学ぶことが重要になってくるのです。
そのためには何をすればよいか。教科書に載っていることはもちろん、自ら考えて自ら行動する力やコミュニケーション力など教科書に載っていないことを主体的に学ぶこと、まさにアクティブラーニングが重要になってきます。
■参考図書
・「親なら知っておきたい学歴の経済学(西川純著、学陽書房)」
そして、将来、自分がどんな分野で働きたいのか、そのためにどんなノウハウを身につけなければいけないのかを考えた上で、進路選びをすることが大切になってきます。仮に、それが高卒で十分可能な分野であれば、何も大学進学にこだわらなくてもよいのです。
逆に、特定の分野に関心や強みがある人は、例えば、建築業界で働きたいのなら物理や建築学を、IT業界で働きたいのならば統計学やプログラミングなどを、これらが学べる大学へ進学してその業界で働ける知識やスキルを在学中に身につける必要があります。
また、大学入試も画一的なペーパーテストから、各大学のアドミッションポリシーに基づく多面的な評価方法(面接や小論文など)へと変わります。これまでの詰め込み型の勉強ではとうてい太刀打ちできなくなります。
つまり、今まで以上に大学へ入るための勉強ではなく、大学に入って何をしたいのか、そして大学を出た後、「自分は何をしたいのか」「自分はどうありたいのか」という目的意識を持って学ぶことが重要になってくるのです。
そのためには何をすればよいか。教科書に載っていることはもちろん、自ら考えて自ら行動する力やコミュニケーション力など教科書に載っていないことを主体的に学ぶこと、まさにアクティブラーニングが重要になってきます。
■参考図書
・「親なら知っておきたい学歴の経済学(西川純著、学陽書房)」
知りませんでした:
再生核研究所声明329(2016.10.31) 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
近年、センター試験、大学受験制度のいろいろ改革が考えられていることは、大学入試が教育界に大きな影響を与え、さらに、児童、生徒の人間形成上でも大きな影響を与える事実から、絶えざる改革は歓迎されるべきことである。これらの課題には永遠の問題を内在させているという意味で、より良い方法を模索して行くべきである。特に在り様を固定化すれば、必ず弊害が出てくる観点にも気を付けたい。入試の在り様はそのように大きな問題であるから、ここでは、主に、大学側、中規模の大学の試験業務を行う立場から、試験関係の業務軽減の立場の視点から、入試の在り様の議論の際に 気を付けて欲しい観点として 意見表明しておきたい。
共通試験やセンター試験後の特徴は 入試を2回行うことで、入試業務が増大し、他の様々な入試と法人化後はさらに、研究・教育業務以外の業務が極端に増大して、年中振り回されるような雰囲気に大学がなってしまったことである。近年、ノーベル賞受賞者が増大している状況からも分かるように日本の学術レベルの高度化は高く評価されるが、それは、20年、30年前の体制の成果である点を忘れるべきではないのではないだろうか。近年大学の環境の悪化はひどいもの、惨憺たるもので、憂慮している。時間的、資金的余裕を取り戻し、教育・研究に楽しみながら、当たれるような大学の在り様を志向したい。
入試は一身上の大事であり、その判定に携わる者の心理的な圧迫は大きく、大学教員の最も嫌な仕事に当たるのではないだろうか。 そのような業務を繰り返されては、教育・研究どころではない心理状態になってしまう。
入試の原理は、人間の能力は簡単に評価できるものではないと考え、入試は便法として簡素化すべきである。ある種の基準で輪切りにするような在り様も良くなく、ある程度のばらまきも人材の配置、多様化の精神で大事ではないだろうか。― 同じような人を過剰に集めれば、そのような組織は変な組織になるのではないだろうか。― この精神は尊敬する人物の言葉として印象深いが、富士山型より峯が乱立する八ヶ岳のような在りよう が良いと表現される。
他方、児童・生徒の立場に立てば、永い、過剰な受験勉強は修行の面があっても、やり過ぎ、不適当な学習の集中しすぎで、教育本来の理念からの乖離は、相当に広く認識されている状況ではないだろうか。
例えばポルトガルでは、大学入試業務は、高校で全国レベルの試験を行い、大学は提出された書類で選考するだけであるから、入試業務が殆どなく、大学は入試業務から解放されていると言える。― さらに、例を挙げると8月1ヶ月間は大学閉鎖、8月は大学の暦に無く、7年目毎、1年間のサバーティカルライトで一切業務無しであるから、凄い。
そのような観点からすると、日本でも主な入試は各大学ではせいぜい年1回くらいに限るべきではないだろうか。入試業務の軽減化、縮小化を強く求めたい。
具体的には、センター試験作成機関を活かして、各大学で行う2次試験の在り様を検討すべきではないだろうか。論説・記述方式・面接など問題とされているが、採点する立場からすれば、評価は難しく、荷重な業務であるから、センター試験問題の作成において、大いに工夫を考えての対応が良いのではないだろうか。 センター試験が細々とした知識の寄せ集めや、パターン化した問題解きの問題にならないような注意が大事ではないだろうか。時間に追われるような在り様も問題ではないだろうか。これらに関しては、問題を精選したり、試験時間を十分伸ばすことも考えられる。知識より考える力、創造性などをみる試験の在り様を考えて行きたい。当然、入試とは何かと関係者は、絶えず問うべきである。
論説・記述方式の客観的な評価は難しく、本質的な問題を抱えていると考えられる。そのような観点から面接で差を付けるようなことは 実際にはできず、機能しないのではないだろうか。― 他方、人事採用などでは、面接は大きな影響を与えていると考えられる。これらの差は、評価を受けるものの数、人数が影響しているのではないだろうか。― この節の問題は、言わば感覚的な評価を取り入れるべきか否かという問題であるが、画一的に数字で評価が出る方式に対して、入試に柔軟性とある種のランダム性、多様性を取り入れる観点から、検討するに値する考えとも思われるが、評価は極端に荷重になる。
ここで述べようとしたことは、入試業務の軽減化、入試の簡素化、入試があまりにも細かい評価をしないような多様な視点を持ちたいということである。教育は大事であるから、再生核研究所では、次のようにいろいろ意見を表明してきた。ここで述べられたことの逆のような見解もあるが、 それは、入試の在り様の問題には、いろいろな視点、在りようがあり、全体的で総合的なバランスが 大事であるということである。
再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に
再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17: 教育界の改革を求める
再生核研究所声明20: 大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16): 教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27) 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明187(2014.12.8) 工科系における数学教育について
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い,そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明327(2016.10.) 数学教育についての提案
以 上
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
以 上
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