「もう遺骨はいらない」火葬場にまかせる“ゼロ葬”とは?
総額10万円台の「格安葬儀」が登場したかと思えば、お坊さんの読経もネットで注文できる時代となり、都心には遺骨の「高級マンション」とも言える納骨堂のビルが立つ。いずれ向き合う日が訪れる、弔う側、弔われる側のわれわれが納得できる逝き方とは。
多様化が進む“逝き方”の中でも、一つの究極の形と言えるのが、宗教学者の島田裕巳氏が提唱する「ゼロ葬」である。
このゼロ葬、火葬場で焼いた遺骨を遺族が受け取らず、遺骨の処理は火葬場にまかせる。これにより遺族は、墓探しや納骨を巡るわずらわしさから解放されるというのだ。
それにしても、この想像を超えるスタイルは、世の中に受け入れられるのだろうか。島田氏はこう説明する。
「私が提唱する以前から、『ゼロ葬』は一部で行われていたはずです。日本人の中で『先祖』という概念が廃れてきており、○○家の墓といっても、知っているのはせいぜい祖父母まで。『先祖供養』の場である墓も不要となりつつある。遺骨を電車の網棚に放置する『遺骨遺棄』が実際に起きているのも、日本人の考え方が変わっている象徴的な事例です」
実際には、遺族が遺骨を受け取ることを原則としている火葬場が多いが、地域によっては希望に応じてくれるところもあるという。
「西日本では、遺骨の一部しか遺族に渡さない『部分収骨』が一般的で、比較的、『ゼロ葬』に応じてくれる火葬場が多い傾向がある。関東でも一部で応じてくれることがあります。『ゼロ葬』をプランの一つにしている葬儀会社もあります」(島田氏)
島田氏によれば、そもそも日本人が現代のようなお墓のスタイルを確立したのはごく最近になってからなのだという。
「戦前までの日本では、土葬が一般的。立派な石塔などを建てるのは上流階級だけで、庶民の遺体は棺おけに入れて土に埋められた後は墓碑などはなく、実質的に捨てていた。代わりに、菩提(ぼだい)寺の位牌(いはい)堂に納められた位牌を拝んでいたんです」(同)
戦後になると、都会では郊外に墓を建て、マイカーに乗って家族でお墓参りに行くというスタイルが普及した。
だが、これはマイカー文化が生んだ一種のレジャーでもあり、核家族化やマイカー離れが進んだ現代のライフスタイルにも合わなくなってきたという。
「今のお墓のスタイルは意外と根が浅く、日本人の歴史全体の中では、熱心にお墓をつくりすぎていた時代とも言えます。今後、お墓にまつわる形が変わっていっても不思議ではありません。葬儀の簡素化も同じ。戦後の企業文化の中で『社葬』が流行し、葬儀が大規模化したが、今や企業も変わり、かつてのような濃密な人間関係はなくなった。ライフスタイルの変化とともに、葬送の形も変わっていくのです」(同)
https://dot.asahi.com/wa/2016092300111.html
多様化が進む“逝き方”の中でも、一つの究極の形と言えるのが、宗教学者の島田裕巳氏が提唱する「ゼロ葬」である。
このゼロ葬、火葬場で焼いた遺骨を遺族が受け取らず、遺骨の処理は火葬場にまかせる。これにより遺族は、墓探しや納骨を巡るわずらわしさから解放されるというのだ。
それにしても、この想像を超えるスタイルは、世の中に受け入れられるのだろうか。島田氏はこう説明する。
「私が提唱する以前から、『ゼロ葬』は一部で行われていたはずです。日本人の中で『先祖』という概念が廃れてきており、○○家の墓といっても、知っているのはせいぜい祖父母まで。『先祖供養』の場である墓も不要となりつつある。遺骨を電車の網棚に放置する『遺骨遺棄』が実際に起きているのも、日本人の考え方が変わっている象徴的な事例です」
実際には、遺族が遺骨を受け取ることを原則としている火葬場が多いが、地域によっては希望に応じてくれるところもあるという。
「西日本では、遺骨の一部しか遺族に渡さない『部分収骨』が一般的で、比較的、『ゼロ葬』に応じてくれる火葬場が多い傾向がある。関東でも一部で応じてくれることがあります。『ゼロ葬』をプランの一つにしている葬儀会社もあります」(島田氏)
島田氏によれば、そもそも日本人が現代のようなお墓のスタイルを確立したのはごく最近になってからなのだという。
「戦前までの日本では、土葬が一般的。立派な石塔などを建てるのは上流階級だけで、庶民の遺体は棺おけに入れて土に埋められた後は墓碑などはなく、実質的に捨てていた。代わりに、菩提(ぼだい)寺の位牌(いはい)堂に納められた位牌を拝んでいたんです」(同)
戦後になると、都会では郊外に墓を建て、マイカーに乗って家族でお墓参りに行くというスタイルが普及した。
だが、これはマイカー文化が生んだ一種のレジャーでもあり、核家族化やマイカー離れが進んだ現代のライフスタイルにも合わなくなってきたという。
「今のお墓のスタイルは意外と根が浅く、日本人の歴史全体の中では、熱心にお墓をつくりすぎていた時代とも言えます。今後、お墓にまつわる形が変わっていっても不思議ではありません。葬儀の簡素化も同じ。戦後の企業文化の中で『社葬』が流行し、葬儀が大規模化したが、今や企業も変わり、かつてのような濃密な人間関係はなくなった。ライフスタイルの変化とともに、葬送の形も変わっていくのです」(同)
https://dot.asahi.com/wa/2016092300111.html
再生核研究所声明225(2015.4.23)偉大な数ゼロ ―ゼロの教え
(最近、急に気に成り出した心境で、本声明は 1種の悟りの心得に通じるので、概ね退職された人向きと言える。)
ゼロ除算の結果は、直角双曲線関数 y=1/x の原点における値が ゼロであると言っている。それは、まるで、原点でゼロが正の量と負の量に 爆発して双方に広がっているようである。その様は現代物理学の学説、ビッグバン、すなわち、宇宙はあるとき、無から爆発によって突然現れ、その爆発の続きが続いているという。 無からの発生は、プラス、マイナス、とで合わせてゼロで、無からの発生はおかしいとも言えないという。これは、全体としてゼロとして釣り合っていることを意味する。universe が全体として ゼロとして釣り合っているということは 奇妙にも我々の心に響くものがある。
苦労しただけ、喜びが湧くのでは?
明るい面があるだけ、暗い面があるのでは?
ゼロは基準値であり、長命な生物も短命な生物も、 長命な人生も、短命な人生も同じようなものではないだろうか?
幼いころ、麦畑の上でひばりのさえずる情景を見たのを想い出す。 飛び立っては天高くまい上がり、やがて巣に戻る。 地平ゼロから始まって地平ゼロに帰する。永くさえずっていても、短くても結局同じではないか。 人間も誕生して、結局は元に戻る。結局、みんな同じようではないだろうか。 人生の長短など本質的には問題では無くて、みんな同じようではないだろうか。 ゼロから始まってゼロに帰する、ゼロとは そのようなものではないだろうか。
他方、ゼロ除算の複素版は、平面上では どのような方向でも どんどん原点から遠ざかれば、無限遠点の1点に行くが、 その無限遠点は、突然、原点に戻っている ことを述べている。これは結局のところ、ゼロから始まってゼロに帰すること、すなわち、元に戻る universe の原理を教えているのではないだろうか。
本声明は、ゼロの心境が大事なこと を述べている。
また、始めが大事であること を述べている。
以 上
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10): 政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上
再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界
ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:
再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:
再生核研究所声明 56: アースデイ の理念
発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上
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