数学に魅せられた若者たちの青春物語〜王城夕紀『青の数学』
じゃあ、この夏がんばったことをひとりずつ聞かせてもらおうかな? まずきみから。そう、サッカー! 真っ黒に日焼けしてるもんね〜、大会がんばってね。次、あなた。ああ、吹奏楽。コンクールに向けて? 充実した夏だったみたいだね。では、隣の彼。なるほど、バイトね。コンビニで。いい社会勉強になったでしょう。それじゃ、そこのきみは? そう、数学…、え、数学!?
最初にお断りしておきたいのは、上の会話調の記述は完全にイメージであり、数学を愛する方々を揶揄するような意図はまったくないということである。ただ、やはりサッカーや吹奏楽やバイトに比較すると、数学は夢中になる対象としては一般的でないのではないかと考える。しかし、もちろん数学に魅せられる人々は何人もいる。そして数学に魅せられる人々に魅せられる人もいる。そうでなければ、『博士の愛した数式』(小川洋子/新潮文庫)や『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン/同)や『理系の子 高校生科学オリンピックの青春』(ジュディ・ダットン/文春文庫)があんなにも読者の心を打つことはないだろう。
本書は数学に魅せられた若者たちの物語。いや、ここは正確を期そう。厳密に言うなら、若くない者もいるし、数学を大の苦手とする者もいる。しかし、登場人物たちは何らかの形で数学に引きつけられている人物ばかりだ。数学を心から愛している者、たまたま数学が得意分野だったためその道を極めようとしている者、反発を覚えながらも問題を解かずにいられない者…。
主人公・栢山はあまり深く考えていないように見える者。かなり早い段階で頭角を現していたが、その才能は教育されることも逆に歪められることもないままに保たれていた。小学生の頃通っていた数学教室の柊先生(「キフユ」というあだ名で呼ばれていた。「柊」を「木」と「冬」に分けて読んでいるということか)から、高校生になったら再び訪ねるようにと言われていた九十九書房には、現在は先生の教え子だった十河が。十河は数学に関する知識が圧倒的に不足している栢山に次々と課題を出す。
十河からの最初の課題は「E2」での決闘だった。「E2」とは、謎を意味するエニグマと発見を意味するエウレカ、そのふたつのEをとって名づけられたネット上の場所。開設したのは、「数学のノーベル賞」とも言われるフィールズ賞を受賞した日本人、夜の数学者だ。日本の数学力を世界に匹敵するものに押し上げたいという理由で設けられたこのサイトの大きな特色は、集う若者たちが数学で決闘すること。初の決闘で大敗を喫したにもかかわらず、「解きたい問題が、解けた」と晴れ晴れとした表情を見せた栢山が解いたのが、「E2」に集まる中高生に向けて作られた難問「一ノ瀬の十問」(いまだ誰にも解かれていないものも含まれる)のうちのひとつだった。その少し後、「E2」に京香凜という人物から彼への書き込みがなされる。京香凜とは、2年連続で国際数学オリンピックに出場しその2年とも金メダルを受賞したという、半ば伝説のように語られる人物。実は栢山は今年の数学オリンピック予選直前に彼女と顔を合わせていた。そして、ふたりは賭けをしていた。「数学が、やり続けるに値する暇つぶしか、そうでないか」という賭けを。
栢山のように迷いの少ない登場人物ばかりではない。自分のとるべき道はこれでいいのか、と悩みながら進んでいる子たちも多い。それでも、問題が存在するなら解かずにはいられないという点で、彼らは共通している。私と同じようなゴリゴリの文系人間には、作中に登場する数学の問題や専門知識についてはほぼまったく理解できないと思う。けれど、それらが美しく人生を賭けるのに値するものであることは、おぼろげにではあるがわかるのだ。苦手意識を超えて、数学に心ひかれる気持ちには共感しづらいという気持ちもいったん置いておいて、ぜひ読んでみていただきたい。栢山が真に数学に目覚めた春と、同じ志を持った若者たちと合宿した夏の日々を。
著者の王城夕氏は、2014年に「天の眷族」でC★NOVELS 大賞特別賞を受賞。同作を『天盆』と改題してデビュー。シリーズ第2作は、2016年10月末に刊行予定とのこと。朗報!
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿