「「0÷0=」を実行すると「エラー」になる理由」を見て割り切れない気持ちを抑えられない理由
やはりblogにも書いておこう。SNSだけでは割り切れない気持ちが抑えられないので。
「計算機」アプリに限らず起こるもの。このように「0」で割ることを「ゼロ除算」と言い、割られる数をxとすると「x/0」と表すことはできるものの、これが何の値と結びつくのかは現時点で数学的に定義されていないため「成立しない」とされている。計算機などで「0」で割ると「エラー」と表示されるのはそういった理由からだ
違う、違うんだ。
数学は定義してないから成立しない、んじゃないんだよ。
数学できちんと除算を定義した結果、その定義の中にゼロ除算がどうしても収まらないから「未定義」というより「定義不能」になったの。
ここで除算を定義しておく。
- 三つの数 x, y, z があって、
- この三つの数は x × y = z という関係にある時、
- z ÷ y = x となる演算÷のことを、除算と呼ぶ。
ゼロ除算とは、y = 0。ところがこれを条件bに当てはめると、x × 0 = 0 になってしまうので、そこだけ注目するとxはどんな数でもよくなってしまう。しかしさらに = z の方に注目してみると、zが0以外の場合 = が成り立たなくなってしまう。「どんな数でもOK」は「数」ではないし、「そんな数ない」も「数」ではない。
条件aの「数」を「数と数っぽいけど数ではない±∞という値」と少し拡張すると、zが0以外の場合のゼロ除算も定義できはする。この場合 z > 0 なら z ÷ 0 = +∞, z < 0 なら -∞ という具合に。詳しくは リーマン球面 とか参照してもらうとして、「「0÷0=」と質問したときと「○(0以外の数字)÷0=」と質問したときで異なる」理由が、これ。
しかし∞をもってしても、0 ÷ 0 はやっぱり定義できない。というより、無理やり定義してしまうと今度は÷の定義が壊れてしまう。
でも久しぶりに記事を書いた理由は、本当の数学者たちの発見の劣化コピーを繰り返すことではない。
「数学者が定義していないから」という不当かつ不誠実な態度に割り切れぬ気持ちを抑えられないことを表明しておきたかったからだ。
これら数字の概念や定義は人間が発明したが、まだ全てが定義付けられ解明されているわけではない。今後この概念や定義がどう崩れ、どう変化していくのか
数学者たちは、発明しない。
数学者たちは、発見する。
彼らが見つけた真理は、彼らがそれを見つける以前どころか人類が存在する前から存在していたはずなのだから。
それを「発明」と呼ぶのは、数学者たちの誠意に対する愚弄ではないか。
「数学者が定義していないから」で納得するという態度には既視感がある。「教師に教わるまで」「3x5≠5x3が正しい」とする姿勢がそれだ。
「3x5≠5x3」のダメなところ、それは何より、それが教える側の都合の一方的な押しつけになっていることだ。あたかも「教える」の非可換性は絶対であるかの主張である。
こういう教え方を繰り返すとどうなるか?
ほとんどの子は、自ら正解を探すのではなく、教師に答えを求めるようになる。それは教師に答え合わせしてもらわないと安心できないところまで続く
「数学は自由だ」というのは「無限」にも「大小」があることを発見したカントールの魂の叫びだったか。そんな自由人たちを権威とし、敬して遠ざける態度は慇懃にして無礼と言わず何と言えばいいのか。
これがまだ「3x5≠5x3」を押し付ける教員や教材であればまだ受け入れられずとも納得はする。しかしこれがIT Mediaという媒体に「よく調べたでしょエッヘン」とばかりに寄稿されるともなると看過しがたい。数学者でなくともプログラマーにはなれるが、しかし数学者でもないプログラマーだって除算は使うし使うどころか実装することだってある。数学から見れば「一番小さな無限」である「自然数の個数」よりはるかに窮屈な計算機の上で、ほとんどの場合において z / y ≒ x に過ぎない、数学者から見れば噴飯物の、しかし制約を理解した上であれば数多の問題を解決するに足りる「除算」を。
それにしても権威から自由な人ほど、不自由な人々から権威と崇められ、敬して遠ざけられるのはなぜなのだろう。「私の権威に対する軽蔑を罰するために、運命は私を権威にしてしまった」と嘆いた人にちなんで、「アインシュタイン・パラドックス」と呼びたいところだけど、もう埋まっちゃってるんだよな…。
でもこの「パラドックス」を成立させている責任は、自由人たちにもいくばくかはある。不自由な人々が常日頃は敬して遠ざけている課題を彼らが中途半端に取り上げるだけで、「やっと興味を示してくれた」とばかりはしゃいでしまう。「間違ってるけど興味を示してくれただけで御の字だ」という態度も、もしかして言葉を尽くせば本当にわかってくれた可能性を敬遠してしまったという点では不誠実だという誹りは避けられない。しかし誠実であればあるほど、それにともなうウザさゆえにますます遠ざけられてしまうというのも、ゼロ除算より割り切れない現実。一体どうしたものかね…
Dan the Indivisiblehttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51983144.html
再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
以 上
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
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