センター試験後継の新テストに「国語」の記述式問題を導入したときに起こる惨状 - 日比嘉高研究室
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Ⅰ 最初の確認
確認A 同じ「国語」でもセンターとは出題の形式が大きく違う可能性
文科省の資料を読んでいる中で、新テスト(センター試験に代わるものとして検討されている共通テストのこと)の「国語」についての「記述式問題イメージ例」を見つけました。高大接続システム改革会議「最終報告」(平成28年3月31日)の参考資料として付されていたものです。全体像はリンク先pdfの66枚目から読むことができますが、部分のみ画像で下に示します。
現在の一般的な記述式の「国語」の出題とは、かなり違っていることがわかると思います。多くの大学入試の「国語」の問題が、長文の評論などを読解した上で、その内容の正確な把握にもとづいた要約的な解答の提出を求めているのに対し、これは複数の文章や図表、グラフを読解し、それらを総合的に突き合わせ、異なった角度から見解を示すことを求めています。
これは、「国語」という教科で養成しようとしている力が、変化している(変化させようとしている)ことに由来します。上記の「たたき台」を出したのが、「高大接続システム改革会議」であることからわかるように、高校の指導内容と、大学入試の形式と、大学の入試選抜・教育・学位授与ポリシーとを、文科省は一体的に変化させようとしているのです。
確認B 国語の採点には「ゆれ」がつきもの
国語の記述式の採点は、難しいです。難しい最大の理由は、長文の解答文を評価しなければならないことに由来します。一般的な採点の方法は、おそらく次のようにされています。
(a) 部分点の積算 + (b) ミスの減点
50文字なら50文字の解答文のなかに、答えるべき要素(出題文から読み取る)が2つとか3つとかあります。まずそれが確実に含まれているかどうかが、(a)。ただし、この「含まれ方」にグラデーションが存在しえます。含んで欲しい情報量を完全に網羅している解答から、部分的に欠落している解答、まったく不足している解答まであります。
そして解答文は、ミスを含みます。テンパった受験生が時間に間に合わせようと必死で書く解答です。誤字脱字。テニヲハの間違い。文章のよじれ。文字数不足。などなどなど、出てしまって当然でしょう。これを加味するのが、(b)。
要するに、国語の記述式の採点は、文字数が多くなればなるほど、判断するチェックポイントがどんどん増えていきます。そしてチェックポイントのそれぞれに判断の「幅」が存在しえます。その「幅」の判断が人によって分かれ、その判断の異なりが積み上がると、最終的な得点に差が出てきます。
実際の採点現場では、この「ゆれ」や「幅」をできるだけなくす工夫をしているはずです。詳細な採点基準を設けたり、採点者ごとの採点範囲を工夫したり、などです。各校の中で出題・採点をするので、それができます。
後述しますが、センター後継の新テストでは、共通の問題に対し、それぞれの大学が個別に採点を行う可能性が出て来ました。さて、何が起こるか。
確認C 入試日程の大枠は現在と大きく変わらない
国立大学協会が、入試日程について検討をしています。「大学入学希望者学力評価テストの実施時期等に関する論点整理~とくに国語系記述式試験の取扱いについて~」(平成28年8月19日)という文書です。
これによれば、現在の1月中旬のセンター試験日程より前倒しする案は、高校現場の日程から難しい。後ろ倒しは検討していませんが、つまりそれはありえないので検討もしていないということでしょう。そうすると時期はおそらく現行通りです。
下図は、野田塾が作成した「平成28年度 国公立・私立・短期大学入試日程」です。
国大協の日程検討は、当たり前ですが国立大の都合しか考えていません。私立大学・短期大学の入試日程は、現在上図のとおり。センターの追試験直後から、入試が始まっていることがわかります。採点、いったいどうなってしまうのでしょう。http://blogos.com/article/189287/?p=1 大変参考になります:
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について
入学試験が盛んな時期であるが、特に入試のミスにおける対応について、考察しておきたい。入試のミスといってもいろいろなミスが考えられるが、代表的なものは
1) 出題が 定められた範囲を逸脱していた。
2) 問題そのものが、間違っていた。
3) 採点ミス、評価に著しいミスがあった。
4) 問題用紙や解答用紙の扱いにおけるミスや、選抜過程におけるミス。
など、相当に複雑な場合が考えられる。 入試は受験生の一身上に大きな影響を与えるので、関係者の気遣いは深刻で 重責である。そのような苦しい仕事を繰り返されては、特に、教員は教育・研究などの本務を全うできない状況が生じると懸念される。また、合否判定を行ってから、新年度に入ってや 1年以上も経って、入試のミスのために合否判定が覆り、大きな社会問題になった例も少なくない。そこで、 このようなミスに対してどのように対応すべきかを論じたい。
まず、原則は、次の 公正の原則 にあると考える:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
入試については、特に、次の観点に注目したい: 人間の能力を評価することは簡単ではないこと、しかしながら、現実的に選抜する必要性から、簡便法として入試を行って、対処する必要があること。― この背後には、 入試の問題そのものさえ、どのような問題が適切かは曖昧であり、数値化されたものは 受験者のどのような才能、適切さを表しているかさえ 曖昧であるという、事実、真実である。― 入試のミスを論じる前に 入試に対して、そのような柔軟な考えを有することは 良いのではないだろうか。また、優秀な者が風邪や体調で、また 運、不運のことで、不本意の成績が出ることは、世に多い事実ではないだろうか。 まずは、入試における数値化の問題と、数値化の曖昧さに言及したい。
そこで、上記公正の原則で、大事な視点は、 4) ミスに対応する対応が社会的にスムースに行くような配慮である。
そこで、具体的な提案をこの観点から、行いたい。
一旦 実際上の責任者が 決定を行ったことは(きちんと組織上決めておく、実際決まっている。)、修正や変更を行わないこと。― ここで、大事なことは たとえ間違いが有っても修正しないことである。― サッカーなどで、判定ミスがあっても、それを 覆さずゲームを続けることに対応する。
― 責任者が、決定の印を押したからには、軽々と覆すことのない決済として、認めることである。
これについて、社会も 入試について 間違いが有り得ることを認め、それを広く受け入れる必要がある。 覆さないは、時間と共に進む社会を考慮すれば、良き対応の有り様ではないだろうか。過ちを受け入れられる社会は 社会をより柔軟に、運営、考えるのに幅を持たせて 広い視野と優しさをもつ社会になるのではないだろうか。
上記の過程で、責任者がミスを冒したことについて、後で、相当な責任を求められるのは当然である。しかしながら、入試などで真剣に取り組まない教職員はいないから、人間の過ちは避けられないものとして、社会的に大きな影響を与えても、寛容な処分を考慮するのが良いと考える。
もちろん、簡単に、相当の混乱も無く、修正できる場合には、上記責任者が 修正するのは是であるが、入試のミスが結構起きて、入試は一種のゲームや偶然性があると考える世相、文化は社会の有り様として、良いのではないだろうか。
背後には、入試をもっと軽く、柔軟に考えられる社会を志向しようという精神がある。それでも上手く回る社会の在り様、柔軟性を広く志向することである。如何であろうか?
計算機の普及で 多くが几帳面になり、社会が細かく、厳密化する傾向を生み、人間の精神が、心が窮屈になる環境に向かうのではないだろうか。これは 将来における大きな懸念になる概念ではないだろうか。
新年度に入ってや 1年以上も経って、合否の判定を覆すのは 社会混乱であり、行き過ぎではないだろうか。
以 上
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