死後の世界 「あの世」とはどういうものなのか?
死んだ後、人はどこへゆくのか──人類にとって「あの世」は常に興味・関心の的であり、宗教も、科学も、その問いに答えを出そうとしてきた。「あの世」について学ぶことで、生きることも、そして死ぬことも、きっと少しだけ楽になるからだ。
実は「あの世」にまつわる言説の多くについても、取材を進めると「生きていく中での苦悩」や「死への恐怖」を和らげる意味を持つことがわかってきた。
臨済宗の僧侶で作家の玄侑宗久氏によれば、日本人が「死」の概念を持つようになったのは、仏教伝来以降のことだという。
「『万葉集』や『古事記』などには『死ぬ』という言葉はなく、『避(さ)る』という言葉を使っています。“どこかに行く”というイメージで、『死』とはちょっと違うでしょう。6世紀半ばに仏教が火葬の風習とともに入ってきて初めて、“体が灰になる=死”という概念に触れたように思います。ポイントは、当初日本に伝来した仏教は、中国で『輪廻』の概念を外されたものだったことです」
「輪廻」は、死んでもこの世のどこかで次の生が始まるという概念だ。だから体を取っておく必要がなく、火葬しても構わないことになる。後に、輪廻の考え方も日本に伝わることになるが、当初は伝来の過程で輪廻という概念が外れ、火葬という形だけが残っていたという。つまり「次の生に対する保証が何もないのに、体は燃やされてしまう」(玄侑氏)ことになったのだ。
「このため、平安初期の説話集『日本霊異記』などを読むと、『頼むから9日間は燃やさないでくれ』とか『腐敗が進んで諦めがつくまでそのまま置いておいてくれ』という貴族がいっぱいいたんです。そういう状況下に、救世主のように現われたのが浄土教でした」(玄侑氏)
浄土教では死ぬことは「往生」、すなわち浄土に「往って生きる」ことを意味する。
「この考えは、『万葉集』や『古事記』の『避る』という表現にピッタリと合う。『ああ、死んでも大丈夫なんだ』と人々が思ったことで、浄土教は燎原の火の勢いで広がっていったんです」(同前)
死後どうなるかという“ビジョン”が人々を救ったという解説だ。さらに玄侑氏は「あの世」という表現が定着していることにも着目する。
「『あの世』という言葉は仏教用語ではありません。日本人にとっての死後の世界は、どうも“昔いた懐かしい場所”という感覚のようなんです。『あの世』といった時に、誰も『どの世?』とは聞かないでしょう? 『あ~、あれね』という暗黙の了解が前提にある気がします。浄土教における浄土は“十万億土の彼方”といわれますが、日本人にとっては“身近な自然の奥のほう”というようなイメージが形づくられてきたのではないでしょうか」
※週刊ポスト2016年9月2日号http://getnews.jp/archives/1511895
再生核研究所声明 47(2011.02.08): 肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
再生核研究所声明 63 (2011.05.25) :
解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得
人が世に生まれ、終末を迎えるに当たって、できれば、人生を肯定的にみて、安らかな終末を迎えたいと考えるのは 相当に基本的な願いではないかと考える。そこで、再生核研究所声明においても、 再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道、再生核研究所声明 57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか などで、ふれ、人生の意義などについても、再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について などでふれている。 しかるに、
2011.5.14.08:40 宿舎から研究室に向かっているとき、無意識に歩けるとは 何と素晴らしいことだろう、と思い巡らして歩いていたら、 突然、 解脱という言葉が 湧いてきて、 その意味を理解できました。 その意味は 暫く、検証するとして、効果は、死の現象をのりこえて、 永遠の生命に 帰依することが できるだろうと 直観した。
と 直ちに書き留めておいたように、理由もなく解脱の言葉が湧いてきて、その本質を直観したような経験をした。 そこで、 その背景を言葉で表現して、解脱への暗示、ヒントとしたい。 このような見方が、神、自由、不死に至る道、1種の悟り、安らかな終末を迎える心構えになると考える。
人間とは何だろうか、 人生とは そもそも何だろうか。 多くの人は毎日歩いているが、 しかし、 考えて歩いているのは、意識して歩いているのは殆どないと言える。 すなわち、私たちは無意識のうちに歩いているのである。 それと同じように、 恋をして子供を儲けたり、育ててきたりしていますが、 人生の殆どは 本能のような 何かに動かされて生きてきているとも言えます。 我々の意識する世界とは、 我々の大きな生命のいとなみからすると、ほんの僅かな部分に過ぎないことが分かる。 なぜ生まれてきて、 どうなって行くのかも分からないのが、 人間であり、 人生と言えます。 我々を世に送り、その本質部分を動かしているのは、元祖生命体の 生命のいとなみ自身 ではないでしょうか。 その雄大な生命の一部を ほんの少し、担っているのが 人生ではないでしょうか。 雄大な生態系の ほんの一部を になっている のが人生であり、人間ではないでしょうか。
私たちは、その雄大な生命、元祖生命体のほんの一部ですから、我々の仮想的な部分が消えてもその本質である元祖生命体は永続していく 雄大な存在と言えます。 解脱とは、 仮想的な個人、 人間を離れて、超えて、その雄大な生命に帰依することではないでしょうか。我々のうちには、元祖生命体の本質が内在していて、ここの固体を超えた 大きな生命に通じているのではないでしょうか。 ここの固体から、その永遠の生命を直観するには 世の現象を真面目に見つめ、 自分の内なる世界を見つめれば、自然に湧く信仰として、実現するのではないでしょうか。 ここに朽ち果てていく 自分の生体がある、 その魂は 上記 雄大な生命の一部として、永続していくが、 元祖生命体の乗り物である生物個体としては、滅びていかざるを得ない。 また、元祖生命体の いとなみの全貌、目標などは 知ることもできない。 しかしながら、人間、人生が雄大な生命活動のほんの一部の活動であり、我々が知り、感じ、想像する世界は 実は幻のように儚い 小さものであることを知ることは、 神、自由、不死を感得し、悟りへの道になると考える。
個々の人間の生体は、元祖生命体の、 たとえば、人体の中の一細胞のような存在と考えられよう。
多くの芸術家や数学者は、己が生命の活動として、作品や理論を創作しているが、実は、それらは厳然として実在していたものを 生命活動としての情念によって 内なる生命が働きかけて 形に成ったもので、 実は 自分が創造したものでも、努力して作ったものでもないと言えるのではないでしょうか。 それらの背景には 元祖生命体の 生命体の発露 の一部を見ることができる。
もしわれわれが、 大いなる生命を実感したいと思うならば、絶壁に立ったり、死の面前に立って、われ死するべきかと自らに問えば、 内なる生命は、 単なる自己の意識や感情を越えて、否、それを阻止する 大いなる生命の叫び を感得することができるだろう。 また、親族や民族や友人や親しむ動物や植物に、 それと同じような、共感と共鳴を感じるならば、自己を越えた、大いなる大義に目覚めるときでもあると言える(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 ― このような文章自体、私が書いたものではなくて、実は、上記 元祖生命体の生命の叫びとして、私を通して、表現しているものと言える。
以 上
再生核研究所声明 120 (2013.5.24): 終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく 肯定死の保証 と 方法の確立を
人間の終末の在りようは、生きたいという生命の本能に抵触するように感じられるから、誰とて、考えたくない課題であると言える。しかしながら、伝統、習慣、宗教などの永い役割は 自然科学的な精神の影響をうけて、大きな変革が起きていると考えられる。
これは 社会の在り様の問題であるから、まずは、再生核研究所声明1(良い社会を作るには)における、公正の原則を基本に考えるべきであると考える。他の重要な要素とは 基本的な人権に基づく、個人の自由意志の尊重である。客観状況としては、世界に70億を超える人口を有す地球規模における 人口抑制の視点で 今後大きな問題に発展すると考えられる。もちろん、この世の何事をも 再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと に 抵触、背馳してはならない。
再生核研究所は、再生の理念を進める研究所であるから、その原点である死の問題を 再生と一体の問題として 一貫して重要視してきている。
生も死も一体のものと 捉えられるようになれば、ただ1日でも、少しでも長く生きれば良いとは考えず、肯定死も肯定できると考える(再生核研究所声明 47: 肯定死)。また、次も参照: 再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ―
人間は自分の生命をも選択する自由を有し、自己の全人生に責任を果たすことが出来る 高貴な存在であると考える。
ところが 有史以来、肯定死を肯定し、どのように保証し、実現を保証するかという社会制度は、在りようは 検討されたことさえ無いようである。
そこで、基本的人権として、肯定死を肯定し、実現させる方法の総合的な検討を提案する。公正の原則と個人の自由意志の尊重を基本に 将来の問題として検討すべきではないだろうか、提案したい。
関連問題として、
終末医療の在りよう、
最期の時を迎える、在りようの検討、
葬儀の在りようの検討、
墓など その後の在りようについての 総合的な検討。
それらは、文化や伝統、習慣、宗教、個人の考え方によって大きな影響を受けるので、上記 公正の原則と個人の自由意志を尊重する形で、慣性の法則(再生核研究所声明 72:慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)なども 参考にして、慎重に しかし、総合的な検討が求められる時代を迎えているのではないだろうか。
人生についての総合的な見方については (再生核研究所声明74: 人生・生命の肯定について) を参照。
フランスでも同性婚が認められ、ポルトガルでは 既に法律で認められているが、 公正の原則に背馳しない限り、個人の自由意志を尊重し、多様な世界を志向するのが良いのではないだろうか。上記検討課題についても、個人の自由意志の尊重である。
以 上
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