2016年8月7日日曜日

自分のために生きることが人のためにもなる。心理学×哲学の思考法

自分のために生きることが人のためにもなる。心理学×哲学の思考法

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『世界一受けたい心理学×哲学の授業』(嶋田将也著、ワニブックス)の著者は、中学生時代にいじめられたことが原因で、うつ病を発症したという経験の持ち主。しかしそのことがきっかけで「心」の問題に関心を抱くようになり、高校では独学で心理学を学びはじめたのだそうです。そればかりか大学では哲学に出会い、さまざまな見方や考え方を身につけ、心理学と哲学を掛け合わせた独自の思考法を開発したのだとか。
そして、「昔の自分のように人間関係で悩む人の手助けがしたい」という思いから、ブログ『世界一受けたい心理学×哲学の授業』を開設。約8ヵ月で読者は2000人を超え、人気ブロガーになったのだといいます。本書は、そのブログを書籍化したもの。
自分の心のことをしっかり知っていれば、悩むと分かっている「災」の中にわざわざ足を踏み入れることはしません。(中略)悩む心を癒す方法さえ知っていれば、傷を治しながら、前に進めるはずなのです。(中略)そこでこの本では、どちらも自分の心を理解するために有効だと言われる学問「哲学」と「心理学」2つのいいところだけを抽出し、掛け合わせた思考法を紹介していきます。(「はじめに」より)
ちなみに哲学と心理学には、「答えがそれぞれ違う」という共通点があるのだそうです。そこで本書も、絶対的な解答ではなく、「自分だけの答えを見つける」ことを目的として書かれているのだといいます。きょうはそのなかから、3時限目「人生を今から変える成功法則」に焦点を当ててみたいと思います。

Push世界一受けたい心理学×哲学の授業
世界一受けたい心理学×哲学の授業
1,296円


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成功が成功を破壊する?!

ここで著者は、道教の開祖として知られる老子の「大者宣為下」という言葉を紹介しています。これは直訳すると、「強大なものこそ下へ下へとへりくだることが大事である」という意味。つまり「強い力を持った者こそ、謙虚であるべし」ということです。
なぜ強い力を持った者自身が謙虚である必要があるのかといえば、それは「強い力を持った者自身が成功を破壊する存在」だから。強い力を持った者のなかで、バランスをとろうとする力が働くからなのだそうです。成功すればそのぶんだけ、その成功を破壊する力も強くなるということ。そして大きな目標であればあるほど、「影」の部分も大きくなり、破壊する力は強くなるのだといいます。
たとえば成功すればするほど、自惚れたり、まわりを見下して天狗になってしまいがち。しかし著者は、それではもったいないと記しています。なぜなら、成功したうえで謙虚でいれば、多くの人がそれを称賛し、さらなる成功をも引き寄せることができるかもしれないのだから。
ただ「成功すること」だけに目線を向けていたのでは、決して本当の成功とはいえない。その成功の表面にある影にも目を向け、対処していかなければいけないという考え方。いわば著者が伝えようとしているのは、自分の成功に対して「短絡的に楽観視しているだけだと痛い目を見るよ」ということ。自身の意識下で「いばる自分」を認識し、自力で抑えることができないと、成功してもすぐ成功を壊してしまうというわけです。(94ページより)

成功したければ、あえて「逆」を

生きている限り、戦わざるを得ない状況は誰にでもあるものです。学校、会社、家庭内などには往々にして、強制的に参加させられる「戦う状況」があるということ。老子は「水のように争うことなく生きよう」というけれども、そんなにうまくはいかないわけです。しかし、そんな人に対して老子は、「正面衝突ではなく、その逆の手を使って戦うのが良し」という教えを説いているのだそうです。
現代的に見れば、
「相手を黙らせたいのであれば、その逆! 反論せずに気が済むまで話させる」
「相手から貰いたいのであれば、その逆! まずはこちらから与える」
「相手を押さえつけたいのであれば、その逆! まずは自由に泳がせておく」
ということです。
つまりは、相手を油断させておいて、「隙をつく」ということ。
(105ページより)
似たような言葉を、孫子も残しているのだそうです。それは、「始如処女、後加脱兎(はじめは処女の如く、後は脱兎の如し)」というもの。つまり、「戦いの始まりは弱々しく見せて、相手を油断させておく。そして戦いの勝敗を左右する場面になったら、素早く攻勢に出て、一気にたたみかける。それが戦いの基本だ」という意味。だからこそ、戦わざるを得ない状況を出くわした際には、この教えを実践してみるといいと著者は提案しています。(104ページより)

バレてた。男子が感じる女子のデリケートゾーン問題 バレてた。男子が感じる女子のデリケートゾーン問題 [ GLITTY ]
本当に強い者は争わない

老子の「上善若水」という有名な言葉の意味は、端的にいえば「水こそ最強」ということ。老子は水に「最上の善」という意味をつけていたのだそうです。つまり、争いを避けて生きようという提案。
老子が生きていたのは、国同士の争いばかりで、戦で利を得ようという生き方が一般的だった時代。「人を蹴落としてでも上を目指そう」という考えが当たり前のものだったということです。老子はそんな時代にあえて、「水のように人と争わず、常に低いとこ露に止まりなさい」と、生き方の見本として"水"を挙げたわけです。
当然ながら、水は原則として上流から下流に、上から下に落ちるもの。そして下へ下へと移動し、やがて広大な海につながります。なお、アドラーの「競争しない」という教えも、これと同じ意味にあたるのだとか。
「競争から降りて生きる」というと、負けを認めるような気がする方もいるかもしれません。しかし、ここには重要なポイントがあるといいます。考えてみるべきは、「水が流れているところに石を落としたらどうなるか?」ということ。いうまでもなく、水は石を避けて流れます。いってみれば「石と戦うぞ!」と石を動かそうとするのではなく、「他の場所を通ります」と、決して争うことをしないわけです。
しかしそうでありながら、水は少しずつ土や石を動かして削っていき、いずれ穴を開けてしまうこともあるもの。争うことを避けながらも、実はそれだけの力を持っているわけです。実体があるもののなかで、「なによりも柔らかいのに、なによりも強い」水のように、「争うことなく低いところに止まる」ことが、なによりも素晴らしい生き方だという考え方です。(108ページより)

自分のために生きることが人のためになる?!

仏教には「自利利他」という教えがあります。
「自利」...自分の利益のために努力すること。修行すること。
→他人より自分優先
「利他」...他人の利益のために努力すること。
→自分より他人優先
(120ページより)
「自利利他」とは、言葉どおり「2つで1つ」だということ。天台宗の最澄は、「自利とは利他を言う」といっているそうです。つまり「他人の利益のために努力すれば、それはいずれ自分にも返ってくる。だから利他を積極的にしましょう」ということ。アドラーの言葉でいえば、「他者貢献」がこれに相当するもの。だからこそ、無理に他者のために生きる必要はないと著者は主張します。なぜなら、自分のためにやることが、他人のためになるのだから。
のことを実際に証明するエピソードとして、著者は「フェルマーの最終定理」の話題を持ち出しています。ご存知のとおり、数学の世界において、証明するまでに360年もの歳月がかかった問題。
この定理に挑んだ数学者のひとりが、数々の数学の公式を生んだ天才であるレオンハルト・オイラー。数学のしすぎで盲目になり、それでも数学を解き明かし続けた「盲目の数学者」として知られています。彼もフェルマーの最終定理を解くことはできませんでしたが、突破口を開けたひとりであることは事実。
ではオイラーは、他人のために数学を解き、証明していたのでしょうか? この問いに対するポイントは、決してそうではなく、「ただ数学が好きだったから解いただけ」だということ。自分で自分の感情を満たす、まさに「自利」だったわけです。
しかし、彼が多くの数学の公式を生み出したことや、あるいはフェルマーの最終定理の突破口を切り開いたことは、結果的に後世に受け継がれ、私たちの役に立っている。いいかえれば他人に利益を与えているので、これは「利他」となるわけです。
自利だと思っていたことが、実は利他。誰かのためにやるのではなく、ただ自分の感情を満たすためにやる。しかし、それは自然と利他につながる。これこそが、無理に他人のためにがんばる必要などないという考え方の証拠であると著者は結んでいます
。(120ページより)


哲学や心理学には難解なイメージもありますが、本書のアプローチはとてもシンプルで柔軟なもの。肩肘を張らずに読み進めることができるので、思いのほか役立ってくれそうです。不安を抱えていたり、つまづいている人は、手に取ってみる価値があるかもしれません。

(印南敦史)http://www.lifehacker.jp/2016/08/160802book_to_read.html

読んでとてもためになりました:

再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する

アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上

追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf DOI:10.12732/ijam.v27i2.9.


再生核研究所声明 134 (2013.10.5): 私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間

(再生核研究所は 社会貢献の一環として、さらには 多様な意見に接して視野を広め、修行のため、多様な意見に対して 見解を表明してきている。しかるに、
2013年9月30日 0:29  私の命よりも 私が大事? ・・・ 「私の命」というとき、そこには命に先駆けて私というものがあることになります。 命である私ではなく 私の命であるわけですから。私の命がなくなった。それでは 私というものは どこへ行ったのか? 命である私であるなら、命の消滅と共に私も消えると思うが。 私たちは 命よりも 私が大事なのではないでしょうか?」 との質問に触れ、次のように回答している:
これは大問題を含んでいますね。 私とは何かですね。 命は生物としての生命として 命とは何かが得られますね。 私とは、私の精神、 思想だと理解すると そのような面は 出て来ますね。 それらは、 死を越えていますね。 実際、自分の存念を守るため、死を選んだ人は 世に多いですね。― これについて、2013.10.2 朝の目覚め後、 ひとりでに声明の構想が湧いたので、 成文化したい。
上記のように 私の命は、生物、動物としての命と ここでは定めよう。
命より大事な私の 私の意味が 重要ではないだろうか。 ここに言う私とは何かである。
指摘されているように、生物としての命が消滅すれば、精神作用を行なっている、私は消滅して、意味を成さないのではないかとも考えられる。 したがって、ここに言う私とは、現に抱いている存念、思想、精神などを表わしていると考えられる。単に精神活動している私を 意味しないと考えるべきである。
そこで、生物的な命を越えているような 事実、事、事例などをまず、参考にしたい。
命をかけて、大事にしたものは 何だろう。
再生核研究所声明 130 (2013.9.1): 復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間)
で 否定的に評価した、忠臣蔵で多数の命をかけて、仇討ちを果たした例は 典型的な例ではないだろうか。主君に対する想い、不正義に対する憎しみ、武士の名誉 それらは、同志の多数の命を越えていたと考えられる。また、殉教、殉職、殉死などもそうである。
また、無数の戦場における兵士の戦死は、私の、個人の命を越えている、確かな証拠である。- 直接的には 命令に従う、任務の遂行 が有るものの、背後には 家族のため、民族のため、国家のため、同志のために が有るのは、歴然である。(2013年9月25日 12:29  あなたは国のために命をかけることができますか? ― 回答: 誰でも 国の為には 命をかけたくなり、かけなければなりませんね。それが 国では)。
しかしながら、多くの人は志のうちに、夢のうちに生きていて、そのために人生をかけているは世に多く、それらの中に 大いなる私が存在していると言える。芸術家も 研究者も、求道者も もはや、消えて行く必然性を有する個人的な命を越えて、自分の延長と考えられる大きなものに帰依して、その私を大事に思うのではないだろうか。
これは誠、人間だけにできる、己を越えた存在に帰依しようとする、尊い人間らしい、状況では ないだろうか。ここに、人間賛歌の想いを強くする。
滅ぶべき命を越えた、高い、超越的な精神的な帰依である。 それこそ、大きな私であると言える。人間の心の底には 神性が有るのではないだろうか。 良心、義に対する、感動する、崇高さにひかれる精神である。 私は、私を越えた存在であると言える。

以 上

再生核研究所声明296(2016.05.06)   ゼロ除算の混乱

ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:

再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題 
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める

我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。

以 上


考えてはいけないことが、考えられるようになった。 
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
http://file.scirp.org/pdf/ALAMT_2016061413593686.pdf

再生核研究所声明306(2016.06.21) 平行線公理、非ユークリッド幾何学、そしてゼロ除算

表題について、山間部を散歩している折り新鮮な感覚で、想いが湧いて来た。新しい幾何学の発見で、ボーヤイ・ヤーノシュが父に言われた 平行線の公理を証明できたら、地球の大きさ程のダイヤモンドほどの値打ちがあると言われて、敢然と証明に取り掛かった姿とその帰結である。また、ユークリッドが海岸を散歩しながら幾何学を建設していく情景が鮮やかに想い出された(Liwanovaの『新しい幾何学の発見』(のちに『ロバチェフスキーの世界』と改題)(東京図書刊行)。この件、既に声明に述べているので、まずは確認したい:



再生核研究所声明292(2016.03.25) ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、平行線公理、そしてゼロ除算(2016.3.23 朝、目を覚まして、情念と構想が閃いたものである。)

まず基本語をウイキペデアで確認して置こう:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%B9

アレクサンドリアのエウクレイデス(古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēs、ラテン語: Euclīdēs、英語: Euclid(ユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシアの数学者、天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E5%

非ユークリッド幾何学の成立: ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した。



ユークリッド幾何学は 2000年を超えて数学及び論理と あらゆる科学の記述の基礎になってきた。その幾何学を支える平行線の公理については、非ユークリッド幾何学の成立過程で徹底的に検討、議論され、逆に 平行線の公理がユークリッド幾何学の特徴的な仮定(仮説)で証明できない公理であることが明らかにされた。それとともに 数学とは何かに対する認識が根本的に変わり、数学とは公理系(仮説系)の上に建設された理論体系であって、絶対的な真理という概念を失った。

ここで焦点を当てたいのは 平行線の概念である。ユークリッド幾何学における平行線とは 任意の直線に対して、直線上以外の点を通って、それと交わらない直線のことで、平行線がただ1つ存在するというのがユークリッドの公理である。非ユークリッド幾何学では、そのような平行線が全然存在しなかったり、沢山存在する幾何学になっており、そのような幾何学は 実在し、現在も盛んに利用されている。

この平行線の問題が、ゼロ除算の発見1/0=0、台頭によって 驚嘆すべき、形相を帯びてきた。

ユークリッド自身、また、非ユークリッド幾何学の上記発見者たち、それに自ら深い研究をしていた天才ガウスにとっても驚嘆すべき事件であると考えられる。

何と ユークリッド空間で 平行線は ある意味で全て原点で交わっている という、現象が明らかにされた。

もちろん、ここで交わっていることの意味を 従来の意味にとれば、馬鹿馬鹿しいことになる。

そこで、その意味をまず、正確に述べよう。まずは、 イメージから述べる。リーマン球面に立体射影させると 全ユークリッド平面は 球面から北極点を除いた球面上に一対一に写される。そのとき、球面の北極点に対応する点が平面上になく、想像上の点として無限遠点を付け加えて対応させれば、立体射影における円、円対応を考えれば、平面上の平行線は無限遠点で交わっているとして、すっきりと説明され、複素解析学における基本的な世界観を与えている。平行線は無限遠点で 角ゼロ(度)で交わっている(接している)も立体射影における等角性で保証される。あまりの美しさのため、100年を超えて疑われることはなく、世の全ての文献はそのような扱いになっていて数学界の定説である。

ところがゼロ除算1/0=0では 無限遠点は空間の想像上の点として、存在していても、その点、無限遠点は数値では ゼロ(原点)に対応していることが明らかにされた。 すなわち、北極(無限遠点)は南極(原点)と一致している。そのために、平行線は原点で交わっていると解釈できる。もちろん、全ての直線は原点を通っている。

この現象はユークリッド空間の考えを改めるもので、このような性質は解析幾何学、微積分学、複素解析学、物理学など広範に影響を与え、統一的に新しい秩序ある世界を構成していることが明らかにされた。2200年を超えて、ユークリッド幾何学に全く新しい局面が現れたと言える。

平行線の交わりを考えてみる。交わる異なる2直線を1次方程式で書いて、交点の座標を求めて置く。その座標は、平行のとき、分母がゼロになって、交点の座標が求まらないと従来ではなっていたが、ゼロ除算では、それは可能で、原点(0,0)が対応すると解釈できる。ゼロ除算と解析幾何学からの帰結である。上記幾何学的な説明が、ゼロ除算で解析幾何学的にも導かれる。

一般の円の方程式を2次関数で表現すれば、(x^2+y^2) の係数がゼロの場合、直線の一般式になるが、ゼロ除算を用いると、それが保証されるばかりか、直線の中心は 原点である、直線も点円も曲率がゼロであることが導かれる。もちろん、ゼロ除算の世界では、全ての直線は原点を通っている。このとき、原点を無限遠点の映った影ともみなせ、原点はこのような意味で もともとの原点とこの意味での点としての、2重性を有し、この概念は今後大きな意味を有することになるだろう。

ゼロ除算1/0=0は ユークリッド幾何学においても、大きな変革を求めている。

                                     

以上



上記で、数学的に大事な観点は、ユークリッド自身そうであったが、平行線公理は真理で、証明されるべきもの、幾何学は絶対的な真理であると非ユークリッド幾何学の出現まで、考えられてきたということである。2000年を超える世界観であった事実である。そこで、平行線の公理を証明しようと多くの人が挑戦してきたが、非ユークリッド幾何学の出現まで不可能であった。実は、証明できない命題であったという全く意外な帰結であった。真に新しい、概念、世界観であった。証明できない命題の存在である。それこそ、世界観を変える、驚嘆すべき世界史上の事件であったと言える。

この事件に関してゼロ除算の発見は、全く異なる世界観を明らかにしている。ユークリッドそして、非ユークリッド幾何学の3人の発見者にとって、全く想像ができなかった、新しい事実である。平行線が 無限の先で交わっているとは ユークリッドは考えなかったと思われるが、近代では、無限の先で交わっていると考えられて来ている。― これには、アーベル、オイラー、リーマンなどの考えが存在する。このような考えは、ここ100年以上、世界の常識、定説になっている。ところがゼロ除算では、無限遠点は 数ではゼロが対応していて、平行線は代数的に原点で交わっている、すべての直線は代数的に原点を通っているという解釈が成り立つことを示している。

ユークリッドの幾何学の建設時の想い、ボーヤイ・ヤーノシュの激しい挑戦の様を、 想い を 深く、いろいろ想像している。

以 上


Matrices and Division by Zero z/0 = 0
http://file.scirp.org/pdf/ALAMT_2016061413593686.pdf


再生核研究所声明309(2016.06.28) 真無限と破壊 ― ゼロ除算

3辺の長さをa,b,cとする三角形を考える。その位置で、例えば、1辺bをどんどんのばしていく。一方向でも、双方向でも良い。どこまでも、どこまでも伸ばしていくとどうなるであろうか。bは限りなく長くなるが、結局、辺bは a, cの交点Bと平行な直線になって、 それ以上伸ばすことや長くすることはできないことに気づくだろう。正方向だけに伸びれば、辺cは辺bの方向と平行な半曲線に、負の方向に伸びれば、同様に辺aもBを通るbの方向と平行な半曲線になる。いずれの場合にも、bはそれ以上伸びないと言う意味で真無限の長さと表現できるだろう。もちろん、有限の長さではない。大事な観点は、ある意味で、もはやそれ以上伸びない、大きくならないという意味で、限りがあるとも言える無限である。
途中で作られる三角形の面積は辺cをどんどん伸ばしていくと、どんどん増加し、従来の数学では、面積は無限に発散すると表現してきた。平行線で囲まれる(?)面積、あるいは、平行線で囲まれる(?)部分を切った部分(一方向に辺cを伸ばした場合)は面積無限であると考えるだろう。ところがゼロ除算は、それらの面積はゼロであると述べている。 一般に、長さcをどんどん大きくしていくと、幾らでも大きくなって行くのに対して、真無限に至れば突然ゼロになるという結果がゼロ除算の大事な帰結である。 この現象は関数y=1/x の様子をxが正方向からゼロに近づいた状況を考えれば、理解できるだろう。 1/0=0 である。― c を無限に近づけた状況を知るには、1/c の原点での状況を見れば良い。
実に美しいことには、上記三角形の面積の状況は、3直線で囲まれた部分の面積を3直線を表す方程式で書いて、ゼロ除算の性質を用いると、解析幾何学的にも導かれるという事実である。ゼロ除算の結果を用いると、解析幾何学的に証明されるという事実である。
この事実は普遍的な現象として破壊現象の表現として述べられる。直方体の体積でも、1辺を真無限まで伸ばせば、体積はゼロである。円柱でも真無限まで伸ばせば、体積はゼロである。真無限まで行けば、もともとの形が壊れているためと自然に理解できるだろう。
円や球の場合にも、半径が真無限まで行けば、半平面や半空間になるから、同じように面積や体積がゼロになる。これらは、ゼロ除算と解析幾何学からも導かれ、ゼロ除算は基本的な数学であることが分かる。このことは、空間は、限りなく大きなものではないということをも述べていて、 楽しい。

以 上

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