2015年5月23日土曜日

記事 fujipon2015年05月21日 00:00【読書感想】子どもと本

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fujipon2015年05月21日 00:00【読書感想】子どもと本



子どもと本 (岩波新書) 子どもと本 (岩波新書)
作者: 松岡享子
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2015/02/21
メディア: 新書
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内容紹介
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々からは、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれてきて、読者をあたたかく励ましてくれます。
 僕は自分が「本好き」なので、かえって、「他人に本を薦めても良いのだろうか?」と思っているところがあって。
 僕自身、けっこう本を読んできたはずなのに、こんな人間にしか、なれていない。
 周囲の「読書家」たちにも、それで得たものと費やした時間を天秤にかけると、「本当にそれでよかったのだろうか?」と感じてしまうのです。
 それでも、自分の子どもたちが、「絵本読んで!」と持ってきたり、ひとりで本を読んでいるのを見ると、嬉しくなってしまうのも事実なんですよね。
 この『子どもと本』には、「東京子ども図書館」を設立し、児童文学の翻訳・創作も続けてこられた著者による「子どもが本と接することの喜びと役割」が詰まっています。
 いまや、大きな書店や公共の図書館では「子どものためのコーナー」が常設されているのが当たり前なのですが、昔の図書館は「大人が知識を得たり、勉強するための場所」であり、「騒がしい子どもは歓迎されなかった」のです。
 本好きだった著者は、アメリカの大学、そして公共図書館で「なぜ、子どもに本が必要なのか?」「どのような本が、子どもの心を動かし、楽しませることができるのか」を学び、日本でそれを紹介し、実践していくのです。
 わたしのような立場にいる者は、「子どもを本好きにするには、どうすればよいか」というお尋ねを受けることがよくあります。わたしの答えは、いつもきまっています。生活のなかに本があること、おとなが本を読んでやること、のふたつです。実際、子どもを本好きにするのに、これ以外の、そしてこれ以上の手だてがあるとは思えません。
 この本からは、著者の真摯さが伝わってくるんですよ。
 やるべきことを、ひとつひとつ積み重ねてここまで来た人の「重み」みたいなものが詰まっている。
 そこに本があって、大人が我を忘れて読みふけっている風景があること、もっと突き詰めれば、「本と同じ空間にいること」だけで、子どもは、本に興味を持っていくのです。
 著者は、子どもというのは、図書館にいて、本の「オーラ」を浴びているだけで良いのだ、無理に本を手に取らせよう、読ませようとしなくても良いのだ、とも仰っています。
 そして、「子どもにどんな本を読んであげればいいのか」という問いに対しても、学問的なバックボーンと、図書館で実際に子どもに接してきた経験を両輪に、誠実に答えてくださっています。
 そのなかでとくに印象的だったのは、この話でした。
 シカゴ大学附属の養護学校で重度の情緒障害児の教育にあたってこられたブルーノ・ベッテルハイム博士が1977年に京都大学の客員教授として来日された際に、こんな対話があったそうです。
 このとき兄弟間の嫉妬が話題になりました。博士は、子どもはだれでも、自分が両親にいちばん愛されたいという気持ちが強いので、兄弟を嫉妬するものだが、自分でもその感情はよくないと知っており、ひそかに抑圧しようとしているものだ。そんな子どもにとって、昔話のなかで、ほかにも同じように兄弟を嫉妬している人がいると知ることは、それだけで大きな慰めになるのだ、といわれました。
 わたしが、「一人っ子の場合は、どうなんでしょう?」と、おたずねしたら、「一人っ子にも嫉妬はある。よそのうちの一人っ子は、自分より親に可愛がられているんじゃないかと嫉妬するのだ」とおっしゃったので、思わず笑ってしまいましたが、深く納得もしました。自分が、他の人にとっていちばん大切な存在でありたいと願うのは、人間のまん中にある、動かすことのできない感情なのですね。
 また、子どもは、家族や集団のなかで、いちばん小さく、弱い存在である時期が必ずあるのだから、小さい者や、弱い者が、大きくて強い者をやっつける話に意味があるのだともいわれました。これで、一寸法師や、親指小僧や、豆太郎など、小さい者を主人公にした昔話の多いことが腑に落ちます。また、のろまとか、ぼんくらとか呼ばれて、ばかにされている主人公が成功する話が多いこともうなずけます。
 うちの長男は、いま6歳で、次男が6ヵ月。
 もっと年が近ければ、物心ついたときには「いるのが当たり前の兄弟」だったのかもしれませんが、長男にとっては「急に登場してきたにもかかわらず、みんなが次男のことばかり構っている」ように思えてしまうようです。
 親としては、「赤ちゃんをそんなに乱暴に扱っちゃ駄目」「2人だけの兄弟なんだから、仲良くしてくれ」と言いたい。
 このベッテルハイム教授の言葉を読んで、僕は「ああ、子どもの本っていうのは、ポジティブな感情を植えつけたり、『勉強になる』『善い行ないをするようになる』ことだけを志向しているのではないのだな」と考えさせられました。
 むしろ、「ネガティブな感情を抱いているのは、自分だけじゃないんだ」と、本音に寄り添ってくれるものなのですね。
 親としては、「弟を邪険に扱うのもしょうがない」とは、やっぱり言いがたい。
 本人だって、そういう嫉妬が「悪いこと」だという自覚はあるけれど、どうしようもない。
 そういう閉塞感に、本は、物語は、「風穴」をあけてくれるのです。
 また、著者は「どんな本を子どもに読んであげればいいのか」という問いに、こう答えておられます。
 どんな本を……というおたずねに対して、わたしがいつも答えとしてあげる原則は、まず、自分が好きな本を選ぶ、ということです.絵本は、子どもが読むものではなく、おとなが読んでやるものですから、読み手になるおとながその本を好きでなければ困ります。子どもは、本の内容や、絵のスタイルよりも先に、おとながその本に対して抱いている気持ちを敏感に感じ取るものです。そして、その気持ちが子どもの本へ向かう気持ちを左右します。いい本だということだから、わたしはつまらないと思うけれど、まあ、読んでみましょうなどと、なかばお義理で読まれるよりは、読み手が「ね、これ、おもしろいでしょ!」と、熱をもって読むほうが、当然のことながら、子どもはひきつけられるし、たのしむでしょう。
 そう考えると、少しくらい古くても、「自分が子どもの頃、好きだった本」を子どもに読んであげるのは、すごく良いことなのかもしれません。
 たとえば、幼い子に愛されつづけている絵本『ぐりとぐら』は、初版が1967年です。そして、2015年1月の時点で、204刷りとなっています。すでに半世紀近くにわたって読みつがれているのです。このことは、少なくともこの本が、昨日今日出版された本よりも、子どもをひきつける力が強いことを示しています。
 子どもの本の場合、新しい本――出版されたばかりの本――を追いかける必要はまったくありません。子ども自体が”新しい”のです。たとえ百年前に出版された本であっても、その子が初めて出会えば、それは、その子にとって”新しい”本なのですから。そして、読みつがれたという点からいえば、古ければ古いほど、大勢の子どもたちのテストに耐えてきた”つわもの”といえるのです。
 そうか、「子ども自体が”新しい”」のか!
 たしかにそうだよなあ。
 息子に『しょうぼうじどうしゃ じぷた』を読んであげるとき、僕はいつも内心「でもいまは、こんな旧型の消防車も救急車もいないけど……」と思っていたんですよね。
 なにしろ、僕も子どもの頃に読んでいたくらい歴史のある本だから。
 でも、子どもからすれば、そんなことは関係ないというか、すべてが「初めての体験」なんだよね。
 『じぷた』には「仲間への嫉妬」も入っているし、「小さいものが大きいものに勝つ」話でもある。
 あらためて考えてみると、ロングセラーになるだけの「理由」があるのだよなあ。
 日本には、公共図書館と学校図書館のほかにも、子どもに読書の場を提供している、私設の「子ども文庫」があるそうです。
 「そうです」と書いたのは、僕自身は実際に体験したことがないからなのですが、ピーク時の1970年代の半ばには、日本中の全県にわたって、5000もの「子ども文庫」がみられていたそうです。
 子どもの減少もあり、数も減ってはいますが、現在も活動している「子ども文庫」があります。
 著者によると、その数は、全国で3000から4000くらい。
 何よりわたしのこころに深く刻み込まれたのは、どこへ行っても、子どもと本が好きで、そのためなら苦労を惜しまない人たちがいるという事実です。学校の下校時間を狙って、軽トラックに本を載せて、校門近くで”待ち伏せ”する人、大雪のときは、段ボール箱に本を入れて子どもたちのうちまで届ける人、子どもが読みたいといった本を探すために古本屋めぐりをする人。本代を得るために、バス停の清掃をする人……。こうした無私の働きには、ただただ頭が下がるばかりです。
 「本が好きな子ども」は、「本と子どもが好きな大人」に支えられている。
 いやむしろ、「本が好きな子ども」が、「本と子どもが好きな大人」に、生きがいを与えてくれているのかもしれない。
 名も無い人々の、ほとんど無償の善意で、子どもは本に触れ、成長していく。
 この文章を読んだとき、僕はなんだかもう、涙が止まらなくなってしまって……そんな「お涙ちょうだい」の記述じゃないはずなのに。年取ると、涙腺がゆるくなってしまって困ります。
 子どもと本。こうふたつのことばを並べて書いただけで、じんわりと幸せな気持ちになります。このふたつが、わたしのいちばん好きな、そして、いちばん大切に思うものだからです。
 役に立つとか効率とかはさておき、僕は「本が好き」で、「本が好きな人が好き」なのです。
 それで良かったんだな、と、この新書を読んで、少しだけ自信がつきました。
しょうぼうじどうしゃじぷた(こどものとも絵本) しょうぼうじどうしゃじぷた(こどものとも絵本)
作者: 渡辺茂男,山本忠敬
出版社/メーカー: 福音館書店
発売日: 1966/06/10
メディア: 大型本
購入: 1人 クリック: 24回


再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは,  視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上

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