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mediagong2015年05月12日 03:14<テレビドラマの嘘はどこまで許される?>ドラマ「Dr.倫太郎」で描かれるめちゃくちゃな精神科医たち
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事/社会臨床学会会員]
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ファンタジー以外のドラマで、「嘘」はどこまで許されるのか。筆者はリアリティを毀損しない限り、見るものをしらけさせない限り許されると思う。日本テレビの「Dr.倫太郎」は、どうだろう。
主人公・精神科医日野倫太郎の勤務するのは慧南大学病院、総合病院である。少なくともこの病院の精神科には「かかってはいけない」と精神科の隣接領域の専門家である筆者なら判断する。
まず、精神科の主任教授・宮川(長塚圭史)が、精神安定剤とビタミン剤の区別がつかない。どういう教育を受けたのか。
外科医ではあるが、水島百合子医師(吉瀬美智子)が「解離性人格障害」の症状を知らない。よく国家試験に合格したものだ。
さらに、精神科医である宮川が「演技性パーソナリティ障害」の病態を知らず、倫太郎に説明される。むちゃくちゃである。
ドラマでは禁忌に近い説明台詞を言うために、宮川と倫太郎がマッサージを受けながら話すという「笑いのような設定」を拵えてごまかそうとしているが、少しも笑えない。却ってドラマとしての痛々しさを感じさせてしまう。
例えば第4回においては、一話読み切りのエピソードとして挿入されるのがこの「演技性パーソナリティ障害」である。「演技性パーソナリティ障害」は演劇的あるいは性的誘惑による行動によって、自己に過剰に注目を引こうと行動するために、対人関係が不安定になるなどの機能的な障害である。過剰に誇張された感情表出も特徴である。見栄、虚言癖といった症状も見られる。
夫を失い、うつ症状を訴えて通院している牧子は世界的なプリマドンナであったが、もう2年舞台に立っていない。幼い娘の千果にも愛情を注ぐ余裕がない。
このエピソードはドラマ中で解決されるが、主人公である芸者・夢乃(蒼井優)も、そしてまた倫太郎自身も、子ども時代に自分をほったらかしにして、父親以外の男との関係に走った母という過去を持っているが、その伏線になっている。2人の母親は自分中心の行動をするが、それでいて、娘や息子に依存して子どもを呪縛する。子どもの心をむしばむ。
この状態はつまり、今、みなが口の端に載せるようになった流行中(ブーム)の病態、アダルトチルドレン(Adult Children)である。機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つという考え方である。
この病態は拡大解釈されて機能不全家庭で育つと、必ず子どもは大人になってからすべて機能不全になってしまう、というような極端な誤った考えを広めてしまった罪がある。だが、そんな絶望的なことはあるはずがない。筆者はこうした考えが蔓延することに危惧を持っている。
話をドラマに戻すと、この一話読み切り部分のエピソードのキャスティングが弱い。第1回の放送から、ずうっと弱い。レギュラー陣のキャスティングで予算がつきてしまったのだろうか。
読み切り部分のエピソードのキャスティングが弱いと、つけ足し感が目立ってしまって、ドラマ自体を安っぽくしてしまう。第4回のバレリーナ役は草刈民代以外にあり得ない。
そして、精神科医の設定、これもじつは、余計な設定だと思うように至った筆者である。http://blogos.com/article/111913/
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1) 広範に公開される。
2) 多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3) 繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。
以 上
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題
(PM 3時前、休憩時間に、ひとりでに考えが湧いたものである)
2月11日NHK朝ドラ、マッサンの展開における問題を述べて置きたい。― NHK大河ドラマと同様に楽しみにしている番組であり、NHKのドラマ制作能力の高さには 感銘を受けており、また、出演者たちの素晴らしさにも 驚嘆させられている。家族で楽しみにしている希な番組である。ドラマについて いろいろ意見が出るのは当然であるから、エリちゃんや檀ふみさん その他素敵な人たちのように 明るく 前向きに 考えて頂きたい。
今朝の問題点は、マッサンが 堂々と約束違反でワイン造りをしていた紛れもない事実、それを、熱意によって諒として、認め、ドラマがそれを是としているように とれることである。堂々たる約束違反は 反社会的であり、世の秩序の根幹をぐらつかせるものである。いわゆる予算の目的外使用は、予算の返還を求められ かねない 重罪と判断されるは 世に多い事実である。われわれは 世の秩序、有り様の原理として、公正の原則を 述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
また、公共放送として、教育的な要素の配慮は大事であり、 約束違反でも結果が良ければ良いでは、本末転倒であり、結果が良くなくても、意図、過程が適切ならば、評価すべきであるというが基本的な原則であるべきではないだろうか。 結果が良ければ 良いでは 世の秩序は保てず、悪い教育を全国レベルで行い、悪い影響を世にもたらすと考える。
もし、これらが、このドラマの、元々の物語に、あるいは史実に従っているとするならば、その辺の扱いには、深い、広範な配慮が 必要であると考える。マスコミや公共放送には 良い社会を築くような方向での 配慮が求められていると考える。真実を伝えれば良いとはなっていないのは当然である。
ドラマ制作関係者の注意を促し、配慮をお願いしたい。
以 上
<マッサン> 連続テレビ小説 マッサン 第19週 第110話 15/02/10
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