「人から見れば "悪い事」だけど、
本人はそれを全力でやっている」のと
「「悪いこと」ではないけれど、
中途半端でいい加減なことしかしていない」のとでは
どちらがマシなのでしょうか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13146033138
このようなことは、場合、場合ですね。状況に寄りますね。
前者のほうが評価されるのでは?本人が志しているいいことでは?
再生核研究所声明69(2011年9月27日)単細胞人間 - 単細胞的思考
(背景:2011年9月22日宿舎で朝食をとっている最中に突然閃いた考えです単細胞人間という言葉を聴いたのは恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ましました。
類語辞典には近視眼的な·目先の利益だけ考えた〜·せっかちな(結論)·(単なる)向こうみず·単線思考の·単細胞(人間)とある。また、ツイッターで、恩師が、単細胞人間と言ったということを思い出させます。小さな真実を見て、全体が見えないのですね。愚かさの表れではないでしょうか。脱原発デモなどもそうではないでしょうかと呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実をそれに関係する全体の中での位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社はどの程度の損失に当たるかを明らかにして国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明67:脱原発デモ - 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で となりかねない。等も同じような考えではないだろうか。
次を参考:再生核研究所49声明:アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
おかしいと考える。そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一他のいろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。研究費は無限ではないので、どのように配分するかは、国家の大事な問題。戦艦大和のように おかしい。蓮舫氏は、決めつけているのではなく、なぜかと問うているのだから、きちんと答えるのは、研究者の 自然な質問ではないだろうか。要求するだろう。これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、ほんの一部の細胞の役割しか果たせなくなっている。人事の進め方、評価なども結局仲間同志の中でしか、考えられない現実である。31:法の精神と - 罪と罰)。
上記事例で分かることは愚かさの故の行為と背後に利害が絡んでいて理に反しても強弁している場合とがあるということである。何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。そこで、単細胞的な思考に陥らない心得を次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を徹底的に進めたらどうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのようにきちんと分けられるものでは 多様に考える幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほどじっくり考える。全体の状況が見えるまでは謙虚な態度で臨む。
これらを単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であることを肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については次を参考にして頂きたい:再生核研究所声明35:社会と個人の在りようー細胞の役割(この声明の趣旨は人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、調和ある存在になろうということにある。実際、一個の人間の存在は 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに想いを致したい。
以上
再生核研究所声明229(2015年5月12日)吉田松陰から学ぶ - 志の重要性と松陰の最期、モミの実の喩え
(NHK大河ドラマ花燃ゆを見て特に吉田松陰の言葉と最期についての感想を述べたい。)
素晴らしいNHK大河ドラマ花燃ゆを楽しみに見ている。いろいろ素晴らしいところが多いのであるが、ここでは吉田松陰の言葉と最期についての強い印象を述べたい。まず、Wikipediaによって、基本的な情報を確認し、吉田松陰の言葉を確認して置こう:
立志尚特異(志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難(世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業(死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安(目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳(百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐(君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
志を立ててもって万事の源となす
志士は溝壑に在るを忘れず
己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず
凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし
体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為します
人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
それぞれに深く心に響く言葉である。反映されているまこと至言であるそこで、志の大事さが強い印象として残っている - 。。。志を立ててもって万事の源となす。 -
人生、好きなように生きれば良い訳であるが、これは、環境に上手く順応して自分の心がのびのびと良い感動が伴うように生きるということである。しかしながら、感動に満ちて、上手きますいっても人生で何かもの足りない気持ちが残るのではないだろうか。また、どうしたら永く、感動が続くだろうか。それには人生に掛ける虹というような、人生を貫く筋のようなものが必要ではないだろうか。これこそ、人生における志ではないだろうか。いわゆる人物にそのような芯、しっかりとした志を有している人物を世に多くみる。1個の人間としてこのように生きている、生きたいと表現できるものである。
言わば大義に生きる事である。塾生にも私はモミの粒となって、志を継いでくれる者が有れば まさに日本国の畏れ多い、偉大な人物として、尊崇の念が湧いてくる。まことに凄い人物である。そこで、松陰の生い立ちの環境や教育についても大いに研究すべきではないだろうか。それに比べて現代の空虚な教育は如何であろうか.-何か、人物が育たない教育にみえる。
また、この観点において、歴史の重大な局面に出会うと、人間は人間の神性に目覚め、言わば大義に殉じたい心情が湧いてくる面があるのではないだろうか。実際、多くの戦場などでは自己犠牲で大義に殉じた人々は世の英雄ばかりではなく、無数の無名戦士の中に見られる世界史における普遍的な現象ではないだろうか。
吉田松陰の最期の言葉、国を憂いて真実を述べ言わば意図的に処刑されることを選択したのは、心に湧く神性の現れではないだろうか。
平時にも、高い志を懐き、人生における虹をもてる者はまこと幸せであると考える。
以上
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