地方の衰退を招く「3つの重大な間違い」とは
なぜ計画を立て目標管理しても失敗するのか
木下 斉 :地方再生人、内閣官房地域活性化伝道師 2015年05月26日
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いま全国の自治体では、自らの「地方創生の総合戦略」を策定中。だが、従来からキチンと計画を立てて、まちの再生計画を実行しているのに、うまくいかないケースが大半だ。なぜか。(写真:うげい / PIXTA)
いま全国各地では、地方創生に関する総合戦略策定が進められています。国の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を受けて、すべての都道府県と市区町村は2016年3月末までに「総合戦略」を作ることになっているからです。
その際、「地方がおのおの作る総合戦略」については「基本計画をたて、KPI(=目標の達成度合いを測る定量的な指標)を決め、PDCAサイクルを回していこう」ということになっています。これは至極まっとうな話なのですが、実は、この方式は、これまでもさまざまな地域政策で散々やってきたやり方で、ほとんどが失敗に終わっているのです。
計画して管理もしているのに、全く成果が出ない現実
私たちのエリア・イノベーション・アライアンス(AIA)が発行する、「エリア・イノベーション・レビュー」では、過去に行われてきた「中心市街地活性化事業」を題材に「計画墓標」(失敗例)の特集をしています。
全国各地の都市中心部を再生する際のケースを見ると、まず目標設定を含めた基本計画を策定し、それを国が認定し、事業予算がつけられます。そして「目標が達成されているかレビューして、公開もする」という、一見すると完璧なプロセスをとっています。しかし残念ながら、地方都市中心部がこの基本計画でしっかり成果を上げているという事例は、ほとんどないのです。
「何も管理をせず、成果なんてものは無視してダラダラと取り組んでいるから衰退している」のなら、問題は深刻ではありません。それを確かにやるように変更すれば、成果が生まれるからです。しかし皆が計画を立て、目標管理をして、改善を行っているにもかかわらず、地域がどんどん衰退していってしまっているところに、地域分野の問題の深刻さがあるのです。
では、なぜキチンとやるのに成果が出ないのでしょうか?http://toyokeizai.net/articles/-/70936
キチンとやっているつもりでも成果が出ないときには、ほとんどの場合、関係者は以下のような「3つの間違い」をおかしているのです。
(間違い1)戦略や計画が「対症療法」にしかならない
戦略・計画策定をするときの「肝」は「ゴール(目標)設定」と「現状の認識」です。将来目指すべきゴールと、現状の認識とをすりあわせて戦略を考えていくわけです。しかしながら、失敗する事業の多くは、ゴール設定が曖昧で、今「表面的に起きている現象」を「問題」と設定してしまいます。つまり、「目の前の問題にどう取り組むか」が、戦略・計画だと思い込んでしまうのです。
どういうことでしょうか。例えば、地方創生においては、人口の増減そのものが問題ではないので、「人口を増やす戦略」そのもの自体がナンセンスです。
かつては人口爆発で人口増加が社会問題といって増加抑制策をして、今度は人口減少が社会問題となってしまうというのは滑稽な話です。そもそも人口の増減は常に起こるもので、「地域を経営」するときには、その増減にどう対応するのかが問われているわけです。当たり前ですが20年後の成人人口は、今年生まれた子供の数で決まります。いくら地域間競争をして、隣近所から奪ってきたところで、国単位では縮小するのです。計画の根本は、人口が減少する20年で、「どうやったら破綻しない持続的な社会を作り出すか」にあります。
しかし、実態は「人口が減るのが問題だ。どう増やすか」という話になり「カネで人を釣るような事業を行うための予算獲得競争」を、戦略・計画と呼ぶようになってしまいます。
もし対症療法的な計画や戦略を立てても、問題は次から次へと噴出します。すると、大半の場合それぞれの問題で対症療法的に対応がなされるので、問題は解決しません。これまでの地域政策では、産業立地再生、中心市街地再生、地域再生、都市再生、農村再生などなど、それぞれの部分だけをとりあげて、うまく行かなかったものをどう挽回するか、という視点でしか計画が組み立てられず、成果もでなかったことを忘れてはいけません。ひとことでいうと、戦略・計画と言えないものを、戦略・計画と呼ぶ最初の段階ですでに失敗しているのです。
(間違い2)達成しても無意味な「目標設定」がひとり歩き
1で指摘したような、「誤った戦略・計画」のうえに、目標設定が行われてしまいます。これは悲劇です。数値目標などが出されると、なんとなく、ちゃんとしたものに見えてしまうので、本当に困ったものです。
例えば、地方都市における中心市街地衰退では「居住者の減少が問題」とされがちです。しかし、そもそも、いろいろな人が選択するうえで、場所によって優劣がつくのは当たり前の現象なのですが、なぜか「中心部でも居住者を増加させなくてはならない」ということになります。
結果として、とある市では全体で40~50万人も人口があるのに、わずか800人程度の居住者を中心部に集めるために、道路や広場や駅改修の社会資本整備、マンション再開発、公共施設整備などで百億円規模の予算が投じられたりしています。しかも、その目標さえ達成されないという悲しさ。このような事例は、何も特定の市の話ではなく、規模の大小こそあれ、どこでも発生しています。
「いくらおカネを使って、何を達成するのか」という費用対効果に対する考え方が、地域分野ではほとんどありません。しかも、恐ろしいのは、誤った数値目標を達成するために、決めたものは採算をさらに度外視してまでやってしまうことが多く出てきます。数値目標を達成しさえすれば良い、という話になってしまうわけです。http://toyokeizai.net/articles/-/70936?page=2
こうして目標達成をしたところで、もともとの計画が間違っているので、残念ながら目に見える成果は生まれないということになります。
(間違い3)「根本」を疑わず、改善ばかり行う
2でも触れたように、計画を立てると「誤った目標でさえ、達成ができなかったりする」わけです。そうすると、どうなるでしょうか。多くの場合、誤った目標達成に向けて、「やり方を変えなくてはならない」「予算が足りない」という話になってしまいます。「もともとの戦略・計画、もしくは目標設定が間違っているのではないか?」という考えに至らないのです。目標達成に向けて、もっと大胆な事業を策定し、莫大な予算を投じよう、という話になっていきます。
そもそも拡大社会から縮小社会へ転換する場合、従来の戦略・計画の根本を疑い、枠組みから変更するということがなければ、転換は不可能です。縮小社会では、拡大社会時代の前提「増加のみが問題を解決する」という発想そのものを疑い、先行投資を莫大にやれば逆転できるという幻想を捨てなくてはなりません。
新たな時代に則して、まずは現状で確保可能な需要を先回りして確定し、それに対応して施設規模やサービス規模を決定します。初期投資は「補助金でもらって終わり」ではなく、しっかりとマイナスにならないよう投資回収を意識した戦略・計画を立てなくてはなりません。
目標設定のあり方も、従来の「量」で図るようなモノサシでやってはダメで、「一人あたり」の単位や効率といった視点で、計らなくてはなりません。しかし、このように根本から改善するということほとんどなく、空虚な目標を達成するための施策改善という狭い視点で「PDCAサイクル」は回り続けます。
現場は「誤った目標達成」を強いられ、疲弊する
今見てきたように、戦略選択、目標設定、そしてその目標を何がなんでも達成するがための改善というのは、大抵は意思決定者の間違いです。自治体も企業も同様ですが、トップが誤った意思決定をしてしまうと、最も負担がかかっていくのが現場です。
多くの地域政策においては、現場担当の自治体職員などは「こんなことをやっても、まちは良くならない」ということは重々承知のうえで、政治家や行政のトップ、上層部のメンバー、時に自治体OBなどが関与した「対症療法的な予算事業」を遂行しています。
最初から「無理ゲー」を戦わされることを繰り返せば、そりゃあもう、現場としてはいろいろなものを麻痺させなければやっていかれないのです。「麻痺させられた結果」が、無力感や「何をやっても難しい」、というような「否定的マインドセット」を形成してしまいます。こうなってしまうと、事業自体に全く面白みが出ず、「消化試合化」して、さらに状況は「目標は達成されず、どんどん投入する予算などが拡大するだけ」ということになってしまいます。http://toyokeizai.net/articles/-/70936?page=3
再生核研究所声明 102(2012.10.10): 成果主義の弊害について
特に アメリカからの影響と考えられるが、成果主義という 概念と言葉 が世に氾濫して、のんびりとしてはいられない世相 になって来ている。これは 優雅な感じであった ポルトガルでも 年年ひしひしと感じられる状況である。主に大学で暮らしてきた者なので、大学を主に想定しながら、その弊害を考察して置きたい。
背景であるが、アメリカでは、 多様な人種、民族が共生し、自由と平等、正義と公正 を建国の精神としており、そもそも客観的な評価を行なうは それらの基礎であり、そのために、評価システムについては 良くも悪しくも、世界で最も発展していると考えられる。それゆえに、評価、成果主義の背景には 普遍的な要素があると考えられる。正当な評価の客観化である。それらに加えて現れた要素として、財政状況が厳しくなり、 資金配分の効率化の観点から、重点配分や競争的な資金の配分である。こうなると、良い成果が挙げられる計画、貢献できるところに重点的に配分するという考え方から、成果主義の観点が強まって来る。
これらは、資金や待遇の配分に関する考え方であるが、人物評価と研究資金や予算の配分に分けて考えよう。
人物評価についてであるが、これは給与や昇任における評価で、当然、多様であり、複雑で、日本には伝統的に いわゆる 年功序列の基本的な考え が有ったが、何らかの客観的な指標によって人物を評価して、それらの指標によって処遇しようということである。
典型的なのは、大学では、研究業績、教育実績、社会貢献、学内行政貢献度などで 評価が数値化され、それによって 給与に反映されるような状況が現れている。いろいろな組織・社会でもそのような傾向が現れているのではないだろうか。
人物評価ばかりではなく、予算配分でも、期待される貢献度に応じて、資金を重点的に配分していくことは 貴重な予算を使う立場からは当然である。
上記のように考察すると、評価、成果主義には当然の背景があり、基本的に諒であると考えられる。しかし、特に 成果主義 には 何か嫌な語感が するのではないだろうか。そのような暗い面について 考察して置きたい。
そこで始めに ウィキペディア から、状況を押さえておこう:
労働意欲の向上 [編集]
成果主義により、向上心がある人は、より自分を高めようと努力する。
残した「成果」の高い人が、「成果」の低い人よりも多くの仕事をしている(成果をあげている)にもかかわらず、給与面での差が小さい場合、不満につながり、結果として商品の生産性や品質が落ちる可能性があるが、「成果」で給与を査定することにより、高い生産性を維持できる(と期待される)。しかし、成果主義による目立った成功例がなく、合理的でないとの指摘もある。また、従業員の会社への信頼感が低下して社員の能力の弱体化に繋がるとの発表もある(企業活力研究所[1])。
成果主義の欠点 [編集]
客観性のない基準 [編集]
成果は、売り上げ以外だと「品質向上の度合い」や「社員の技術力」など数値で表すことができず、客観性を見い出せないものも多い。査定者が人間である以上、査定者の基準次第で貢献量に対して成果が食い違うといったことになりがちである。査定者が社員に近いと、無意識に評価にバイアスがかかってしまう可能性もある。
また、査定基準の設定次第では「貢献したのに評価が下がった」「がんばっても評価が上がらない」という事態にもつながる。また、経営者側が単に「人件費抑制」のために成果主義を導入し、査定者が(個人的に)気に入らない従業員に対し、主観的・恣意的に悪い評価をつけ、従業員全体の人件費を抑えるケースも間々ある。
挑戦意欲の低下 [編集]
売り上げや品質が下がれば「成果が下がった」と見なされやすい。そのため、「売れるかわからない=査定が下がる」リスクが大きくなる新規の商品や意欲的な商品、そして冒険的な商品には誰も担当したがらなくなり、「安定して高い売り上げが期待できる=査定が上がりやすい」人気商品や定番商品だけにしか人材が集まらなくなる。さらに、それでも挑戦したい者がいても、巻き添えで査定を下げられたくない雰囲気になるため反対意見が続出し、失敗するリスクが高いと考えられる商品は企画が通りにくくなる。そのため、製品ラインナップには人気・定番商品のみが並ぶようになり革新的な商品・技術が生まれにくくなってしまう。
短期的な目線・結果だけの追求 [編集]
将来性といった長期的な貢献や、意欲や途中の過程(プロセス)はほとんど評価されない。そのため、後につながる商品や技術を開発したとしても目標が達成できなかったり、売り上げが低かった場合は評価が上がりにくい。そのため自主目標を設定できても短期的なものかつ達成しやすい内容になってしまう(目標を達成しても、それに対する手当や報酬が支給されるとは限らない)。
横のつながりの希薄化 [編集]
他人あるいは他部署に技術を教えるということは、すなわち相手に成果を上げさせ、自分が蹴落とされることになる可能性がある。そのため部署間はもちろん、制度によっては先輩・後輩間でも技術の継承が希薄になってしまう。また他部署が優秀な技術を持っているのにそれが使えない・使いたくないという事態につながり、効率や品質が悪化してしまう。
導入したものの頓挫した例 [編集]
いちいち容易に想像されることがよく纏められている。 要点は次のように纏められるのではないだろうか。
1) 適切な評価ができるかの 評価の問題。 特に、本来の業務や職務とは 無関係な指標で 評価している状況は 世に多いと言える。
2) 評価をあからさまに行うことの 人間関係への悪影響、競争的な感情が人間関係を悪化させる要素、評価される側も、する方も 嫌な感情を重く持つ。
3) 評価し、実行するための要務の増大。
何でも行き過ぎは良くなく、 評価は簡単な方法で、あまりぎすぎすさせないように、あまり成果、成果といった雰囲気にならないように配慮するのが 良いのではないだろうか。
余裕を持った柔軟性のあるやりよう、扱いが大事ではないだろうか。その方向での基本的な考えは、年功序列の考え方の良い背景、生活権、基本的な生存権における対する優しい配慮ではないだろうか。世に多く現れた現象は ぎすぎすした世相、成果が上がった、努力したようにみせかける 様々な見せかけの書類作りや演出 ではないだろうか:
そこに現れた社会とは、中身の薄い空虚な社会である。評価といって評価を考えようとすれば、よくやっているように見せかける為の書類作りや講演会などのセレモニーである。パンフレットや報告書が 社会にあふれた時代とも言えるだろう。評価されるべき元のもの、本務に取り組む時間と資金をそのために浪費しているような状況がいたるところに現れた、奇妙な時代を迎えていると言える(再生核研究所声明 15: 空虚な日本の社会)。
評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明 70: 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。
以 上
あく‐びょうどう 〔‐ビヤウドウ〕 【悪平等】
[名・形動]何もかも一律に平等に扱うこと。形の上だけ平等にして、かえって不公平になっていること。また、そのさま。「頭割りでは―な仕事だ」
近年いろいろな計画や政策が、場当たり式で、もともと見方が甘いずさんな計画である事が、到る所に見出されるのではないでしょうか。
全てが場当たり式、短絡的な計画が多くなされていると思います。
その原因は、深いのですが、一つの観点として、成果主義の導入 風潮があるのではないでしょうか。
最近話題になったAIGの役員のボーナスが巨額で、しかも破産寸前に追い込まれています。
成果主義をとると、関係者は、自分の在任中に見かけ上最大の成果が上がる様に、考えがちです。
するとその後は、どうでもよいという考え方になってしまいますから、極めて危険な経営のあり方になってしまいます。
これと同じようではないでしょうか。
関係者は、自分の在職中に、成果を上げたいと思い、後の事は、十分な配慮がなされなくなってしまうのではないでしょうか。
これでは世の中上手くいくはずはないのではないでしょうか
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)
主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明
再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
の題名も真実だろうが、そこで述べた、
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上
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