2015年5月13日水曜日

<差別?ポリシー?>

<差別?ポリシー?>
2015年05月13日(水)NEW !
テーマ:社会
記事
mediagong2015年05月11日 10:25<差別?ポリシー?>なぜ「ミシュラン星付レストレン」は女装者の客を「他の客に見えない場所」に座らせたのか?



安達元一[放送作家]
***
先日、知人たちとともに港区にある「ミシュラン星付き」のフレンチレストランへ食事に行った時に、大変に屈辱的な経験をしました。
訪問したメンバーの中に、トランスベスタイト(異性装者)の男性がいました。いわゆる「女装家」です。もちろん、それは宴会の出し物のコスプレでもなければ、おもしろ半分の着ぐるみのようなものではありません。彼女(?)は自分のアイデンティティーとして異性装をしているのです。もちろん、筆者も一緒に食事をともにして不愉快な思いをしたことはありません。
さて、その彼女が「ミシュラン星付き」のフレンチ店に入り、何気なく空いていた中央の席に行き、その場所に座りました。するとどうでしょう、店員がそそくさとやってきて、「店のはじっこの席」に行くように促されました。
さらに、トランスベスタイトの彼女に対して、中央に背中を向けて座るようにと言われたのです。少し遅れて入店した筆者が到着した時点で、彼女はその状態にさせられていたのです。
このいわれのない屈辱的な扱い。もちろん筆者の目の前でされていれば、その場で抗議したのですが、彼女は、ばつの悪そうな顔で寂しいそうに座っていました。あまりに悲しそうなその姿に、さすがに怒りがこみ上げてきました。
支配人を呼び、この屈辱的な扱いに対する事実確認と苦情を伝えることにしました。もちろん、楽しい食事の最中なのでその場での口頭でのやりとりは避け、「なぜ、その様な判断をこの店はするのか?」ということを、書面で回答をもらうこととしました。
そして、その店が出してきた回答が更に筆者の怒りに火を注ぐものでした。
その理由は、
「他のお客様の迷惑になるから」
だというのです。それに対して、筆者が、
「迷惑って具体的にどういう事ですか?」
と、確認をしたところ、
「他のお客さんが気になって、本来食事中にする会話が出来なくなる」
という回答です。さすがに、これには「怒り」というよりも「悲しさ」さえ覚えました。ミシュランの星がいくつ付いていようが、ここまで意識の低い店が大手を振って「有名店です」と営業できている事実に愕然としました。
ようは、
「お前は見ていて不愉快なので、他の客に見えないように背を向けて端の席に座れ!」
ということなのです。もちろん、不潔な格好をしているわけでも、ショーパブの出演衣装のような格好ではありません。純粋に、女性としての装いをしているだけなのです。
この店に聞きたいことは、
マツコデラックスがきても同じことを言うのですか?
車椅子のお客さんがきたら何と言うのですか?
アルビノ(先天性白皮症)のお客さんが来たらどう扱うのですか?
四肢欠損のお客さんにはどう対応するのですか?
もしかしたら、筆者がこういった問題について神経質なだけかもしれません。しかし、マツコデラックスのような有名人が来れば、ニヤニヤ笑いながら支配人が挨拶に来る様が目に浮かびます。
しかし、この店に腹を立てている一方で、筆者は自分が言っていることに対して「一抹の気持ち悪さ」もあります。なぜなら、「そんな店だった」とは知らなかったにせよ、自分自身の意志で「その店」選んで行っていたからです。強制的に連れてこられたわけではありません。
このお店が、ハッキリと
「うちはトランスベスタイトはお断りです」
とか、
「男性(女性)が女装(男装)していたことが発覚した場合は、他のお客様の目の届かない席にご案内する場合がございます」
などと謳っている店であれば、それはそれで潔い経営方針だと思います。愉快・不愉快には個人差はあるでしょう。店によっては通常のドレスコードもあります。「短パンとサンダル禁止」のレストランに対して、「短パンとサンダルのアイデンティティーが傷ついた!」とは、誰も言わないはずです。
最近では、箸が使えない人は入店お断りの和食店もあるようです。公共の場であれば、許されないと思いますが、店が自己主張をするのは全て非難されるものでもありません。そういった店には「客として行かないこと」を選択することができます。
トランスベスタイトの彼女はめいっぱいのオシャレをして、美しく上品に着飾っていたのです。彼女が安心して食事が出来る社会にするべきではないでしょうか。多様さの相互理解が問われているように思われます。http://blogos.com/article/111862/
店には店の有り様について、大幅な自由があるのでは?
自分の考えと違えば、そのような店を避ければ良いのでは?
店の有り様について、あまり強い 意見の表明は問題では?

再生核研究所声明 69(2011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上


再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上

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