宗教人口、イスラムが最大勢力に 今世紀末、米調査機関が予測
【ニューヨーク共同】世界の宗教別人口は現在キリスト教徒が最大勢力だが、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になるとの予測を米調査機関ピュー・リサーチ・センターが3日までにまとめた。両者の勢力が伯仲するのは人類史上初めてだとしている。
同センターは世界人口をキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、伝統宗教、その他宗教、無信仰の八つに分類。地域別などに人口動態を調査し、10年から50年まで40年間の変動予測を作成した。http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015040401001120.html
再生核研究所声明 122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
(2013.7.29.7時半、光り輝く 入り江の美しさに 感銘を受けながら、研究室に向っているとき、声明の原案が電光のように閃いた)
数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15
No.81, May 2012(pdf 432kb)
に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在証明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。それ以降も考察は自然に無意識の中でも進んでいたのであるが、
究極の信仰:
2013.7.27: 7時前ころ、ひらめいた直観である:
神は存在し、 存在も、非存在も しっかりと支えておられる。 人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。
との直観が湧き、上記のように声明に纏める事とした。 これは数学の研究で、永い考察を行なっていたものが ちょっと違った方向から 突然直観的に完全な解に達した時のような、現象である。今回のは 反例の発見や、不可能の証明に近いと言える。
そもそも神とは何だろうか、人間とは何だろうか。 動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。
人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 それゆえに、人間は あらゆる生物たちのレべルに戻って 生物たちから学び、 また原始人に戻って、また子供たちのように 存在すれば 良いと言えるのではないだろうか。 - このような精神は、悟りへの道にも通じると考えられる (再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ―)。 またこのような精神は、ヨーロッパで 4年以上暮らし、4年2か月、キリスト教の強い影響で目覚めた心情で、 尊敬する仏教の発想から出たものではないと言える。 しかしながら、ここで述べられた精神は あらゆる神と宗教と信仰の 共通の核心 であると考えられる。
本声明は、生きとし生けるもの、命あるものの 究極の救済 を求めているものである。 また、人は必要なときに必要なだけ については 再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること を参照。
本声明は 宗教の統一 を成し遂げたものであると言える。
以 上
再生核研究所声明 132 (2013.9.10): 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか
(2013.9.5.6:50 まだ 薄暗い中、研究室に向っているとき、神を如何に感じるか という、 新しい声明の原案が閃いた。)
神の問題を 直接 再生核研究所声明122 でとりあげ、述べたのであるが、それらは、意識を越えて ひとりでに述べられたと言えよう。そこで、気づいて、改めて感じたのが上記のように である。表現を試みたい。
まず、上記声明で大事なことは 神の定義を 厳格に与えたということである。― 神は存在し、一切の存在と非存在を しっかりと支えておられる存在で、 永遠や無限や愛のように 我々の想像上に存在し、信仰によって観える。 ― 極めて良い たとえ がある。よくみかける 幼児キリスト を擁かれた マリア様 の像である。キリストを ユニバーサル; すべての存在と非存在と考え、マリア様を神と考えれば よい。我々の能力では 神は定かには捉えられない ―
(動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような 存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 声明122)
大地震が世界を襲い 多くの命を奪うように、人間の都合の良い優しい神、人間を簡単に救ってくれるような いわゆる神などは存在しない (再生核研究所声明 119:冷酷な神々、自然 ― 見捨てられた人類)。しかしながら、神は、全ての存在を支えられていて、人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。 それは古代から、あらゆる社会で 祈りの形式をとってきた、全ての宗教と 神を正確に捉えるものであると考える。 これは 世界の宗教の統一 を成し遂げているものであると言える。
神を よりよく観るのは、人生の目標と言っても良い、 ― 実際、人間は、究極、神、自由、不死を求めるもの であるからである。実際、世界がより観えて、自由になり、死から解放されて 永遠のものに帰せられるは 何と素晴らしいことだろう。― 神が存在しなければ、所詮は 全ては空しく終わってしまうだろう。
しかしながら、どうしたら、如何にしたらできるかが無ければ 多くの提案は 空しいものになるだろう。そこで、どうしたら について 触れておきたい。
これはもちろん、人生如何に生きるかに近い、多様な近づき方が有るのは当然で、多種、多様である。個性にも、大いによると考えられる。得意なところから、触れたい:
数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15
No.81, May 2012(pdf 432kb)
に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在の説明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。さらに、神の気持ち、神は2を愛し給う、神は2が 好きだとか、神は恥ずかしがりや だ とか、神のいじわる、などと述べている。他の研究では 神の思わせぶりが出ていて、堪らなく楽しいとか、神がそんなに美し過ぎる数学を作っているはずがない などと述べてきた。実際、数学と数学の研究は 神との対話のような面が有って、数学は 極めて神学に近いと言える。数学の存在そのものが ― 数学の神秘性 ― 神の存在を示しているようにもみえる。
ベートーベン交響曲第9番などの美しい音楽の世界に 神を直観する者は多いのでは。美しい満天の星空を眺めていて、美しい森を歩いているとき、月光の下で、光輝く小川を眺めているとき。思えば、不思議にも修学旅行で 日本平 をみんなで歩いているとき、神がのりうつってくるような恐ろしい感覚に襲われた。芸術家の創造活動も数学の研究と同様、さらに科学の研究もみな同じようではないだろうか。生物界;生命の発生から、生体、進化いずれも神秘に満ちていて、背後に神の意志が感じられるのは多い。彫刻などにも 技術にもそのような面が出るのでは? 実際、芸でも、歌手でも、スポーツ、技術でも 神業 は世に多い。
政治社会や戦場などでもいわば 義の精神が湧いてきて、神を直観する場面は多いのではないだろうか。
お釈迦様も述べられているように、過酷な修行など逆に精神を萎縮させて、修行としては良い方向ではないようにみえる。あくまでも健康で、精神が溌剌として弾むような状態が良いのではないだろうか。心身 身を清めそれぞれの国で、文化を持つ 神殿などを参拝するのは もちろん大いに効果が有るのではないだろうか。
大事なことは、究極には 経典や教えにあるのではなくて、全ては 各々の心の中に存在するということではないだろうか。それ故に 自分の心の世界を清め、よく治める心がけが 大事ではないだろうか。神に近づく修行には終わりは無く、無限の深さを有する 神秘の世界であると言える。しかし、適切な道を見出し、歩めれば 生き生きとした人生を送ることが出来るだろう。それは力を有する愛と希望の源だからである。
以 上
再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
(これは 日蓮思想の論理構造― 一神教原理主義との対比 ― 、藤本坦孝著、 山喜房佛書林 (平成26年) を通読して感じたものを纏めたものである。)
本書は 著名な数学者(1988年、日本数学会幾何学賞受賞者)の 仏教の解説書であり、極めて興味深いものである。数学者の仏教信仰者は世に多いが 数学者による仏教に関する著書は 世に珍しいと言える。世では誤解があり、峻厳な論理や合理性を重んじる数学者が 宗教に関心を懷くのは おかしいと誤解されているのではないだろうか。
本書の内容の筋は、著者が仏教に深い関心を懐き、お釈迦様(釈尊)を崇敬され、また,
同じように釈尊を崇敬された 日蓮が 特に釈尊の教えのうちでも、法華経に帰依して 多くの言葉を残されたことに対して 著者の 人生観、世界観を元に 数学者らしい 客観的な記述で 解説されているものである。日蓮の残された教えは 膨大なものであるから、文献なども膨大であり、広くて、深い解説には驚嘆させられる。 しかしながら、著者自身の纏まりのある世界観で調和良く、纏められていて、明快に全体が理解でき、普遍的に、一般的に共感、共鳴できるものであると思われる。普遍的に お釈迦様、日蓮の教えの本質を 平易に明快に解説されていると考えられる。
著者自身の中心思想として、
縁起観、久遠の本仏の概念を挙げることができるが、著者は、
それらが相争うことなく、それぞれの長所を発揮しあって相互に照らし合う世界を求めることが志向されているもの(232ぺージ)、また、あらゆる存在が相互に絡み合ったなかで起きており(1ページ)
と 世界の宗教の統一、世界の調和を求め、
永遠のいのちの考えに達しており、史上多くの高僧が現れた輝かしい仏教の世界で、著者自身素晴らしい境地に達しておられるように感じられる。
本書は 日蓮に対するいろいろな誤解を解き、日蓮に対する崇敬の念を深め、同時に仏教の本質を簡明に解き明かした著書として、 世で高く評価されるのではないだろうか。
著書の はじめに の部分は 全ての人の心をうつのでは ないだろうか。
再生核研究所は 世界の宗教の統一を思考した:
再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
再生核研究所声明132 (2013.9.10): 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか。
(2013.9.5.6:50 まだ 薄暗い中、研究室に向っているとき、神を如何に感じるか という、 新しい声明の原案が閃いた。)
が、本書の内容全体は素晴らしく、受け入れられ、共感、共鳴できるものである。
このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返すがえすも残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。 日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。
以 上
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