2015年3月31日火曜日

山本太郎氏「"貧乏人は死ね"が政府の本音」

山本太郎氏「"貧乏人は死ね"が政府の本音」
記事
山本太郎2015年03月30日 12:57【DMMニュースより】山本太郎が憂慮「安倍政権が加速させる貧困問題」

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この記事は、2015年3月20日のDMMニュース「山本太郎の政界デッドボール放談」に掲載されたものの引用になります。
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貧困って、身近に感じる?
僕は正直、東電原発事故の前までは、貧困、って聞いてもピンとこなかった。
自分は幸運なことに、生活困窮の経験なし。
周りに貧困状態の人もいなかった、若しくは気づいていなかった。
僕の中で日本の貧困は、ごくたまにすれ違うホームレス状態の人、くらいの理解だった。
貧困は、ほぼアジアやアフリカの途上国の話でしょ?って。
東電原発事故を入り口に、恥ずかしながら、30代後半にさしかかって、やっと、やっと世の中を見る目がホンノちょっぴり拡がり、問題だらけと気づいた。
そこから見えた景色は180°、今までと違った。
自分は、自分の事だけを考えてしか生きて来なかった、とカミナリに打たれた気持ちになった。
最初のキッカケは、貧困の当事者から聞いた話だった。
原発が爆発しようが、家族を移動させる電車賃さえないのだから、どこにも動けませんよ、と。
東電原発事故の影響を考え、移住、と言う話が出るたびに、それを阻む要因で上げられていたのが、祖父母が孫との別居を許さない、地域とのシガラミ、男が仕事のキャリアを諦めきれない、先祖が守った土地を守る、などの話は聞いた事があった。
電車賃さえも捻出する事が不可能、私たちに選択肢はない、と言う答えに衝撃を受けた。
大人が貧困ならば、同じ家庭にいる子どもも、もちろん貧困。
貧困家庭の子どもは、夏休み中、やせる、と聞いた。
学校があれば、給食を食べる事ができるが、夏休みの様に長期の休みになると、一食減ってしまうので、終業式と次の始業式では体重が変わってしまう。
なんと悲しい話だろう。
その話を聞いてふと、中学時代を思い出した。
学校の食堂でうどんやそばを食べていると必ず、「汁、飲ませて~」とかなり冗談ぽく絡んでくるクラスメイトがいた。
その時は、食い意地が張った人、程度にしか考えなかったが、今思えば、厳しい経済事情の家だったのかも知れない。
貧困状態にある子どもは、孤立してしまう、と聞く。
友達とどこか行くのも、食べにいくのも、お金がなきゃできない。
中高生ともなれば、トンボを追いかけたり、花の蜜を吸ったりで満足できる年頃ではない。
ゲームセンターに行ったり、映画を観たり、ファーストフード店でお喋りしたいものだ。
毎回、誘いを断っていれば、そのうち友達から誘われなくなる。
同じシチュエーションの友達以外はできづらいだろう。
生活保護受給者や低所得の立場に置かれた人々も同じ。
人と最低限繋がるにはお金が掛かる。
子どもでも、大人でも付き合いにはお金が掛かる。
誰かに会いに行くにも交通費が掛かる。
人とお茶や外食するのもお金がいる。
冠婚葬祭に参加するには、お祝い金や香典も必要。
過去の生活保護の分科会では、年配の方々は、近隣、知人、親戚等への訪問や墓参などの社会的費用が他の年齢層に比べ余分に必要、と話し合われ、老齢加算として70歳以上の人に保護費をプラスαされる事になったが、自民党政権時代の平成16年度から3年かけて廃止されてしまった。
ギリギリの生活では、人と関わる場面を減らす、無くさなければ生活できない。 当然、疎遠になり、孤立して行く。
我が国の6人~7人に1人は貧困状態に置かれている。
これからその数はより増え、高齢化していく。
このままでは今よりもお年寄りの孤独死や、経済的に厳しいことで人と関わる事が難しくなる若い世代も増えていくだろう。
日本国憲法で、健康で文化的な暮らしが保障されているはずではないのか?
「文化的な暮らし」って言うなら、人との関わりを持てる位のお金が最低限、必要ではないだろうか。
安倍政権は生活保護基準(生活扶助費)を10%引き下げるだけでなく、今年一月、厚労省は生活保護の住宅扶助と冬期加算の引き下げの方針を発表、7月からの実施を見込む、との事。
それにより、文化的どころでない生活を強いられる人々が生まれる。
住宅扶助とは、生活保護の家賃にあたるモノ。
住宅扶助の引き下げを要求する財務省の言い分は、低所得者の平均家賃より、生活保護受給者の住宅扶助の上限が2割高くなってるのがおかしい、と。
この言い分の問題点は2つ。
1つは、低所得者の収入自体が低すぎる。
本来、生活保護を受けられる低所得者が受けられていない。我が国では生活保護を受けるべき人が2割程度しか受けられていない。
生活が貧困に近い、と言う層との比較は無意味。
もう1つは、平均の数字を出したところで、実情がわかるか?
地域や事情によっても家賃は違う。
引き下げによって、住み慣れた街を出て、人間関係も一から作り直せってこと?
ただでさえ、見つかりにくい物件を、また探し直さなければならないし、また新たに人間関係を作り直す、若しくは諦める、という状態に追いやられる人々が大量に生まれる事は考えていない。
高齢者、傷病者などが生活保護受給の7割以上を占める現状を全く考慮していない。
冬期加算。
全国を6地域に分ける。気温、積雪の期間などを考慮して加算される。
暖房に使う燃料や、防寒着など、厳しい冬を生き抜く為に必要な措置。
これが引き下げられれば、どうなるだろう。
当事者から聞いた話では、朝、自分の寝床に舞い落ちる雪で目が覚め、ストーブをつける時間も厳格に決め、日が暮れれば布団に入り、光熱費を節約する生活だと言う。
これが冬の北海道や東北、北陸などでは、余裕で氷点下。
冬型が強まれば、場所によっては、マイナス二桁、と言う気温にもなるだろう。
想像するだけで胸が締め付けられる。
こんな生活で、健康で文化的な暮らしと言えるのだろうか。
 2015年1月28日参議院本会議、民主党相原久美子議員の代表質問に答えた塩崎厚生労働大臣は、「生活保護についてのお尋ねがございました。 生活扶助基準については、一般低所得世帯の消費実態や物価の下落を勘案して見直しを行ったものであり、最低限度の生活を営むのに支障のない基準となっていると考えております。また、生活保護法は、日本国憲法第二十五条に定める生存権保障の理念を具体化する趣旨で定められたものであり、政府としては適切に制度を実施しているものと考えております。」と答弁した。
想像力もない人間たちが政治や政権を担当しているのだから、ここまで酷い事になるのも当然だろう。
原因の1つは、それを選んだ、又は、投票を放棄した有権者の責任だ。
もちろん自分も含む、だから変えたいんだ。
貧困状態や低所得世帯など、家計が苦しい子どもたちの学校生活をサポートするのが、就学援助。
例えば、給食費、修学旅行費、文房具代、クラブ活動費などをカバーするもの。公立小中学校生の6人~7人に1人が受けていると言う。
この就学援助が、安倍政権の施策により、今まで受けられていたのに、受けられなくなる子ども達が拡大した。
例えば、東京中野区では200人、横浜市では、977人が対象外になったと言う。
この状況を作り出したのは、間違いなく安倍政権。
第二次安倍政権が誕生し、真っ先に手を付けたのが、生活保護基準の10%引き下げ決定。
生活保護基準を引き下げれば、それと連動して、数々の制度に影響が及ぶ。
生活保護基準は、最低賃金法ともリンクしており、引き下げられた事により、最低賃金が上がりづらくなる状況が生まれる。
国連からも日本の最低賃金は安すぎる、と勧告を受けているにもかかわらず、最低賃金が上がり辛くするとは、気は確か?
もちろん、気は確か。
これは安い労働力を欲しがる経済界への恩返しにすぎない。
その他にも、生活保護基準と連動する、高齢者の介護保険料の免除など、低所得者に対する支援制度、38もの制度が、引き下げになる。
政権をとって、真っ先に手を付けたのが、社会的に弱い立場に置かれた人々に対する切り捨て。
もう既に、二年前にハッキリと、制度の変更をもって、この国の未来は宣言されている。
貧乏人は死ね。
お前ら自己責任で生きろ、と言うのか。
自己責任で生きろ、ってスタンスの国に、どうして税金を納めなきゃいけないのだろう?
散々、税金を払わされて、受けられるサービスが極端に少ないなんて、あり得ないだろ。
一体、何様のつもりなんだろう。
殿様か?
いやいや、この国に生きる人々が納めているのは、年貢じゃなくて、税金。
勘違いされては困る。
総理であろうが、大臣であろうが、ヒラの国会議員であろうが、税金で食べさせて戴いている。
国会議員も、大臣も、総理大臣も何ひとつ偉くない。
期間限定の代理人にすぎないんだよ。
1番弱い立場に置かれた人々を切り捨てる事も政治、というなら、政治なんて存在する意味なし。
勝手に生きろ、って政治なら、もう必要ない。
あなたが、私が、万が一、生活困窮という立場に置かれた場合、人間の尊厳を失わず、絶望せず、もう一度人生を歩き出せるセーフティネットを担保する為にも、政治は必要なんだ。
税金払う値打ちがある、って感じて貰える政治、お金の使い方やろうぜ。
社会的な地位がある、収入があるお金持ちには、少々高い税金を払って戴かなきゃならないんだよ、例え政治家や政党の大切なお友達であってもね。
それが富める者の社会的な務めなんだ。
道徳教育が必要なのは、政治家と高級官僚だけじゃない。
税金が高くても自分の納税がこの国と立場の弱い人々を支えているんだ、って言う気概も持てない強欲で根っからの成金気質の大企業の経営陣にも必要ではないか?
自分たちの税金が安すぎる、もっと俺たちから税金を取れ、と富裕層への増税に賛成しているフェラーリの会長や投資家のウオーレン・バフェット氏、の爪の垢でも煎じて飲んでもらった方がいいだろう。
社会的使命を無視して、自分の私腹を肥やす親父達に財産の全ては墓場に持って行けない、と理解できる道徳教育が1番必要ではないか?
今やるべき事、直ちに手を打たなきゃならない事はハッキリしている。
消費税廃止に向けて一旦税率を5%に戻す。
資産課税と所得税の累進制強化。
生活保護基準の10%引き上げ。
最低賃金の大幅引き上げ。
希望者の全員正社員化。
奨学金の完全無利子化。
これらができなければ、貧困問題は拡大の一途。
現状では、貧困家庭に生まれた子どもたちは、貧困のループからほぼ一生抜け出す事は出来ない。
最近の若い奴らは根性が足りない、やる気がない、とかの話じゃない。
それ以前の問題なのだ。http://blogos.com/article/109018/
社会はバランスが大事、 山本太郎氏のような視点は 大事では?

3.10 悲しいニュース、心中(2007/7/21): 
4歳の子を道連れに 夫婦と3人で 川の字になって 練炭で心中したというニュースが流れました。 親族や友達に祝福されて、6,7年で人生を閉じた事になります。 悲しいニュースです。 実は心情として理解できる事があり、少し私の考えはおかしいのではないかと家族にも、友達にも言われているのですが、それは今夜は触れない事にして、一般的なことを触れておきたいと思います。先ずご夫婦の追い込まれた心情、そのご両親、ご親族の嘆きは如何程かと思うと心が痛みます。- 祖父の長兄は 母が生きているうちは 悲しませないように病気になるな、頑張れと叔父、叔母達によく言っているということです。- 現実に上手くいかなかったとき、助けを求めてはといっても、人間には誇りも名誉もあるので、素直になれないことがあるのではないでしょうか。 よって具体的には、事業などで失敗した場合に何か上手く、援助できるような在り様を考える必要があるのではないでしょうか。憲法25条の精神を如何にして、実現させ、失敗しても立ち上がれる機会を如何に作っていくかです。昔の話ですが、祖父の友人が実業家で、 何度も失敗を繰り返して、実業は面白いといっていたというのを思い出します。燕の生涯について思いをしていますが、人生苦労が多く、休憩している時が幸せな時とも言えます。 ー 楽することだけが人生ならば、早く閉じた方が幸せとも言えるのではと昔から、疑問に考えてきました。 しかし、人生はそうではなくて、人生とは何かを人生の基本定理で述べてきました。ー 人生には失敗はつきものですから、今回は失敗として、気分をかえ、素直に援助を求め、再挑戦して頂きたく思います。 失敗は恥ずかしい事ではないという風潮を、文化を広めたいと思います。
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上
再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。
言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。
以 上

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