偽善】は、悪いことのように言われますが
世の中のほとんどは、偽善でなりたっているように
感じます。
人間関係を成り立たせる為に必要なことのように感じることもあります。
本当に強くて優しい人は、そういないと思うし共感してもらえないと不快に感じる人が多いのに本当のことを求める気持ちには、疑問を感じます。
どうして【偽善】という言葉に対して過敏に反応する人が多いのだろうと思いました。
そんなに、みんな偽りなく生きているのかな。そう思います。
誰かの善意に偽りがあるないと何を基準に判断していると思われますか?
この疑問も、また、偽善を悪く思う方と同じ考えのように思いますが
このカテゴリーで質問・回答をされている方のお考えを
偽善という言葉自身 曖昧な言葉で、 偽善にみえる 良いことが 良い社会を作っているのでは。
再生核研究所声明217(2015.3.13) ご自愛を ― 健康第一
2015.3.7.風呂から上がり運動をいつものようにしているとき、健康の重要性に思いを致し、その要点を纏める構想が湧いたのであるが、声明でずっと直接的には取り上げられておらず、基礎の基礎に思いがいっていないことを知って愕然とした。健康問題について言及したのは 次の声明で、次の部分である:
再生核研究所声明203(2015.2.4)人間とは何か、人生とは何か:
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。
健康ならば、夢も、希望も、感動も湧き、人生は嬉々としたものになるだろう。
すなわち、人間とは、生命力のもとに 精神的に存在して、始めも終わりも 生命作用そのものによって支配され、我々が単に生かされている存在であることを知るだろう。それは、目覚めとその後、睡眠に入るとき、日々確認できる。人生も同じようなものである。されば、個々の人間を生成させている、育成させている環境の重要性に想いを致すということが大事であるということが 本声明の趣旨である。しかしながら、我々が単に生かされている存在であるということは 何を意味するであろうか。―
しかしながら、良い環境、良い健康状態、さらに、 良い食、良い人間関係、音楽、芸術、創造性などは 人間を元気づける。
人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。
上記のように 人間が 肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる 存在であるとすれば、その存在を支えている健康状態の維持は 最も基本であると言える ― 実際、 まず健康と世に広く謳われている ―
しかしながら、再生研究所声明でもそうであるように、最も大事なことが意外に疎かにされている現実は広く見られる。 特に、若い時代の暴飲、暴食、過度の無理や疲労、危険な冒険や危ない事、それらの影響は 世の道理として、人生の後半に 徐々に影響が現れるは 広く、世に見られる。 そこで、生命の基本定理: 生きて存在しなければ 始まらない を深く受け止め、 健康に気を付けようが この声明の趣旨である。
毎日、毎日、起きている時も、寝ている時も 血液を全身に送っている心臓、毎日、毎日 食されている食物を消化し、エネルギーに変えたり 組織作りに活かしたりしている消化系器官、呼吸器官など諸々の器官も同様であり、何時も働いている視覚器官、聴覚器官等々。我々の身体の総体に対する謝意は 最も近くの存在に対するものであり、その意味における ご自愛は まこと基本的な精神でなければならない。
もちろん、健康とは、心身、社会的にも健全な状態であるから、夢、希望、志,熱情,愛などが湧き心も生き生きとした状態であり、人間関係なども 良好なものでなければならない。
以 上
再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
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