2015年3月16日月曜日

永遠とは何ですか?

永遠とは何ですか?

終わりがない。無量大数。無限。死後の世界。宇宙。

考えると狂いそうになりませんか?

もし永遠という中に存在してしまったら何を望みますか?それが終わることですか?では終わったらどうなるのでしょう。

人間の心というのは何処からきて何処へ行くのでしょうか。心=精神でしょうか。僕が胎内に宿ったその瞬間僕の精神は存在したのでしょうか。僕が死ぬ瞬間僕の精神はパッと消えてしまうのでしょうか。

輪廻転生とは言いますが終わりがあるはあるのでしょうか。何億回何兆回か生まれ変わって今の自分があるということでしょうか。1回目の始まりはどこから?いつ?終わりはくるのか?終わったらどうなるのか?

死ぬのが怖いです。永遠の時間をさまようのでしょうか。そこにあるのは無でしょうか。無の空間で永遠と。これほど恐ろしい言葉はありませんよね。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11143135791

永遠は 想像上の存在で 心の中に有りますね。 大丈夫 世の中は 上手くできていますので、あまり 先走りをしないで、近くのことで、楽しいようにしていれば、段々 人生面白くなります。

再生核研究所声明で、心得など沢山まとめています。

再生核研究所声明216(2015.3.12) 死について、死からの解放について

この問題は 宗教の大きな問題ばかりではなく、死を畏れるは 知恵の始めなりと言われるように、人間にとっては 相当大事な問題ではないだろうか。 再生研究所声明でも相当に触れられてきている:

再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道

再生核研究所声明 47: 肯定死

再生核研究所声明 63  解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得

再生核研究所声明 68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること

再生核研究所声明 99(2012.9.24) 死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案

再生核研究所声明 118(2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 

再生核研究所声明 120(2013.5.24): 終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく  肯定死の保証 と 方法の確立を

再生核研究所声明 122(2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。

再生核研究所声明 141(2013.11.14): 結局、人間とは、人生とは 何だろうか、どの様なものか

再生核研究所声明145(2013.12.14): 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察

再生核研究所声明149(2014.3.4): 生きること、生命の本質、活動して止まないもの

再生核研究所声明192(2014.12.27): 無限遠点から観る、人生、世界

再生核研究所声明203(2015.2.4): 人間とは何か、人生とは何か

再生核研究所声明205(2015.2.11): 宿命論

上記からも分かるように、人生の問題は 相当に死の問題に関わっていることが分かる。多くの人は 死からの解放、自由になれることを望んでいるのではないだろうか。そこで、そのような視点から、その心得を率直に纏めてみたい。

まず、死の実体であるが、死によって我々の精神活動は停止して、何も分からない状態に陥り、一切の感覚を失い、意識を失ったような状態に至ると考えるのが 妥当である。これらは、至るところで経験する事実である。これは 死後の世界が生まれてくる前のようであると 楽しく想像するのが良いと考えられる。 死とは解放であり、全ては言わば天国への道であると考えられる。

およそこの世の全てのことは 必然である地球の絶滅と共に 滅亡し、世界史は消え、上記のように、地球の誕生以前のような状態に至ると考えれば、心持ちとして、この世の問題は 大したものではなく、もっと気を楽にして、楽しく志向するが良いと思われる。

しかしながら、人生では 始めも分からず、先も分からず、現世もよく分からない人間の実態をしっかりと捉えれば、我々の存在と意識を超えた大いなるものをしっかりと捉えられ、われわれは 意識薄い、幼き頃 母親に抱かれていて、すっかり何もかも任せて安らかにしていた時のように 私たちは愛されている という 信仰をしっかりと確立できれば、人生の切なさから解放されるのでは ないだろうか。 信仰の問題は 個人の心の問題であるから、大いなるものの存在は自明であるとしても、捉え方は 個人の 心の状態によるものと考えられる。しっかりとした信仰を持てる者は まこと幸せであると言える。

しかしながら、意識しようが、しまいが、生けとし生けるものは 死によって すべて解放され、救われることは、歴然であると考えられる。

しかしながら、生命の基本定理、生きて存在しなければ 始まらない。人間存在の原理,存在、智、愛 をしっかりと捉えて置きたい。

以 上


再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。

と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。

食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。

富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。

一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。

進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。

賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。

それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。

ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。

以 上



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