神の存在証明(3)ニュートンによる神の存在証明 山崎純二
2015年3月13日07時07分 コラムニスト : 山崎純二 印刷 Facebookでシェアする Twitterでシェアする関連タグ:山崎純二
ニュートンによる神の存在証明
前回紹介したデカルトによる神(GOD)の存在証明は、代表的な4つの「神の存在証明」のうち、「本体論的証明」と言われているものですが、今回は、もう少し分かりやすい神の存在証明を紹介したいと思います。それはかの有名なアイザック・ニュートンによる逸話として知られているものですが、おおよそこのような内容です。
ある日、ニュートンの友達で無神論者の科学者がニュートンの家に訪ねてきました。そこには、太陽と惑星と地球と月の精巧なモデルがあったそうです。それは月を回すと地球が自転し、さらに太陽の周りを公転するといった精巧なモデルだったようです。
それを見た友人がニュートンに言いました。「おいニュートン、これは立派な宇宙のモデルだな、一体誰がこんなすごいものを作ったのだい?」。ニュートンは言いました。「誰でもないさ」。その友人はむきになって反論しました。「おいおい、誰でもないって冗談はよしてくれ、こんな立派なものが勝手にできたとでもいうのかい? そんなことは有り得ない、誰かが作ったに決まっている」
ニュートンは答えました。「おやおや、おかしなことをいう。君は常日頃から、こんなモデルなど及びもつかないほど精巧で複雑な宇宙が、何人にもよらず偶然の産物によってできたのだと主張しているではないか? それなのに本当の宇宙に比べれば、はるかに単純ではるかに小さなこのモデルが偶然にできることはあり得ないというのかい? この矛盾をどう説明するつもりかね」「・・・」
かくしてニュートンは、無神論者の友人に神の存在を承服させたということです。つまり宇宙のモデルに作り手がいるように、宇宙にも当然それを作った神が存在することを論理的に帰結させたのです。
ある人はこれに関してこう反論します。「いやいや、人が作ったモデルは小さくて見ればすぐに人間の作だとわかるけれど、宇宙はもっと大きなものだから何かが作用して偶然にできたのではないか」
徳川家康の時代に書かれた「妙貞問答」でも同様の疑問を扱っているようです。これは、妙秀という尼とキリシタン幽貞の問答というかたちを取っている小冊子で、1605年に刊行されたものです。一部を分かりやすいように、抜粋・改編して引用してみます。
(幽貞)・・・家に大工がいるように、天地の万物にも同じく創造者たる大工さんによらないでどうしてできましょうか。
(妙秀尼)今、たとえにおっしゃった家などのような物は、寸法のある物は作ったということはなるほどと思いますが、測ることもできない、ふち(境界)もない天地をどうして作られた物といえましょうか。
(幽貞)「見当もつかなく境界もない天地だから、それを作った方がいない」とおっしゃられるのならば、その理由をいって下さい。・・・その理由は、難解なあなたの宗教にもあるはずと思われます。
(妙秀尼)いや理由といっても別に思いつくわけでありませんが、ただこのような広大な天地ですから、作り手がいそうもないというだけです。
(幽貞)理屈はないけれど、ただ作り手はいそうもないなどとは、個人判断のことです。まずよく聞いて下さい。私がいうのは、この天地は広大ですから作り手がいないわけがない、ということです。・・・大きくてむずかしい物よりも小さくて簡単な物は作りやすいでしょう。たとえば・・・行灯(あんどん)は家より簡単にできるにちがいありません。しかし、この簡単な行灯でさえもひとりでにできた物でないならば、どうして家がひとりでにできるでしょうか。・・・(これらに)比べればいうまでもなく・・・(大きくて複雑な)天地がひとりでにできたとはいえないでしょう。
(妙秀尼)・・・
全部は引用できませんので、ここまでにいたします。幽貞は、より大きくて複雑な物ほどより作るのが大変であり、しっかりとした作り手と設計が必要であると主張しているのです。
似たような内容の重複になってしまいましたが、万物を造られた神の存在証明の要になる点なのであえて列挙させていただきました。このような証明方法は4つの代表的な神の存在証明の一角であり、「目的論的証明」と言われるものです。現代のアメリカなどにおいては「インテリジェント・デザイン」という運動が、同様の主張をしているものとして有名です。
個人的にはこの「目的論的証明」と、後に触れる予定の「宇宙論的証明」が十分に創造神の存在を証明していると思います。実際に、この2つの証明に対してはこれといった十分な反駁がなされていません。
それならこう反論する方もいるかもしれません。「じゃあ何者かが世界を作ったと仮定して、それが神であるとなぜ言えるのだ? もしかしたら宇宙人や人格を持たない宇宙のエネルギーがそうさせたかもしれないじゃないか」
なるほど二理も三理もある反論です。実際にこれらを大真面目に信じている人々も多くいらっしゃいます。大物ハリウッドスター、トム・クルーズも宇宙人が存在するとする宗教(サイエントロジー)に入っているくらいですから。それでは宇宙人説と人格を有さない偉大な宇宙のエネルギー説について扱ってみたいと思います。
ただその前に、次回はインマヌエル・カントによる神の存在証明について書かせていただきたいと思います。
※ニュートンの逸話は、実際には他の学者によるものであるという説もありますが、誰が主張したのかが重要なのではなくて、内容にこそ意味があるので、そこには踏み込まないことにします。
※ハビアン著『妙貞問答』(1605年刊行)http://www.christiantoday.co.jp/articles/15498/20150313/kami-no-sonzai-3.htm
再生核研究所声明 122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
(2013.7.29.7時半、光り輝く 入り江の美しさに 感銘を受けながら、研究室に向っているとき、声明の原案が電光のように閃いた)
数学とは何か ― 数学と人間について
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15
No.81, May 2012(pdf 432kb)
に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在証明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。それ以降も考察は自然に無意識の中でも進んでいたのであるが、
究極の信仰:
2013.7.27: 7時前ころ、ひらめいた直観である:
神は存在し、 存在も、非存在も しっかりと支えておられる。 人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。
との直観が湧き、上記のように声明に纏める事とした。 これは数学の研究で、永い考察を行なっていたものが ちょっと違った方向から 突然直観的に完全な解に達した時のような、現象である。今回のは 反例の発見や、不可能の証明に近いと言える。
そもそも神とは何だろうか、人間とは何だろうか。 動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。
人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 それゆえに、人間は あらゆる生物たちのレべルに戻って 生物たちから学び、 また原始人に戻って、また子供たちのように 存在すれば 良いと言えるのではないだろうか。 - このような精神は、悟りへの道にも通じると考えられる (再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ―)。 またこのような精神は、ヨーロッパで 4年以上暮らし、4年2か月、キリスト教の強い影響で目覚めた心情で、 尊敬する仏教の発想から出たものではないと言える。 しかしながら、ここで述べられた精神は あらゆる神と宗教と信仰の 共通の核心 であると考えられる。
本声明は、生きとし生けるもの、命あるものの 究極の救済 を求めているものである。 また、人は必要なときに必要なだけ については 再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること を参照。
本声明は 宗教の統一 を成し遂げたものであると言える。
以 上
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