2015年3月28日土曜日

文明は共同作業で始まった、マヤ遺跡で発見

文明は共同作業で始まった、マヤ遺跡で発見
  [2015/03/26]
文明の起源で新しい成果がもたらされた。中米で栄えたマヤ文明の初期は、公共祭祀などの共同作業を通じて社会的な結束が進み、徐々に人々が移動生活から定住に移行していったことを、米アリゾナ大学の猪俣健(いのまた たけし)教授と茨城大学人文学部の青山和夫(あおやま かずお)教授らがグアテマラのセイバル遺跡の詳細な再発掘で明らかにした。文明の起源を探る重要なモデルになりそうだ。那須浩郎(なす ひろお)総合研究大学院大学助教、米延仁志(よねのぶ ひとし)鳴門教育大学准教授らの計7カ国の研究者が参加する大規模な国際共同研究で、3月23日付の米科学アカデミー紀要オンライン版に発表した。

写真. セイバル遺跡のマヤ文明初期の住居跡(撮影:青山和夫茨城大学教授)
セイバル遺跡はグアテマラを代表するマヤ文明の大都市遺跡。ジャングルの真っただ中の高さ約100mの丘陵にある。米ハーバード大学の調査団が1960年代に調査して、有名になった。しかし、この発掘は主に表層に限られ、西暦250年以降の古典期マヤ文明に焦点が当たり、紀元前1000年ごろにさかのぼるマヤ文明の起源や盛衰は謎として残った。今回の研究チームは約40年ぶりに2005年から、セイバル遺跡の発掘を再開し、10m以上まで深く広く掘って、公共祭祀などの大型建物や住居跡、土器などの資料を採取し、最新年代測定や植物学も駆使してマヤ文明初期の歴史に迫った。
その結果、紀元前1000年ごろのマヤ文明初期に大規模な広場や公共祭祀の建築物は現れたが、定住用の住居跡はわずかだった。焼き畑や狩猟をする集団は移動生活が主で、一時的に公共物建設に参加していた様子がうかがえた。その後、次第に定住するための住居が増え、紀元前300年ごろに定住が定着したことを確かめた。
文明の初期に関する学説では、「定住集団と非定住集団はそれぞれ別の共同体を形成し、定住の後に大規模な公共祭祀建築が建設された」といわれてきた。研究チームはセイバル遺跡の再発掘で、この従来の学説を覆した。狩猟採集民が定住する新しい生活様式は同時に起こらず、まず大規模な公共祭祀建築が建設され、定住性の度合いが異なる多様な集団が交流しながら、全員がやがて定住に移り、古代都市が形成された、という文明初期の発展の仕方が浮かび上がった。
マヤ文明の初期には、公共祭祀や公共物建設の共同作業で人々が結束を強め、社会的アイデンティティーを高めたことが重要な役割を果たしたことになる。マヤ文明は紀元前1000年ごろから栄え、中米で文字、暦、天文学を発達させた。16世紀のスペイン人の侵略で破壊されたが、現在も800万人を超える子孫たちが中米で現代マヤ文化を創造し続けている。
青山和夫教授は「セイバル遺跡を徹底的に発掘して、マヤ文明の起源と初期の発展をかなり解明できた。今回の成果の意義はマヤ文明にとどまらない。定住の前にできた巨大なモニュメントがトルコでも最近、発見されている。文明はすべての人々が定住して始まったのではなく、非定住も含めて多様な集団が共同作業しながら、定住の度合いを増して都市が形成されたというプロセスがより普遍的ではないか」と話している。http://news.mynavi.jp/news/2015/03/26/094/
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。 
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん

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日本の財政を考える  より
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).

再生核研究所声明152(2014.3.21) 研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
今回、100/0=0,0/0=0の発見と研究活動で いわば、研究のライブの状況が明瞭に現われたので、研究の現場の状況として纏めてみたい。多くはメールや文書で 時刻入れで 文書が保管されている。一般的に注目すべきことはゴシック体で記そう。
まず、発見現場であるが、偶然に 印刷された原稿を見て発見したと言うことである。思いがけないことに、気づいたということである。言われてみれば、当たり前のことで、気付かない方がおかしく、馬鹿みたいなことになるだろう。たわいもないものの類である。しかし、結果が尋常ではないので、大事だと 説明されても、原稿を見せても そんなものは駄目、全然価値が無いと結構多くの人が大きな批判を寄せてきたのは 大いに注目に値する。わざわざ複数の外国からメールがいわば上司にきて、批判して、研究内容について意見を求めるメールさえ するのを禁じられた程である。予断と偏見によるもの、が大部分であると判断できる。それから 価値観に本質的な違いがあること を露わに実感した。原稿を見て、これは 面白いと捉えて 研究を発展させて素晴しい論文を書かれた者がいる一方 そんなの 駄目だ で、ただ批判して傍観している者。これは 研究者の素養として、能力として極めて大きな問題ではないだろうか。研究内容の、良い、悪いが判断できない、興味、関心が無い。愛が無ければ見えない、進まないは 基本では? 研究において、最も大事なのは、愛が有るか、関心が有るか、価値を認められるか、好奇心が有るかではないだろうか。 これらが無ければ、幾ら宝のようなものに出会っても、探し出せないのではないだろうか。あることに 高い価値を見出し、情熱的に追及して行く精神は、研究者としての素養として大事ではないだろうか。良いか、悪いか評価できなければ、判断出来なければ、唯 夢中で何かの延長を 他を意識して進めるだけになってしまう。良いものを 良いと評価できる能力は、理解力、解決力、創造力などと共に大事な能力ではないだろうか。場合によっては、人格の高潔さにも依存する要素も多い。意図的に無視するは 世に多いからである。
それから、新しい考え、発想が無意識の内に湧いてくる ものであるという、事実である。目を覚ましたら解けていた、新しい考えで 突然目を覚ましたと繰り返して書いてきた。それから、それらは精神状態によるのであるが、コーヒー、茶、特にジャスミン茶で 大いに興奮して、どんどん考えが湧いて来るのを実感した。結構、そのようなものの影響も無視できない。
それから研究活動で大事な要素は 積極性である。今回、多くの人が 研究に参加されたが、意外な人が 意外な才能を発揮して、意外な視点を 指摘され、発展させてくれたという顕著な事実である。全然興味を懐かないような人でも 話すと興味を示し、大きな貢献をしてくれた。現在のように忙しく、論文を送られてきても読む暇も、関わる余裕も無いは 世に多い現象であるが、直接話すと 本質を理解されて、興味を懐くは 世に多い。直接交流の重要性を指摘しておきたい。メールなどでも、交信からいろいろな刺激を受け、考えが湧く素に成るのは多い、精神が鼓舞される場面も多い。それから、凄い発見を事実上していても、理解が難しい、あるいは批判を恐れて 追求を諦めてしまう、主張を避けて諦めてしまうのは 世に多いのではないかとも感じられる。良いものを発見しても、認められるまで、努力するのは そう簡単なことではないように感じられる。
最後に 研究の最も大事な心を 2014.3.11ブログに書いた記事を編集して記して置こう:
特異点解明の歩み100/0=0,0/0=0:関係者: 独断と偏見、人類の知能
ふと思い浮かんだ: 天才少年の質問(再生核研究所声明 9: 天才教育の必要性を訴える ):
0.999…. = 1 の意味は、何か
当時8歳の少年でした。私は だれをも納得させる明快な解答を与えたが、相当な、国内外の相当な数学者に尋ねたが これまで誰からも満足する解答を得なかった。これは 知識で、学んでいて 理解が薄っぺらなことを言っているのではないだろうか。少しも、真智を求めては来なかった:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.(もっとも何でも は 究められない)
それ故に、ゼロで割る考えが 思い浮かばなかったのでは。人類の知能は その程度である。真智を求めている者は 世に稀であり、多くは断片的な世界に閉じこもり、埋没し、自己さえ見失っている。また、日常生活に埋没していると言える。
以 上

再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:


再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観


しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。


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