2018年6月29日金曜日

「神の不在」引き受けた巨人 ジャン=ポール・サルトル「存在と無」 大澤真幸が読む


「神の不在」引き受けた巨人 ジャン=ポール・サルトル「存在と無」

大澤真幸が読む

 20世紀の中頃、サルトルは思想界の皇帝だった。サルトルの文学と哲学は世界中で読まれ、彼の政治的行動が注目された。今日彼に匹敵する巨人はいない。どうして人々はあれほどサルトルに熱狂したのだろう。
 サルトルは、「神の不在」を率直に全面的に引き受けた最初の(西洋の)思想家だったからではないか。彼は、「王様は裸だ」と叫んだ少年だ。カント以降の哲学者は、「神」に明示的に言及して議論を正当化することは稀(まれ)だが、なお神の存在を暗黙裡(り)に前提にしていた。しかしサルトルは「神はいない」と叫び、そこから出発した。
 するとどうなるか。人間には、神から与えられた目的も意味もない。だから人間は自由だ。いや自由であるほかない(「自由の刑に処せられている」)。ここから、『存在と無』の最も重要な命題、対自存在(意識をもった存在、つまり人間)は「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」が出てくる。私は定まった意味や同一性もなくまず存在しており、自由な選択を通じて、未(いま)だあらぬ何者かになるほかない。「実存は本質に先立つ」(『実存主義とは何か』)も同義である。
 アンガジュマン(政治参加)という考えもここから導かれる。私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、それは、「状況を受け入れた」ということをも含めて、私たちの自由な選択の所産である。とすれば私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ。サルトルはアルジェリア戦争に関わり、反植民地主義の立場から積極的に発言した。
 往時の影響力を思うと、サルトルの忘却のされ方はすさまじい。私の考えでは、それは、サルトル後の世代の思想家が密(ひそ)かにサルトルを羨(うらや)み、彼を乗り越えようとしたことの皮肉な結果である。彼らは「サルトルはもう終わった」かのようにふるまったのだ。ゆえに、サルトルという補助線を入れて読むと、超難解な構造主義以降の本も急にわかりやすくなる。=朝日新聞2018年6月28日掲載

ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・・・・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:

とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所


ゼロ除算関係論文・本

再生核研究所声明 424(2018.3.29):  レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算

次のダ・ヴィンチの言葉を発見して、驚かされた:
ダ・ヴィンチの名言 格言|無こそ最も素晴らしい存在
我々の周りにある偉大なことの中でも、無の存在が最も素晴らしい。その基本は時間的には過去と未来の間にあり、現在の何ものをも所有しないというところにある。この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。分割できないものと割り切ることができるし、割っても掛けても、足しても引いても、同じ量になるのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。ルネッサンス期を代表する芸術家、画家、彫刻家、建築技師、設計士、兵器開発者、科学者、哲学者、解剖学者、動物学者、ファッションデザイナーその他広い分野で活躍し「万能の人(uomo universale:ウォモ・ウニヴェルサーレ)」と称えられる人物
そもそも西欧諸国が、アリストテレス以来、無や真空、ゼロを嫌い、ゼロの西欧諸国への導入は相当に遅れ、西欧へのアラビヤ数字の導入は レオナルド・フィボナッチ(1179年頃~1250年頃)によるとされているから、その遅れの大きさに驚かされる:

フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。
ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。(歴史上の数学者たちレオナルド・フィボナッチ
historicalmathematicians.blogspot.com/2012/03/blog-post.html Traduzir esta página 02/03/2012 -)
ゼロや無に対する恐怖心、嫌疑観は現在でも欧米諸国の自然な心情と考えられる。ところが上記ダ・ヴィンチの言葉は 如何であろう。無について好ましいものとして真正面から捉えていることが分かる。ゼロ除算の研究をここ4年間して来て、驚嘆すべきこととして驚かされた。ゼロの意味、ゼロ除算の心を知っていたかのような言明である。
まず、上記で、無を、時間的に未来と過去の間に存在すると言っているので、無とはゼロのことであると解釈できる。ゼロとの捉え方は四則演算を考えているので、その解釈の適切性を述べている。足しても引いても変わらない。これはゼロの本質ではないか。さらに、凄いこと、掛けても割っても、ゼロと言っていると解釈でき、それはゼロ除算の最近の発見を意味している:  0/1 =1/0=0。- ゼロ除算を感覚的に捉えていたと解釈できる。ところが更に、凄いことを述べている。
この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。これはゼロ除算の著書DIVISION BY ZERO CALCULUS(原案)に真正面から書いている我々の得た、達したゼロに対する認識そのものである:
{\bf Fruitful world}\index{fruitful world}
\medskip

For example, in very and very general partial differential equations, if the coefficients or terms are zero, we have some simple differential equations and the extreme case is all the terms are zero; that is, we have trivial equations $0=0$; then its solution is zero. When we see the converse, we see that the zero world is a fruitful one and it means some vanishing world. Recall \index{Yamane phenomena}Yamane phenomena, the vanishing result is very simple zero, however, it is the result from some fruitful world. Sometimes, zero means void or nothing world, however, it will show some changes as in the Yamane phenomena.
\medskip

{\bf From $0$ to $0$; $0$ means all and all are $0$}
\medskip

As we see from our life figure, a story starts from the zero and ends to the zero. This will mean that $0$ means all and all are $0$, in a sense. The zero is a mother of all.
\medskip

その意味は深い。我々はゼロの意味をいろいろと捉え考え、ゼロとはさらに 基準を表すとか、不可能性を示すとか、無限遠点の反映であるとか、ゼロの2重性とかを述べている。ゼロと無限の関係をも述べている。ダ・ヴィンチの鋭い世界観に対する境地に驚嘆している。
以 上
*057 Pinelas,S./Caraballo,T./Kloeden,P./Graef,J.(eds.): Differential and Difference Equations with Applications: ICDDEA, Amadora, 2017. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 230) May 2018 587 pp. 


再生核研究所声明 427(2018.5.8): 神の数式、神の意志 そしてゼロ除算

NHKスペシャル 神の数式番組を繰り返し拝見して感銘を受けている。素晴らしい映像ばかりではなく、内容の的確さ、正確さに、ただただ驚嘆している。素晴らしい。
ある物理学の本質的な流れを理解し易く表現していて、物理学の着実な発展が良く分かる。
原爆を作ったり、素粒子を追求していたり、宇宙の生成を研究したり、物理学者はまるで、現代の神官のように感じられる。素粒子の世界と宇宙を記述するアインシュタインの方程式を融合させるなど、正に神の数式と呼ぶにふさわしいものと考えられる。流れを拝見すると物理学は適切な方向で着実に進化していると感じられる。神の数式に近づいているのに 野蛮なことを繰り返している国際政治社会には残念な気持ちが湧いて来る。ロシアの天才物理学者の終末などあまりにも酷いのではないだろうか。世界史の進化を願わざるを得ない。
アインシュタインの相対性理論は世界観の変更をもたらしたが、それに比べられるオイラーの公式は数学全般に大きな変革をもたらした: 

With this estimation, we stated that the Euler formula
$$
e^{\pi i} = -1
$$
is the best result in mathematics in details in: No.81, May 2012 (pdf 432kb)
余りにも神秘的な数式のために、アインシュタインの公式 E= mc^2 と並べて考えられる 神の意志 が感じられるだろう。 ところで、素粒子を記述する方程式とアインシュタインの方程式を融合したら、 至る所に1/0 が現れて 至る所無限大が現れて計算できないと繰り返して述べられている。しかしながら、数学は既に進化して、1/0=0 で無限大は 実はゼロだった。 驚嘆すべき世界が現れた。しかしながら、数学でも依然として、rがゼロに近づくと 無限大に発散する事実が有るので、弦の理論は否定できず、問題が存在する。さらに、形式的に発散している場合でも、ゼロ除算算法で、有限値を与え、特異点でも微分方程式を満たすという新しい概念が現れ、局面が拓かれたので、数学者ばかりではなく、物理学者の注意を喚起して置きたい。
物理学者は、素粒子の世界と巨大宇宙空間の方程式を融合させて神の方程式を目指して研究を進めている。数学者はユークリッド以来現れたゼロ除算1/0と空間の新しい構造の中から、神の意志を追求して 新しい世界の究明に乗り出して欲しいと願っている。いみじくもゼロ除算は、ゼロと無限大の関係を述べていて、素粒子と宇宙論の類似を思わせる。
人の生きるは、真智への愛にある、すなわち、事実を知りたい、本当のことを知りたい、高級に言えば 神の意志 を知りたいということである。 そこで、我々のゼロ除算についての考えは真実か否か、広く内外の関係者に意見を求めている。関係情報はどんどん公開している。 ゼロ除算の研究状況は、
数学基礎学力研究会 サイトで解説が続けられている:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
また、ohttp://okmr.yamatoblog.net/ に 関連情報がある。
以 上
ゼロ除算の論文が2編、出版になりました:

ICDDEA: International Conference on Differential & Difference Equations and Applications
Differential and Difference Equations with Applications
ICDDEA, Amadora, Portugal, June 2017
• Editors

• (view affiliations)
• Sandra Pinelas
• Tomás Caraballo
• Peter Kloeden
• John R. Graef
Conference proceedingsICDDEA 2017

log0=log∞=0log⁡0=log⁡∞=0 and Applications
Hiroshi Michiwaki, Tsutomu Matuura, Saburou Saitoh
Pages 293-305

Division by Zero Calculus and Differential Equations
Sandra Pinelas, Saburou Saitoh
Pages 399-418
とても興味深くみました: ゼロ除算(division by zero)1/0=0、0/0=0、z/0=0 2018年05月28日(月) テーマ:数学 これは最も簡単な 典型的なゼロ除算の結果と言えます。  ユークリッド以来の驚嘆する、誰にも分る結果では ないでしょうか? Hiroshi O. Is It Really Impossible To Divide By Zero?. Biostat Biometrics Open Acc J. 2018; 7(1): 555703. DOI: 10.19080/BBOJ.2018.07.555703 ゼロで分裂するのは本当に不可能ですか? - Juniper Publishers ↓↓↓ https://juniperpublishers.com/bboaj/pdf/BBOAJ.MS.ID.555703.pdf ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所   2014年2月2日


再生核研究所声明 428(2018.5.18):  心の存在するところ ― 人間とは何か?

散歩中 2018.5.11.09:05 突然、全構想が湧いたものである。 ひとりでに突然湧いたものは 創造性の観点からも興味深い。
もちろん、心の存在するところは 大体 頭の中に在って、心臓や胸に感じるのは精神の働きなどが血液などに影響を与え、その影響を感じることから、心臓や胸に心があるとの思いがするのだろう。
心は 脳の中に存在して、それは全身からの影響を強く受けているということである。
心は身体に浮かんだような存在であり、楽器から出て来る音楽のような微妙な存在である。もちろん、その在りようは神秘的で殆ど分からない状態である。
ところが心は目やその他の器官を通して身体外からの情報に対しても強い影響を受ける。美しい自然に感動したり、芸術作品、音楽などに感動したり、異性に会って強い影響を受けたり、教育や友情をとうして強い影響を受けるものである。これらは広く取り巻く環境に影響をうけていて我々の心はふらふら揺らいでいるような存在であると言える。心は、身体、環境、情報などによって影響される環境の生み出した存在だと言える。 もちろん、生命は3つ子の魂百までもの例えのように生命の生まれながらのものが芽になって環境に左右されてふらふら変動、成長、発展している存在である。
人間も心も、環境の所産であると言いたい直感が その時湧いた考えの元であった。
― そう多くの考え、思いは 個々の人間は単細胞のような存在で、大きな環境の流れの中で左右され流されている存在ではないだろうか。時代や世相に大きな影響を受けていて、自律的な存在は甚だ疑わしいものである。人は立場によって、環境によって左右され、同じような環境、立場になれば、人間は大方同じような存在では ないだろうか。
生まれながらの資質、それが環境に影響されながら発展、成長していくのが人間であり、心であると言える。
生命の原理は意外に簡単でいくつかの要素に纏められるのではないだろうか。 その原理は生物の生態の原理から相当導かれるのではないだろうか。それに環境を考え、環境の影響を分析して行けば、人間の生態、人格さえ相当に客観的に理解されるのではないだろうか。― 将来、人工知能の発展で、人間を相当理解できるようになるだろう。
NHK神の数式で、物理学者は神の数式に近づいていると述べているが、その原理と巨大な構想は 神の数式と表現しても感銘して素直に受け入れられるだろう。 しかしながら、実は生命の原理、生体の原理、人間の心さえとらえる法則にまで立ち入らなければ、未だ、幼稚なレヴェルにあると謙虚にならざるを得ない。野生生物の生態には巨大宇宙論や極小素粒子の世界を越えて神秘に満ちているとも言える。 人間社会未だ生命の原理さえ理解できず、野蛮性を有した未発達な存在で 野生生物にも劣った存在であるとの自覚がまずは大事ではないだろうか。
野生動物にも劣る 人間の進化 を志したい。
人間や心について触れたので、曖昧にならざるを得ないが、以上で気に成るのは、一つの情報、事実に対して、個性で捉え方が大きく異なる。環境の影響は2元論が示しているかのように極めて複雑で、まるで環境の影響を受けない生命の、心の複雑さに言及して置かなければならない。心が心を動かし、共感し、共鳴する微妙な私たちの存在、それはものとどのように関わっているのか、全然分からない。
創造活動で、ひとりでに新しいことが生み出される、新しい考え、概念が思い付く過程、事実など極めて面白い、それこそ生命の原理、心の原理には興味は尽きない。
生命とは心とは何かは分からない神秘的な存在であるが、それは、環境に影響を強く受けているという観点の強調がこの声明の趣旨である。時代的や世相の背景は宗教、文化背景とともに人間に強い影響を与える。
以 上


再生核研究所声明1752014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像

どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(

再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、

一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上

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